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第23話 眠りの海は請求書を返す

 昇降路は、上へも下へも見えなかった。


 ただ白い筒の内側を、桃色の記録線が螺旋みたいに走っている。階段ではなく、判断の井戸だ。足を踏み入れた瞬間、誰をどこまで通すかを層ごとに値踏みしている気配があった。


「嫌なエレベーター」

 シグレがぼやく。

「乗る前から人格審査してくる」


 灯真たちが踏み込むと、背後で桃色の海が盛り上がった。さっきの人型たちが、井戸の縁へ次々と手をかける。


「早く!」

 アヤメが叫ぶ。


 コハクが最後尾で盾を構えた。人型の手が触れるたび、盾面に細かな桃火花が散る。実体の薄い敵だが、圧は本物だ。数だけで押し潰す気満々だった。


 かぐらが承継片を昇降路中央へ差し込む。

 すると筒の内壁一面へ、古い祭祀文字がぶわっと広がった。


《継承確認。春臣系保留手順、限定解放》


「保留手順って」

 灯真が顔をしかめる。

「この世界、ほんと保留でなんでも積むな」


「後回し文明なんでしょうね」

 シグレが言った。

「その末路がこれ」


 昇降路が動き出す。

 落ちるでも昇るでもなく、周囲だけが流れていく奇妙な感覚だった。白壁の向こうに、次々と別層の断面が見える。病棟、貯蔵庫、結界室、貧民区、祭祀塔上層。王都の各所へ伸びる線が、ぜんぶこの地下へ繋がっている。


 その中の何本かが、ひどく黒ずんでいた。


「なんだ、あれ」


 シグレが目を細める。

「未処理負荷の太線。要するに、天照が受けたけど消し切れなかった分」


「痛みの借金ってこと?」とかぐら。


「そう」

 シグレは頷く。

「救った瞬間に全部なくなるわけじゃない。痛み止めは痛みそのものを消さないし、眠りは問題解決じゃない。だから残る。その残りを都市全体で薄く持つか、どこかにまとめて積むか。天照は後者を選んだ」


 朱羅が吐き捨てる。

「しかも積んだ場所を神殿扱いして隠した」


 灯真は黒ずんだ太線を見る。

 一本一本が、誰かの泣き損ねた分だ。叫べなかった恐怖。押し込められた苦痛。誰かが“助けて”と言った時、その場では処理しきれず後ろへ回された重み。


「請求書だな」

 灯真は言った。

「眠らせて先送りしたぶんが、まとめて返ってきてる」


 その表現がしっくり来すぎて、全員しばらく黙った。


 昇降路の中ほどで、急に激しく軋む。

 内壁の一部が赤く変わり、黒ずんだ太線がこちらへ膨らんできた。


「まずい、未処理負荷が逆流してる!」

 アヤメが上から叫ぶ。

「追ってきた人型群と共鳴しています!」


 言うが早いか、昇降路の中へ黒い手が突き出した。

 桃色じゃない。もっと鈍く濁った色。爪も輪郭も曖昧なのに、触れられたら厄介だと直感で分かる。


 コハクが盾で弾く。だが今度は散らない。


「実体化率、高め」


「何が違う!」


「負荷の濃度です。長期保留分ほど形が強い」


「最悪だな!」


 黒い手が何本も這い出る。そこから現れた人影は、さっきの桃色人型よりずっと歪だった。顔がない。代わりに、傷口みたいな穴が胸元に開いている。


「未処理負荷が、自分のまま出られないんだ」

 かぐらが苦しそうに言う。

「痛みだけが形になってる」


 朱羅が短剣を振るい、胸の穴ごと断つ。黒影は裂けたが、すぐ二つに増えた。


「分裂したんだけど!」


「切断相性が悪い!」とシグレ。

「総量を減らさないと増えるタイプ!」


 灯真は舌打ちし、昇降路の壁面へ目を走らせた。

 黒ずんだ太線。そこに小さな弁がいくつもある。負荷の流量調整弁。つまり総量そのものは無理でも、供給を絞ることはできるかもしれない。


「シグレ、弁を閉じたらどうなる!」


「一気に閉じると他層へ吹き返す!」


「じゃあ分けろ!」


 シグレの目がぱっと鋭くなる。

「……なるほど。均等化じゃなく、薄め直す」


 彼女は壁へ飛びつき、工具杭を三つ同時に打ち込んだ。アヤメが上空から流量線の位置を叫び、かぐらが祭祀文字の訓を読み替え、コハクが黒影の押し込みを防ぐ。朱羅は最も濃い個体だけを足止めする。


 灯真は中央制御の輪を掴んだ。

 熱い。いや冷たい。触感が矛盾していて気持ち悪い。


「やるぞ」


 《一寸界侵》を細く流し、太線の束を三本へ“解く”。切るんじゃない。まとめられすぎた苦痛を、再び都市側へ薄く戻すのだ。


 乱暴な応急処置だった。

 でもここで濃縮されたまま襲わせるよりはましだ。


 黒影の輪郭がぶれる。

 一体、二体、三体。胸の穴が少しずつ浅くなる。濃すぎた痛みが、再び散らばっていく。


 シグレが息を切らしながら言った。

「完璧じゃない! でも請求書を分割払いには戻せた!」


「借金の先送りでドヤるな!」


「今はマシな先送りが正義!」


 そのやり取りの最中、昇降路の最下層表示が点灯する。


《返還炉前 要注意》


 かぐらが承継片を見つめたまま呟く。

「返還炉……」


 灯真は眉を寄せる。

「返すための炉?」


「はい。たぶんお父様が最後まで残そうとした、元に戻す手順の心臓部です」


 朱羅が鼻で笑った。

「つまり、あいつらが一番消したかった機能」


 昇降路が止まる。

 扉の向こうから、重い水音みたいな脈が聞こえた。

 しかも一つじゃない。何百、何千という小さな脈が、向こう側で重なっている。


 清嵐の声が、どこからともなく降ってくる。


『そこを開けば、君たちは本当に知ることになる』


「何を」

 灯真は問う。


『王都が今まで誰の代わりに泣かずに済んできたかを』


 扉の封印線が、一本ずつ赤く灯った。


 下降の最中、壁の断面に一つだけ見覚えのある区画が映った。

 第三搬入口だ。そこでは白衣姿の整備兵が何人も膝をつき、頭を押さえていた。返還炉起動前なのに、薄め直した負荷がもう現場へ戻り始めている。


「早い……」

 アヤメが目を見開く。

「都市側の反応が、予想よりずっと早いです」


「痛みってそういうもんだろ」

 シグレは壁を睨んだまま言う。

「ずっと無かったふりしてたものほど、戻った瞬間に“最初からいた”顔をする」


 その言葉は、妙に胸へ刺さった。

 灯真自身にも覚えがある。見ないふりした不具合ほど、後から大事故の顔で戻ってくる。


 黒影を薄めたことで、完全な解決には程遠い。でも一つだけ確かなのは、“なかったこと”では済まなくなったという点だ。


 朱羅が昇降路の壁へ寄りかかり、ぽつりと呟く。

「王都の上にいる連中、いきなり理由の分からない息苦しさとか、意味もなく泣きたくなる感じとか、そういうの食らうんだろうね」


「多分な」

 灯真は答える。

「で、その時に初めて、自分たちが何かを預けてたって気づく」


「優しくないね」


「うん。でも必要だ」


 かぐらは承継片を胸元へ押し当てたまま、苦しそうに息を吐く。

「本当は、もっと穏やかに返したいです」


「分かる」

 灯真は言う。

「でも穏やかに返す手順ごと隠してたの、向こうだからな。雑になる責任まで、こっちだけで被らなくていい」


 その返答に、かぐらは少しだけ救われた顔をした。

 全部を背負わなくていい、と言われるだけで、人は少し前に出られる。


 昇降路の警告がさらに増える。


《返還炉前 封鎖率上昇》

《管理者権限による上書き進行中》


「清嵐が先回りしてる!」

 アヤメが叫ぶ。


 灯真は黒ずんだ太線の残滓を見る。

 まだ薄くなりきっていない。なら最後にもうひと押しだけ使える。


「シグレ、残りの負荷、全部消せなくても壁面へ擦りつけられるか」


「何に使う気?」


「封鎖上書きへのノイズ」


 シグレの顔が、嫌な方向へぱっと明るくなる。

「できる。すごく嫌がらせだけど」


「よし採用」


 二人で壁面弁を捻り、薄めた負荷の一部を封鎖線へ擦り流す。綺麗な制御文字の上に、返還待ちのざらついた感情ノイズが乗る。システムとしては最低だ。でも管理者上書きを遅らせるには十分だった。


 扉前表示が一瞬だけ乱れ、赤が桃へ戻る。


「開ける猶予、増えました!」とアヤメ。


 灯真は息を吐いた。

 汚い手だ。でも相手が綺麗な言葉で汚いことをしてくるなら、こちらは汚い手を正面から使うしかない。

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