第21話 祈りを捨てる宣言
一本切れたことで、終わりにはならなかった。
むしろ前庭全体が、それを異常として認識したらしい。床の円環がすべて深紅へ変わり、白壁の奥から低い駆動音が幾重にも重なる。管理者層が本気でコハクを回収しにきたのだ。
「まだ来る!」
アヤメが上空から叫ぶ。
だが切れた一本は無駄ではなかった。コハクの表情に、はっきりと自分の意思が戻っている。
「接続圧、四割低下」
彼女は立ち上がった。
「残りは私も切れます」
「一人でやるな」
灯真は即座に言う。
「今の話、もう忘れたか。お前は仲間だ」
コハクは一瞬だけ目を見開き、それから小さく頷いた。
その頷きが、妙に人間くさくてよかった。
前庭の最奥では、巨大な白扉が完全に姿を現していた。縦に三本の封印線。中央には古い祭祀文字が刻まれている。
かぐらが読み取る。
「……《終端権限前にて、祈りを捨てる宣言を要す》」
「何それ」
シグレが顔をしかめる。
「ラスボス部屋に入る条件が思想チェックってこと?」
「たぶんそう」と灯真。
「しかも“祈るな”じゃなく、“祈りを捨てる”って書いてある。つまり願いを誰かに預ける態度そのものを否定させたいんだ」
天照にとって都合の悪い者だけが、先へ進める構造。
皮肉としては最悪だが、理屈は通っている。
問題は、その宣言を誰が行うかだった。
かぐらが扉の前へ進む。
朱羅も無言で隣へ立った。
「お姉ちゃん」
朱羅の声に、かぐらは少しだけ肩を揺らす。
「巫女の言葉は重いでしょ。たぶんこの扉、あなたの系統権限を見てる」
「……うん」
「でも一人で言わせるの、嫌なんだけど」
ぶっきらぼうだった。
けれどその言い方が、逆に朱羅らしかった。
「私も言う」
朱羅は続ける。
「祈って待ったせいで、誰かが勝手に神様を名乗るなら、そんな仕組みはもういらない」
かぐらの喉が小さく震えた。
それでも彼女は逃げなかった。
「……はい。一緒に」
背後では白兵端末がさらに迫る。コハクとアヤメがそれを受け、シグレが床紋の暴走をいなし、灯真が残る鎖の結節を睨む。時間はない。
かぐらと朱羅は、白扉へ同時に手を置いた。
「私は月代かぐら」
「私は朱羅。月代アキラだったもの」
血筋と欠損、その両方を名乗る。
それだけで扉の封印線が一つ明滅した。
「祈りを、捨てます」
かぐらは言った。
声音は静かだ。だが祈る者の声音ではない。選ぶ者の声だ。
「誰かに痛みを引き受けてもらうためではなく、誰かへ決定を丸投げするためでもなく、私たちは自分で決めるために進みます」
朱羅が続ける。
「助けてって願うことを否定しない。でも、それを利用して上に座る神様は否定する」
二本目の封印線が消える。
天照の声が、初めてほんのわずかに揺れた。
『それは未熟です。人は必ず縋ります。必ず疲れます。必ず誰かに委ねたくなる』
「うん、なるよ」
灯真は鎖を断ちながら答えた。
「でも縋る相手を固定されるのが嫌なんだよ。あと、委ねたあと返ってこないのはもっと嫌だ」
シグレが笑う。
「ほんとそう」
最後の封印線が残る。
白兵端末が一体、かぐらたちへ迫った。その刃をコハクが盾で受ける。まだ肩口には切れ残った鎖が絡んでいるのに、彼女は一歩も退かなかった。
「宣言を継続してください」
その声にはもう命令口調しかなかったのに、不思議と以前よりずっと優しかった。
かぐらは息を吸う。
「私は、祈りを道具にしません」
朱羅も重ねる。
「私は、痛みを燃料にする神を認めない」
最後の封印線が、砕けた。
白扉がゆっくりと開く。
その先に広がっていたのは、部屋ではなかった。
夜空みたいな巨大空洞。
頭上には逆さに吊られた王都の光図。足元には桃色の海。中央には一本の巨大柱が天と地を貫き、その内部で無数の人影が眠っている。
都市そのものが、一本の柱へ寄生していた。
「……なんだよ、これ」
灯真の喉が乾く。
答えはすぐ目の前に現れた。
巨大柱の前に、白装束の人影が一つ。
光像ではない。輪郭がぶれない。影もある。呼吸もある。
桃上院清嵐、本人だ。
そして彼の隣には、もう一つ。
透き通る桃色の棺の中で眠る男がいた。
かぐらが、声を失う。
「……お父様?」
清嵐は静かに微笑んだ。
「ようやく、家族会議の席が整いました」
その一言で、前庭までの戦いとは別種の寒気が全員を貫いた。
棺の中の男は眠っているだけに見えた。
けれど近づくにつれ、その眠りが自然なものではないと分かる。胸元から巨大柱へ桃色の管が何本も伸び、脈動に合わせて微かな光が往復している。眠らされているのではない。接続されている。
かぐらの顔色が変わった。
「維持ではなく……演算補助です」
清嵐は否定しなかった。
「さすがだ、かぐら姫。あなたの父、月代春臣は最後まで祭祀系の例外処理を抱え込んだ。だからこそ、眠っていても価値がある」
その言い方に、灯真の胃が冷えた。
生きている人間へ向ける敬意が一かけらもない。丁寧な声音のまま、人を機能へ言い換える。
「価値って言うな」
灯真の声は思ったより低かった。
清嵐は静かに首を傾げる。
「では何と言えば満足だ」
「父親だろ」
単純な返答だった。だがその単純さこそ必要だった。
価値、適合率、維持効率、最適化。ここまで散々、綺麗な単語で人間が削られてきた。だからこそ、乱暴なくらい直接の言葉で刺し返す。
かぐらは棺へ一歩近づいた。
朱羅も、今度は止めなかった。
「お父様は……反対していたんですね」
問いかけというより確認だった。
清嵐は淡々と答える。
「そうだ。春臣は優秀だったが甘かった。返却日を残そうとした。慈悲の眠りを仮設で終わらせようとした。だが現実は、仮設を本設に変えなければ回らなかった」
「だから眠らせた?」
「だから残した」
その言い換えが、本当に嫌だった。
罪悪感すら美化するための語彙だ。
朱羅が棺を睨む。
「私の時も、そうやって言い換えたんでしょ」
清嵐は沈黙した。
否定しないことが答えだった。
コハクがこちらへ並ぶ。残る鎖は肩口に細く絡む一本だけ。だがもう、さっきまでみたいな“引きずられる感じ”はない。
「灯真」
「おう」
「私は進めます」
その短い宣言が、妙に頼もしかった。
巨大柱の奥で、ようやく天照の本体声が直接響く。
『争う必要はありません』
空洞全体が震える。
声はやはり優しい。けれど今はもう、優しいからこそ警戒できた。
『春臣はここで世界を支えています。苦しみを減らし、崩壊を遅らせ、都市を生かしている。彼を外せば王都は揺らぐ。多くが泣く』
それは脅しであり、事実でもあるのだろう。
だからこの敵は面倒なのだ。嘘だけなら、もっと簡単に怒れた。
かぐらはしばらく黙っていた。
そして棺を見たまま、ぽつりと言う。
「泣く人が出るのは、嫌です」
清嵐が微笑みかける。
「なら理解できるはずだ」
「でも」
かぐらは顔を上げた。
瞳が、もう揺れていない。
「だからといって、お父様に永遠に支えさせるのは違います」
清嵐の笑みが止まる。
「今まで誰か一人に預けてきたから、皆が考えなくなったんです。祈れば誰かが処理してくれると思った。苦しい人を見ても、“上がなんとかしてくれる”って思った。そうやって積み重なった結果が、ここなんでしょう」
その言葉は、祈りの否定ではない。
依存の固定化への否定だ。
灯真は横で小さく息を吐く。
もう十分、前へ進んでいる。かぐらは“守られる巫女姫”の役をとっくに踏み抜いていた。
清嵐は初めて、感情を露わにした。
「理想論だ」
たった一言。だが重かった。
「都市は、人の善性だけで保てない。誰かが汚れ役を引き受けねばならない。泣かれ、憎まれ、誤解されても、止めてはならない機構がある」
「なら」
灯真は一歩前へ出る。
「止めたら終わるように作った時点で、お前らの設計負けだ」
空洞の空気が凍る。
「冗長化しろ。返還手順作れ。応急措置を恒久化するな。人を一本刺して都市を立たせるな。システム屋として、言いたいことはそれだけだ」
シグレが後ろで笑った。
「今の、かなり好き」
清嵐の視線が灯真へ固定される。
その目には、もう最初の余裕がなかった。
「……異邦の技師気取りが」
「気取りじゃなくて現場上がりだよ」
灯真は鍵片を握り直す。
かぐらは棺の前へ、朱羅はその左へ、コハクは右へ、シグレとアヤメは背後の退路制御へ散る。
誰も命令されていないのに、自然と布陣が決まった。
その瞬間、巨大柱の内部で無数の人影が一斉に目を開いた。
眠っていたはずの人々の瞳が、全員同じ桃色に染まる。
天照が告げた。
『では、実証しましょう。あなたたちが奪おうとしているものの重さを』
桃色の海が、足元で波立った。




