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第2話 三秒で鬼を止めろ

 鬼は、真正面から見ると理不尽そのものだった。


 城門を踏み砕いた巨体は、黒というより焼鉄色に近い皮膚を持っていた。筋肉の線は不自然に盛り上がり、その表面を赤い脈動が這っている。生き物の息づかいというより、内部で別の機械が回っているみたいな脈の打ち方だった。


「隊列を組め! 勇者様を下げろ!」


 兵士たちが叫び、槍を構える。だが腰は引けていた。分かる。あれは人間が“相手をしていい大きさ”ではない。


 そこで、黒い影が前へ出た。


 黒髪。黒い装甲外套。大盾を背負う女騎士。


「近衛機コハク、迎撃行動へ移行します」


 感情の薄い声。なのに一歩踏み込んだだけで石畳がひび割れた。


 次の瞬間、鬼の腕が振り下ろされる。コハクの大盾が受け止め、重い衝撃が空気ごと王都に叩きつけられた。風圧だけで、後方の灯真の頬が痛い。


 だが灯真が見ていたのは、重さではない。


 鬼の攻撃は速い。速いのに、読みやすい。


 右脚に重心が乗る。

 左肩が少し先に沈む。

 そのあと、ほんのわずかに遅れて腕が来る。


「制御遅延……?」


 ぽつりと漏らした瞬間、鬼がもう一撃叩き込んだ。コハクが受ける。押される。兵士たちが左右から飛び込み、まとめて薙ぎ払われる。悲鳴。血。砕ける石。


 それでも灯真の頭は妙に冷えていた。


 なんでラグがある。

 生き物の動きじゃない。重心移動に対して出力が遅れる理由がある。どこかで制御系が噛んでる。だったら止める場所は四肢じゃない。中枢か、その手前の伝達点だ。


「勇者様、下がって!」


 誰かの声が遠い。


 鬼がこちらを見た。

 赤い眼が、まっすぐ灯真を捉える。


 逃げなきゃいけない、と理性は理解した。

 なのに身体の奥で、別の何かが弾けた。


 視界が一瞬で縮む。

 いや、世界が広がった。


 石畳の亀裂が谷みたいに大きく見える。空気の流れが壁になり、音が引き延ばされて聞こえる。遠くでコハクが叫んでいるが、声が水の底から届くように遅い。


「――これ、まさか」


 自分の手に、針みたいに細い短剣が握られていた。覚えのない武器なのに、なぜか“使い方だけ”は知っている。


 鬼の脇腹。皮膚の裂け目。赤黒く脈打つ内部。

 灯真はそこへ飛び込んだ。


 熱い。臭い。血と焦げた鉄と、配線が焼ける臭いが鼻を刺す。


 内側は肉だけじゃなかった。黒い繊維束が走り、その間に淡く光る管が脈打っている。生物の内臓にしては規則的すぎる。機械にしてはぬるすぎる。


「だからか……生体と制御系が、無理やり繋がってる」


 理解した瞬間、恐怖より先に、見慣れた感覚が来た。


 壊れたシステムを前にした時だけ訪れる、あの静けさだ。


 問題発見。

 構造把握。

 停止点特定。


 鬼は巨大だ。外から見れば圧倒的だ。けれど中では違う。ここにも構造がある。止めるべき箇所がある。どれだけ恐ろしくても、壊れているものは直せるか止められるかの二択だ。


 灯真は赤い脈動を追った。

 一番太い流れじゃない。

 そのひとつ手前、中継点だ。そこだけ、信号の遅れが大きい。出力に対して負荷が高すぎる。なら、止めるならここ。


 短剣を逆手に構える。


「止まれ」


 刺した。


 ぐずり、と嫌な感触が手に返る。


 その瞬間だった。


 頭の中へ、誰かの泣き声が流れ込んできた。


 暗い。

 寒い。

 腹が減った。

 痛い。

 おなかすいた。

 こわい。

 扉、閉めないで。

 母さん。

 母さん。

 まだ行きたくない。

 なんで。

 なんでぼくなの。


「っ、あ……!」


 灯真は息を詰めた。


 知らない子どもの声が、知らない恐怖が、知らない死の手触りが、全部自分の記憶みたいに喉へ流れ込んでくる。これは映像じゃない。観察じゃない。生きている。たった数秒なのに、その子が見た最後の世界を、自分の身体でなぞらされる。


 だが、ここで手を離せば外で人が死ぬ。


 だから灯真は歯を食いしばり、刃をさらに押し込んだ。


     *


 外では、三秒も経っていなかった。


 巨大鬼が灯真へ腕を振り下ろしかけた、その瞬間。

 鬼の全身が硬直する。

 赤い脈動が一度だけ大きく跳ね、それから糸が切れた操り人形みたいに崩れ落ちた。


「……は?」


 兵士の一人が間抜けな声を漏らす。


 コハクでさえ、一拍遅れて状況を認識した。


「停止……?」


 土煙が舞う。崩れた巨体の肩口から、小さな影が転がり落ちた。

 灯真だった。


 誰も、どうやったのか分からない。

 ほんの数秒前まで王都の門を踏み砕いていた巨大鬼が、勇者が飛び込んだ直後、一瞬で沈黙したのだ。


「あ、あんな巨大鬼を……」

「一歩も下がらず……?」

「無傷で、仕留めただと……!?」


 ざわめきが波のように広がる。

 勇者。

 神業。

 奇跡。

 救世主。


 そんな言葉が飛び交う中、灯真は膝をついた。


 視界が揺れる。喉が焼ける。

 そして次の瞬間、胃の中身を全部吐いた。


 石畳に散る酸っぱい液体。勇者を称える声が、一瞬で止まる。


 灯真は肩で息をしながら、吐瀉物の上に片手をついた。指先が震えて止まらない。泣き声がまだ耳の奥に残っている。小さな手で扉を叩く感触が、まだ自分の皮膚の裏にある。


「勇者様……?」


 兵士の一人が、おそるおそる近づく。

 灯真は答えられなかった。


 代わりにコハクが無言で進み出て、彼の前へ片膝をつく。黒い瞳が、初めて“兵器の確認”ではなく“個体の安否確認”の色を帯びる。


「百瀬灯真。応答を」


「……生きてる」


 絞り出すと、コハクはほんのわずかに肩の力を抜いたように見えた。


「了解しました」


 淡々とした返答。だがその一拍に、機械としての手順ではないものが混じった気がした。


 兵士たちはまだ興奮していた。


「本当に勇者だ……!」

「桃から生まれた英雄だ!」

「鬼を、一撃で……!」


 違う、と灯真は思った。

 一撃じゃない。中に入った。壊れた箇所を見つけた。刺して止めた。ただそれだけだ。


 だが、その“ただそれだけ”に、誰かの人生が混ざっていた。


 鬼は本当に、ただの怪物だったのか。

 あの泣き声は何だったのか。


 その時、鬼の残骸を調べていた兵士が、引きつった声を上げた。


「おい、これを見ろ!」


 全員の視線が集まる。


 鬼の胸部装甲――いや、皮膚の奥から露出した黒い部材の隙間に、金属片が引っかかっていた。兵士が震える手でそれを拾い上げる。


 白地に桃色の紋章。

 白桃王国の紋章だった。


「な、なんで鬼の中に、王国の……」


 ざわめきが今度は別の意味で広がる。


 灯真は吐き気の残る身体を引きずりながら、その金属片を見つめた。後付けで混ざった傷じゃない。内部構造の一部として埋まっていた。


 つまり、この鬼は。

 王国と無関係じゃない。


 背筋を、冷たいものが走った。


 兵士たちはまだ理解できていない。だが一人だけ、表情を変えなかった者がいた。

 コハクだ。


 黒髪の女騎士は金属片と灯真を見比べ、静かに言う。


「……報告優先順位が変わりました」


「何が」


「あなたの戦闘能力評価と、この鬼の由来調査です」


 その声は機械的なままだった。

 なのに灯真は、そこに微かな警戒と、微かな期待が混じっている気がした。


 王都の空では、砕けた門の向こうに赤い夕焼けが燃えている。

 その赤が、鬼の目の色と同じだと気づいてしまって、灯真はひどく嫌な気分になった。

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