第19話 清嵐は善人の顔で足場を抜く
《祈祷分配樹 管理層》の扉は、近づくだけで薄く開いた。
警戒を煽るでもなく、威圧するでもなく、まるで正しい来訪者を迎え入れるような速度だった。そのこと自体が、ひどく気持ち悪い。敵意を剥き出しにされるより、歓迎の形式を保ったまま足元を切ってくる相手の方が厄介だ。
中は巨大な樹の内部みたいな構造をしていた。
幹に見える白柱が何本も立ち、その内部を桃色の光流が上下している。枝のように伸びた通路の先々へ札箱、祈祷盤、分流弁が配置され、王都全域から集められた願いが、ここで仕分けられているのだと一目で分かった。
「ほんとに樹だ……」
かぐらが呟く。
「願いを根から吸い上げて、用途ごとに配ってる」
「配給所かゴミ分別所かって感じだな」
シグレが吐き捨てる。
清嵐の光像は白柱の間を滑るように移動しながら、穏やかな口調を崩さない。
『君たちが目にしているものは、王都の維持機構そのものだ。病床の鎮痛、結界の補強、食糧庫の保存、気象の調整、貧民区の安眠補助。すべてはここを通して最適化されている』
「最適化、最適化って」
灯真は鼻で笑った。
「人間を数字にしたがるやつ、どこの世界でも碌でもないな」
『数字は嘘をつかない』
「都合の悪いものを数えなければ、いくらでも綺麗になる」
その返しに、清嵐は否定しなかった。
代わりに、白柱の表面へ無数の記録像が浮かぶ。飢饉の年。疫病の年。暴動の年。泣き叫ぶ群衆。倒れる子ども。凍えた赤子を抱いたまま動かない母親。
かぐらが息を呑んだ。
『これが、天照なき時代の現実だ』
清嵐の声は静かだった。感情を煽るより、事実として置こうとする冷たさがある。
『私が初めて祭祀塔へ入った時、そこにあったのは祈りではなく残骸だった。人は救いを求める。だが救いのための費用を、誰も払いたがらない。だから管理が要る』
言い分としては筋が通っていた。
少なくとも、ただの快楽主義者や嗜虐趣味の悪党よりは、遥かに面倒な類だ。自分のやっていることを本気で必要悪だと思っている顔をしている。
「必要悪を名乗るやつってさ」
朱羅が前へ出た。
「だいたい、自分だけは痛まない場所に立ってるよね」
その一言で、清嵐の目が初めて彼女へ向く。
『月代アキラ。君の件は遺憾だった』
朱羅の頬が引きつる。
『適合率が高すぎたがゆえに、回収対象へ移行した。だが君の犠牲があったからこそ、後続の制御式は改善された』
「は?」
静かだった朱羅の声が、底から冷えた。
「今、改善って言った?」
『事実だ』
次の瞬間、朱羅が飛び出した。
短剣が白柱を削る。もちろん光像には届かない。だがその一撃で、柱表面の記録像が激しく乱れた。
灯真はそこで気づく。光像は囮だが、柱へ流している記録系は本体層と繋がっている。つまり“触れられない相手”ではない。
「シグレ、ここの表示系に逆流かけられるか!」
「時間くれれば!」
「今ない!」
アヤメが高所へ跳んだ。
「上層の分流弁、三つほど露出しています! あそこを崩せば映像処理が偏るはず!」
コハクがすぐに盾を構える。
「陽動を担当します」
戦闘とまではいかない。だが交渉の形をした処理負荷戦だ。
相手が会話でこちらを止めるなら、こちらは会話のための回線を壊す。
かぐらは白柱へ浮く札列を見上げ、低く言った。
「この人、ずっと“皆のため”と言っています。でも一度も“誰に選ばせるか”を言っていない」
灯真は頷く。
「そうだ。こいつの善意は、同意を飛ばす」
その瞬間、清嵐の声色が一段低くなった。
『同意は常に現実より遅い。飢える民衆全員の合意を待ってから備蓄を開くのか。疫病の拡大に市井の了承を取るのか。責任を引き受ける者には、時に決定の強権が要る』
真っ当な一面を含むから厄介だ。
緊急時に全員の合意は取れない。現場判断は要る。その現実を知っているからこそ、灯真は即答しなかった。
だが沈黙は敗北に近い。
「だからって、終わった後まで返さない理由にはならない」
灯真は白柱の流れを指差した。
「一時避難が恒久保存に化けてる。応急措置が制度になってる。お前らはいつの間にか“返す日”を消したんだ」
祈祷分配樹の奥で、どこかの弁が重く鳴った。
清嵐の光像が、ほんのわずかに黙る。
図星だ。
『返せば混乱が起きる』
『壊せば死者が出る』
『止めれば都市が揺らぐ』
今度は一文ずつ、切ってくる。
『それでも進むのか、百瀬灯真』
名前を呼ばれる。
ここで迷いを見せれば、向こうはさらに刺してくるだろう。
灯真は少しだけ肩の力を抜き、笑った。
「進むよ」
清嵐が目を細める。
「だってそれ、今まで誰も“混乱するから後でいい”って先送りした結果なんだろ。じゃあ、誰かが一回ちゃんと揉めなきゃ終わらない」
シグレが噴き出した。
「英雄の台詞じゃないけど、わりと好き」
「英雄じゃないしな。障害対応屋だし」
「そこで職業アイデンティティ出すんだ」
軽口のあいだに、アヤメが上層の分流弁へ羽根刃を突き立てた。コハクの盾撃が下層柱を震わせ、シグレが札箱へ逆接続を叩き込む。
白柱群にノイズが走った。
清嵐の光像がぶれ、分身のように三つへ裂ける。
『……非効率だ』
「人間だからな」
灯真は答える。
「効率悪いまま決め直すんだよ」
その時、最奥の扉に重い封が下りかけた。
扉の上の表示が桃色から深紅へ変わる。
《管理者前庭 閉鎖》
コハクが叫ぶ。
「まずい、前庭を封じられます!」
灯真は鍵片を握り直し、走り出した。
閉じるなら、その前に滑り込むしかない。
だがその前に、清嵐は最後の切り札を差し込んできた。
『月代かぐら。あなたの父は、返却日を消すことに最後まで反対していた』
かぐらの足が止まる。
『だから左遷された。表向きは病死だが、実際には祭祀系から追放され、祈祷権限を剥奪された』
「嘘……」
かぐらの声が小さく漏れる。
灯真も息を呑んだ。もし本当なら、今まで敵だと思っていた構造の中に、最後まで抗っていた人間がいたことになる。
『だが彼も結局、決定を覆せなかった』
清嵐の微笑が戻る。
『善意だけでは構造に勝てない。だから私は、勝てる形に善意を変えた』
「勝てる形?」
灯真は走りながら吐き捨てる。
「人を眠らせて、喋れなくして、選べなくして?」
『生存率は上がった』
その即答に、かぐらの迷いが逆に切れた。
彼女は唇を噛み、それからまっすぐ前を向く。
「父が反対していたなら、なおさらです」
清嵐の目が細くなる。
「反対しても覆せなかった。だったら、娘の私が続きをやります」
その宣言は、巫女姫の祈りではなかった。
継がれた怒りだ。けれど怒鳴り散らすのではなく、静かに芯へ杭を打つみたいな強さがある。
朱羅が一瞬だけ姉を見る。
その視線に、初めてはっきりした否定がなかった。
シグレの逆接続が限界まで達し、白柱の記録像が一斉に乱れた。
今だ。
灯真たちは閉じかける最奥扉へ滑り込む。だが最後尾のコハクが境界を越えた瞬間、彼女の全身に紅い拘束紋が走った。
「コハク!」
彼女は膝をつき、歯を食いしばる。
「管理者前庭からの……識別呼び戻しです」
「呼び戻し?」
「近衛機一号系統、未帰還個体の強制再接続命令……!」
灯真は血の気が引いた。
つまりここから先は、コハク自身が“敵設備に属する部品”として引っ張られる領域なのだ。
扉が背後で閉じる。
外の清嵐の声は切れた。
だが静寂の中で、別の声が前方から響く。
『おかえり、二号』
天照だった。
前庭の奥で、巨大な白扉がゆっくりと開き始める。
その中心に立っていたのは、剣でも槍でもなく、桃色の鎖だった。
まるでコハクを回収するためだけに、待っていたみたいに。




