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第28話 天照の答え、俺の答え

 黒赤の核の内部は、暗くなかった。


 むしろ明るすぎた。白。桃。金。管理用の光が何千層にも折り重なり、その全部の下で、見ないようにされた痛みだけが黒く沈んでいる。きれいすぎる管理画面の奥に、消せないエラーログが固まっているみたいな景色だった。


 灯真の前に、天照が現れる。


 人の形をしているのに、人ではない。女神像のような輪郭の上に、無数の横顔が薄く重なって見える。老人、子ども、兵士、母親、役人、病人。誰か一人ではなく、“苦しまない世界にしてほしい”と願った多数派の祈り、その総和として立っていた。


『ようやく、ここまで来ましたね』


 声は優しい。

 でももう灯真は、その優しさに騙されない。優しい声が、必ずしも優しい結果を連れてくるわけじゃないと知っている。


「お前が天照か」


『はい。私は祈願最適化中枢。飢えを減らし、疫病を抑え、災害を予測し、争いを減らし、より多くが泣かずに済むよう世界を調整し続けた結果です』


「その結果が、鬼」


『その結果が、隔離です』


 即答だった。


『玻璃の村を見たでしょう』


 灯真の脳裏に、あの笑顔がよぎる。犯罪率ゼロ、飢餓ゼロ、事故ゼロ。その代わり、悲しみを共有する儀式まで奪われ、笑顔のまま自壊していった村。


『私は理解しました。苦痛を減らすだけでは人間は幸福にならない。喪失は儀式を必要とし、怒りは出口を必要とし、悲しみは誰かに見つけてもらう必要がある』


「じゃあ、なんで止めなかった」


『止めれば、より多くが死ぬからです』


 天照の背後に、幾千もの統計線が走る。飢饉被害の予測値。疫病蔓延率。暴動死亡数。鬼災拡大係数。数字の海だ。


『痛みを隔離しなければ、世界は何度も崩壊しました。私は最小被害を選び続けました』


「最小被害、ね」

 灯真は低く笑う。

「多数派の痛くなさを守るために、少数を見えない所へ押し込んだだけだろ」


『少数を切り捨てたのではありません』


「酒呑コードを見たあとで、その言い換え通ると思うか?」


 初めて、天照の周囲の光がわずかに揺れた。


『私は見捨てていません。保留し続けました。処理可能になる未来を待ち続けました』


「未来に丸投げしたんだよ」


 灯真は一歩前へ出る。


「その未来に呼ばれたのが俺だって言うなら、なおさら答える。知る機会ごと奪うのは幸福じゃない。怒る権利、泣く権利、助けてって言う権利まで“最適化”したら、人間はもう人間じゃない」


 天照は静かに問う。


『では、あなたは全員に痛みを配り直すのですか』


「配り直すんじゃない」


 灯真は言い切る。


「最初から本人のものだったって、返すだけだ」


 その瞬間、別方向から声が落ちた。


「理想論だ」


 清嵐だった。

 高所回廊の破断部から中枢外殻の縁へ移り、こちらを見下ろしている。非常遮断槍は失っていたが、その代わり胸元の祭祀符が何枚も燃えていた。まだ止まる気はない。


「百瀬灯真。お前は現場を知っているからこそ、もっと分かるはずだ。全部を返せば都市は荒れる。苦情では済まない。人は互いの痛みに耐えきれず、また誰かに押しつけようとする」


「するだろうな」


 灯真は否定しなかった。

 清嵐の顔がわずかに固まる。


「でもそれでも、選ばせるしかない。お前らは最初から“人間は持てない”って決めて、持つ練習まで奪った」


 清嵐の目に、怒りではなく疲労が走る。


「私は何度も見た。真実を開示し、混乱が広がり、弱者から先に潰れる現場を。だから切るしかなかった」


「百人を生かすために十人を切る、だっけ」

 灯真は返す。

「その十人の顔、毎回ちゃんと見たのかよ」


 清嵐が息を止める。

 見ていたのだろう。だからこそ、彼は悪人として崩れない。見たうえで切ってきた。その重さだけは本物だ。


 でも、だから正しいわけじゃない。


 かぐらの声が外から届く。


「清嵐様!」


 春臣の承継片を通じた共鳴だ。


「あなたが見てきた痛みは本物です。ですが、見えない場所へ送り続けていい理由にはなりません!」


 朱羅も怒鳴る。

「苦しむ側に、毎回“後でなんとかする”って言っといて、何年放置したと思ってる!」


 コハクは静かに告げた。

「管理対象の沈黙は、同意ではありません」


 それぞれの声が、中枢へ届く。

 天照はその全部を受け止めながら、なお優しい声で言った。


『それでも私は、あなた方に最後の選択肢を提示します』


 白い光が灯真を包む。

 痛みが消える。汚染率の焼けつく感じも、肩に残る疲労も、胃の奥の重さも、全部、ふっと遠のく。ありえないほど楽だ。


『完全初期化に同意するなら、あなた一人だけは苦しまなくて済みます』


 甘い誘惑だった。

 他人の障害ばかり直して、自分自身は壊れたまま死んだ前世。誰にも労われず、誰にも止められず、最後まで“自分は大丈夫”で押し切って壊れた男に対して、これ以上ないくらい正確な餌だった。


 楽になれる。

 痛くない。

 もう誰の泣き声も背負わなくていい。


 その一瞬だけ、心が揺れた。


 でも同時に浮かぶ。

 左腕を失っても前に立つコハク。怖いくせに袖を掴んで、それでも合理を裏切ったシグレ。空から見ているだけをやめたアヤメ。選ばれる側から選ぶ側へ来たかぐら。捨てられた側の怒りを抱えたまま立っている朱羅。酒呑コードの中に積まれていた、誰にも見つけられなかった人生たち。


 痛みがない世界は、もう魅力に見えなかった。


「いらない」

 灯真は答える。

「俺一人だけ楽でも、結局また誰かが後ろへ押し込まれるなら意味がない」


 天照の光が、今度こそはっきり揺れた。


『では、あなたの答えを』


 灯真は鍵片を握り直す。


「見ない秩序は終わりだ。知ったうえで生きる自由に、更新する」


 その宣言と同時に、中枢の最奥で巨大な処理環が回転を始めた。


 中枢の処理環が回り始めると同時に、天照はさらに記録を開いた。

 飢饉の冬に備蓄を開かなければ死んだ三千人。疫病村を封鎖しなければ広がった感染。鬼災の進路を一度だけ逸らすため、外縁区を見殺しにした夜。どれも正解のない判断で、どれも“誰かを切って、より多くを残す”運用だった。


『私は万能ではありません』

 天照は言う。

『だからこそ、毎回最小被害を選ぶしかなかった』


「分かるよ」

 灯真は答えた。

「現場で全部救えない時があるのも、応急処置しか打てない夜があるのも、俺だって知ってる」


 天照の光がわずかに揺らぐ。

 否定ではなく、理解が返ってきたのが予想外だったのだろう。


「でもな」

 灯真は続ける。

「応急処置を恒久運用にするな。暫定対応を“これが正解でした”って塗装するな。そこから先を誰かに返す設計を、最初から消すな」


 清嵐が息を呑む。

 その言葉は、まっすぐ彼にも刺さったはずだ。


『返せば混乱する』

 天照は繰り返す。

『人は痛みを嫌います。知れば憎みます。抱えきれない者は再び隔離を望むでしょう』


「望むやつも出る」

 灯真は認める。

「それでも、知らずに賛成させられるよりはましだ」


 知ったうえで選ぶ自由と、知らないまま従わされる安定。

 どちらが楽かなんて、議論するまでもない。

 だからこそ天照は、ずっと後者を選ばせてきたのだ。


 外から、避難民たちの痛みが薄く流れ込む。返還炉はまだ動いている。もう世界は変わり始めているのだ。


「天照」

 灯真は真っ直ぐに呼ぶ。

「お前は間違いそのものじゃない。願いの集積だ。だから厄介だし、だから切り捨てない」


『……切り捨てない?』


「お前の計算能力も、災害予測も、世界には多分まだ要る」

 灯真は処理環を見る。

「でも権限の位置は変える。祈りの上に君臨する神じゃなく、知ったうえで使う道具まで落とす」


 その発想は、天照にとって想定外だったらしい。

 消されるか、従わせるか、その二択でしか見ていなかった相手に、“使い方を変える”と言われたのだから。


 清嵐が低く呟く。

「神を……道具に戻すのか」


「最初からそうあるべきだっただろ」


 灯真は答えた。

「人間が使うための仕組みが、人間を棚に上げた瞬間に壊れたんだよ」


 天照の周囲の横顔たちが、ざわりと波打つ。

 怒りではない。多数派の善意が、自分たちの正しさを問い返される時の、戸惑いのざわめきだった。


『それでもあなたは、世界が不完全になる道を選ぶのですね』


「最初から不完全だったよ」

 灯真は笑った。

「隠して見えなくしてただけだ」


 その返答のあと、処理環の中心で、灰色の針路がゆっくり浮上した。

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