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第1話 桃から来た勇者

 障害通知は、たいてい人が眠ろうとした瞬間に鳴る。


 百瀬灯真は、その事実を経験ではなく諦めとして知っていた。


 午前二時三十七分。暗いワンルームの空気を裂くように、ノートPCの画面右下へ赤いアラートが浮かぶ。生活インフラ統合管理AIハルシオン、応答異常。電力、給水、物流、交通信号。そのどれか一つでも巻き込めば数万人単位で生活が止まる。人間の都合なんて一ミリも待ってくれない種類の障害だった。


「……最悪だろ」


 誰に言うでもなく呟き、灯真は冷えた缶コーヒーを口に含んだ。ぬるい。苦い。だが、飲まないよりは頭が回る。


 社内チャットはすでに悲鳴で埋まっていた。


『再起動で戻りません!』

『上位権限が応答しないです!』

『現場から至急って、信号停止の問い合わせが来てます!』

『百瀬さん見てますか!?』


 見てる。むしろお前らより見てる。


 そう返す気力もなく、灯真は仮想端末を三つ立ち上げた。ログを吸い、依存関係をたどり、異常系の発火点を洗う。画面上では数字と英字が洪水みたいに流れているのに、頭の中だけが逆に静かになっていく。


 こういう時だけ、世界は分解されて見えた。


 どこが壊れているのか。

 どこを切れば延焼を止められるのか。

 どう繋ぎ替えれば朝まで保つのか。


 それだけが、ひどく鮮明だった。


「おいおい……そこで循環参照起こすかよ」


 ひとつ目の原因候補を切る。違う。

 二つ目のログ束を洗う。違う。

 三つ目でやっと引っかかった。


 優先制御レイヤーに入るはずの保守パッチが、旧世代モジュールの例外処理と噛み合わず、自己修復ループごとスタックしている。新人がやらかしたのか、無理なスケジュールで現場に押し付けた上が悪いのか、その両方か。どのみち今は犯人捜しの時間じゃない。


 灯真は笑いそうになった。


「それ、運用で誤魔化してるだけだろ……」


 壊れているのはコードだけじゃない。

 人員配置も、承認フローも、深夜オンコール前提の勤務体系も、全部まとめて欠陥品だ。

 でも、その欠陥を毎回つぎはぎして朝まで持たせるのが自分の仕事だった。


 修正案を流し込む。

 シミュレーション。応答復帰率七二%。低い。

 条件を変える。例外処理系を一系統切る。バックアップ経路へ強制迂回。九一%。

 まだ足りない。古い権限テーブルを切り戻し、修復優先順位を手動変更。九七%。


「よし、そこだ」


 実行。


 数秒の沈黙ののち、アラートの波形が変わった。赤が黄色になり、黄色が白へ戻っていく。止まっていた監視窓に、順番に心拍みたいな正常値が灯る。


『復帰しました!』

『交通系、再接続!』

『給水も戻りました!』

『百瀬さん神ですか!?』


 神なわけがない。

 雑に積まれた欠陥を、いつものように無理やり縫っただけだ。


 灯真は椅子にもたれた。目の奥が熱い。頭痛がする。胃の底にコーヒーと空腹が重なって、嫌な酸味を上げてくる。


 そういえば、昨日から何も食っていない。

 いや、一昨日かもしれない。日付感覚も、もう曖昧だった。


 チャット欄へ、上司から短いメッセージが飛ぶ。


『朝会で原因説明よろしく』

『あと恒久対策案も今日中に』


 灯真はしばらくその文面を見つめ、それから小さく笑った。


「今日中って。今日、まだ続いてたのかよ」


 立ち上がろうとして、膝が机に当たった。感覚が一拍遅れる。おかしい。徹夜明けなんて何度もあった。だがこれは違う。身体の芯のところが、もう空っぽだ。


 スマホが震えた。母からだ。数日前のメッセージへの追撃だった。


『ちゃんと食べてる?』

『生きてるならスタンプでいいから返して』


 親指を動かしかけて、止まる。あとで返そう。少し寝て、頭が回るようになってから。


 だが、その「あとで」は来なかった。


 視界が、唐突に傾いた。


 椅子ごと倒れる感覚。床に打ちつける肩。遠くで誰かが叫ぶ声。救急。意識。AED。そんな単語だけが、水の底から聞こえる会話みたいにぼやけていく。


 最後に灯真が思ったのは、ひどく仕事じみたことだった。


 ああ、ログ採取が足りない。

 朝にはまたどこかが――


     *


 水の音がした。


 さらさらと、一定の速さで流れる音。サーバーのファンでも、通知音でも、隣人の足音でもない。ひどく静かで、ひどく遠い。


 目を開ける。


 最初に見えたのは、淡い桃色だった。


「……は?」


 視界の内側が丸い。いや、楕円だ。透明な膜の向こうを水が流れている。光がゆらゆらと揺れ、内壁を柔らかく染めていた。


 灯真は身を起こした。ぬるい液体が肩から滑り落ちる。服は消えていて、代わりに薄く柔らかい布が身体を覆っている。寝間着にしては上等すぎた。


「どこだ、ここ……」


 言葉を発した瞬間、自分の声が妙に若い気がして、灯真は眉をひそめた。


 手を見る。細い。白い。死ぬ直前の、キーボードだこと寝不足で荒れた手ではない。傷も、ひび割れも、ほとんど消えていた。


 ごとん、と外から衝撃が来た。


「流れ着いたぞ!」

「本当に桃だ……! でかい!」

「割れ目がある、開けろ! 丁重に扱え、巫女姫様に報告しろ!」


 知らない言語のはずなのに、妙にはっきり意味が分かる。


 次の瞬間、桃色の内壁にひびが走った。まぶしい光が差し込み、冷たい外気が流れ込んでくる。


 割れた隙間の向こうには、甲冑姿の兵士たちがいた。


「う、うわ……本当に人が……」

「桃から……?」

「まさか、伝承の――」


 一人が、息を呑みながら言う。


「――桃太郎だ」


 冗談だろ、と思った。


 だが誰も笑っていない。兵士たちは本気で目を見開き、中には膝をつく者までいる。


「白桃王国に、ついに勇者が……!」

「鬼ヶ島を討つ御方が……!」


 白桃王国。鬼ヶ島。桃太郎。


 単語だけなら昔話だ。なのに目の前にあるのは、川辺に立つ兵士たちと、見上げるほど白い城壁、遠くに翻る桃色の旗だった。


「……夢、じゃないのか」


「お名前を! 勇者様、お名前を!」


 反射的に口が動く。


「百瀬……灯真」


 その名前を言った瞬間だけ、自分が“さっきまで死んでいた側の人間”だったことを思い出した。


 兵士は深く頭を下げた。


「百瀬殿。巫女姫様のもとへご案内いたします」


 運ばれるようにして城へ向かうあいだ、灯真は周囲を観察した。石造りの道路、高い塔、昔話じみた衣服。けれど、城壁の継ぎ目や門の留め具には、工業製品みたいな均一さがある。兵士の槍の一部には、明らかに機械めいた節まで刻まれていた。


 異世界ファンタジー、で片づけるには妙に不気味だ。


 王都は祭りみたいな騒ぎになっていた。桃から勇者が現れた、という噂が一瞬で広まったらしい。窓から手を振る子ども、涙ぐみながら祈る老人、跪く女。期待と熱狂が、昔受け取ったどんな障害通知よりも重く、灯真の肩へ乗ってくる。


 その一方で、別の視線もあった。

 測るような目。

 値踏みする目。

 人間ではなく、使える兵器かどうかを見る目。


「……それ、運用で誤魔化してるだけだろ」


 つい漏れた呟きに、隣を歩く兵士が怪訝そうに振り向く。


「何か仰いましたか、勇者様」

「いや、なんでもない」


 城へ入る直前だった。


 空気が変わった。


 ざわり、と皮膚が粟立つ。理由のない悪寒ではない。何か巨大で、壊れたものが近づいてくる気配だ。灯真は反射的に振り返った。


 遠く、王都東門の上で見張りが何か叫んでいる。


「東門! 東門が――!」


 次の瞬間、地鳴りが白い街を揺らした。


 悲鳴。

 警鐘。

 そして城門を外側から踏み砕く、黒い巨大な腕。


 人間の背丈を何倍も越える巨体。角。牙。焼けた鉄みたいな皮膚。目だけが異様に赤い。


 兵士たちが蒼白になる中、灯真だけは別のものを見ていた。


 あの鬼の動き。

 右脚へ重心が乗る。

 左肩が先に揺れる。

 そして、ほんの一拍遅れて腕が来る。


 不自然だ。


 生物の反射にしては、動作が遅れる。

 まるでどこかで制御信号が詰まっているような――


 その瞬間、灯真の頭の奥で、誰かの声が囁いた。


「――二人目の桃太郎、起動確認」


 ぞくり、と背筋が粟立つ。


 鬼がこちらを向いた。


 まっすぐに。

 最初から灯真だけを探していたみたいに。

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