錆びた奈落の迷宮から
アイゼルの上層が華やかな空中列車と真鍮の時計塔で彩られているのに対し、その足元――『下層区』は、油と煤にまみれた剥き出しの鉄骨が複雑に入り組む、陽の当たらない奈落だった。
「うえぇ……なんか、空気があつくて苦しいね」
オサリアが小さな手で鼻を覆いながら、鉄格子の隙間から吹き出す生温かい蒸気に顔をしかめる。
「我慢しな、嬢ちゃん。ここからが本番だ」
先頭を行くイリアスが、慣れた手つきで壁面の錆びついたレバーを引き下げた。ガギギギ、と重い金属音が響き、床の一部がスライドして、さらに深くへと続く暗い竪穴が姿を現す。立ち上ってきたのは、鼻を突くオイルの臭いと、微かにパチパチと弾けるような「廃電流」の皮膚を刺す感覚。
「ここが『旧時代の地下蒸気回廊』。街の工場から出た廃棄熱と、規格外の魔力残渣が流れ込むゴミ溜めだ」
イリアスはバックパックから真鍮製のランタンを取り出し、カチリと火を灯した。鈍い光が、湿った鉄壁と、どこまでも続く無数の巨大な配管を映し出す。
「アストラの追跡魔法は、対象の『魔力の波形』を感知して追ってくる。だがこの回廊は、街中の魔力ゴミが混ざり合って常に大嵐が起きてるような状態だ。ここを通り抜ける間は、お前さんの大剣から漏れる聖剣の気配も、完全に周囲の雑音と同化して掻き消えるだろうよ」
「……つまり、ここに居る間はアストラは俺たちを見失うってことだな」
ペプシルが背中の機械大剣をそっと確認しながら、闇の奥を見据える。
「ああ、完全にロストする。……ただし、ここを無事に抜けられるかはまた別の話だ」
イリアスはランタンの光を足元に向け、皮肉げに口元を歪めた。
「ここにはアストラの騎士も来ねえが、代わりに『野生化したスクラップ』――廃棄された自律機械人形の成れの果てが巣食ってる。それに、上層の工場が気まぐれに高圧の生蒸気を排出するから、一歩間違えれば茹でダコだ」
「茹でダコは嫌だねぇ……」
オサリアは、ペプシルの服の袖をそっとつまむ。
ペプシルはその小さな頭を軽く叩くと、表情を変えるでもなく、真剣な眼差しで暗闇へと足を踏み出した。
「ま、運が悪けりゃ死ぬだけだ。その他は力でどうにでもなる」
「飲み込みが早いね、脳筋勇者くん。ほら、足元気をつけな。ここからは俺の指示通りに動いてもらうぜ」
頭上から響くアイゼルの喧騒が徐々に遠ざかり、代わりにゴウン、ゴウンと不気味に響く重低音が三人を包み込んでいる。
途端、イリアスが足を止める。
「……ほ〜ら、さっそくお出ましだ。噂をすればなんとやら、ってね」
イリアスがランタンの光を一箇所に固定する。
その光の先、太い配管の影から、不快な金属の摩擦音が響いた。
〈ギィ……ギギ、ガチリ〉
闇の中から這い出てきたのは、四足歩行の獣を模した鉄の塊だった。頭部にあたる部分には、赤く濁った監視レンズが一つ。歪んだ真鍮のフレームからは千切れた赤や青の配線が何本も垂れ下がり、高電圧の火花をパチパチと散らしている。
アイゼルの工場でかつて使われ、そして捨てられた、自律機械人形の成れの果て――『野生化したスクラップ』だ。
「グルゥゥ……ガガガッ!」
レンズがペプシルたちを捉えた瞬間、スクラップの喉奥から耳を劈くような排気音が鳴り響く。
「ま、マママりょクを検ケケケ?グルゥゥ…」
「オサリア、下がってろ」
ペプシルは一歩前に出ると、背中の機械大剣の柄に手をかけた。
ずっしりとした黒鉄の重みが手に伝わる。引き抜くと同時に、刃の側面に仕込まれた複数の歯車がガシャリと噛み合い、真鍮の排気筒から小さな火花が上がった。
「おい勇者くん、さっそく試運転といこうじゃねえか。その剣の『出力切替レバー』、右親指のところにあるだろ。そいつを一段階、押し込んでみな」
後方でイリアスが、オサリアを自分の背中に庇いながらニヤリと笑う。
「これか……!」
ペプシルが親指でレバーをカチリと押し下げる。
その瞬間、大剣の内部で何かが爆発したかのような重低音が響いた。
〈ゴオォォォン!!〉
聖剣の持つ神聖な魔力が、イリアスの組んだ外装回路を通り、蒸気圧へと変換される。排気筒から凄まじい勢いで白い生蒸気が噴き出し、ペプシルの腕を押し上げるほどの振動が奔った。
「――ッ、んだこのパワーは!?」
「神話の力をハッキングしてんだ、並の得物と一緒にするな!そのまま叩き込め!」
スクラップが鋭い鉄の爪を剥き出しにし、弾かれたように跳躍してきた。暗闇を裂く、錆びた一撃。
だが、ペプシルの方が一瞬早かった。
「うおおおぉぉッ!!」
横一線に振り抜かれた機械大剣が、スクラップの胴体を真っ向から迎え撃つ。
凄まじい衝撃波とともに、真鍮の歯車が高速回転し、大剣に蓄えられた蒸気圧が一気に解放された。
〈ドゴォォォン!!〉
爆音。
スクラップの頑強な黒鉄の身体が、まるで紙切れのように一撃で真っ二つに引き裂かれ、迷宮の壁へと激しく叩きつけられた。バチバチと激しい火花を散らし、そのまま完全に沈黙する。
あたりに立ち込める白い蒸気と、焦げたオイルの臭い。
「……ハッ、めちゃくちゃな威力だな」
ペプシルは大剣を構え直したまま、自分の手元を見て驚嘆の声を漏らした。あれだけの鉄塊を、刃が通る手応えすらほとんど感じずに叩き斬ってしまった。
「だろ?ほら、観客も大盛り上がりだ」
イリアスがランタンを掲げながら、一歩前へ出る。その眼鏡の奥の目は、獰猛なスクラップの群れが、闇の奥から次々と這い出てくるのを捉えていた。
一つ、二つ、三つ……。
配管を伝い、壁を這い、赤いレンズの光が暗闇の中で無数に増殖していく。闇そのものが目覚めたように。
イリアスは楽しそうに口元を吊り上げた。
「試運転は及第点、ってとこか。――んじゃ、本格的に道を切り開いてもらおうか、勇者くん」
「……チッ、数が多いな」
ペプシルは機械大剣を構え直す。だがその時、彼の顔が僅かに歪んだ。
「ッ、あっちぃ……!?」
大剣の真鍮製排気筒から噴き出す白い生蒸気。それが、柄を握るペプシルの腕や顔に直接吹き付けていた。夜通しで組み上げた遮熱材の隙間から漏れ出る熱風は、並の人間なら一瞬で皮膚を焼き焦がすほどの温度だ。
「おいイリアス! この剣、排気がクソ熱いんだが!?」
「当たり前だろ、神聖魔力を無理やり物理熱に変換してんだ!」
イリアスは悪びれもせず、むしろ観察記録を付けるような目で大剣を睨む。
「言ったろ、手順書も前例もねぇって。そいつはまだ出力のバランスが甘い。今のお前は、暴走寸前の蒸気機関車を素手で抑え込んでるようなもんだ。その熱に耐えながら振るえ!」
「言うのは簡単だな……!」
熱気に視界を奪われそうになりながらも、ペプシルは押し寄せる赤いレンズの群れへ踏み込んだ。
迫り来る二体目のスクラップの頭部を、重厚な刃で叩き潰す。
返す刀で、三体目の跳躍を横一線に薙ぎ払った。
〈ドゴォン! ガガガシィン!〉
四体目、五体目と集団で襲いかかるスクラップも、今の彼には破壊など造作もないようだ。
凄まじい破壊音が通路に反響し、黒鉄の破片が四散する。
圧倒的な威力。
やはり、刃が通る手応えすら感じさせない。
「…ははっ、悪くねえな」
後方でイリアスが楽しそうに笑う。
「だろ? 俺の最高傑作だ!」
「そりゃ良かったな」
だが。
ペプシルは僅かな違和感を覚えた。
足元から、ガチ……ガチガチ、と不快な金属音が響く。
見れば、先ほど真っ二つに叩き斬ったはずの一体目のスクラップが、上半身だけで不気味に蠢いていた。千切れた配線から火花を散らしながら、錆びた両腕でズリズリと床を這い、ペプシルの足首を掴もうと迫り来る。
「魔魔魔魔りょク……検知、ハハ排排除ガガガッ…!」
壊れた音声機能が、歪んだ電子音を吐き出す。
他の個体も同様だった。頭部を潰され、四肢を失っても、なおその鉄の身体を狂ったように駆動させ、執念深く這い寄ってくる。
「おい、どうなってんだ! 斬っても斬っても動きやがる!」
イリアスがランタンを掲げながら叫び返す。
「そいつらは中枢にある『擬似魔力コア』が壊れない限り、予備電源で動き続ける! 胴体じゃなくて、胸の奥か頭部の奥にある、青く光る核を直接ブチ抜かねえと止まらねえぞ!」
「先に言え……!」
ペプシルは毒づき、足元まで這い寄ってきた半身のスクラップを踵で容赦なく踏み潰す。
〈バキンッ!〉
頭部が砕け、内部で青白く光っていた核が弾け飛んだ。
すると、それまで痙攣していた鉄の身体が、ようやく沈黙する。
「……これか」
「そうだ。その青いのがコアだ」
「分かったなら話は早い」
ペプシルは大剣を振り上げる。
迫るスクラップの胸部へ叩き込む。
〈ドゴォォン!!〉
今度は胴体ごとコアが砕け散る。
「おっ」
「ほらな」
その瞬間。
壁面を這っていたスクラップの一体が、配管を蹴って頭上から飛びかかった。
「ッ!」
ペプシルが振り向く。
死角からの強襲。排気熱で一瞬鈍った身体では、大剣の防御が間に合わない――。
その瞬間、異常が起きた。
イリアスが掲げていたランタンの光が、まるで意思を持ったかのようにぐにゃりと歪んだのだ。突如として濃くなった『配管の影』が生き物のように急伸し、飛びかかってきたスクラップの視界を真っ黒に塗りつぶす。
光と影のコントラストが狂い、強烈なノイズを叩き込まれたスクラップの赤い監視レンズが、不規則に激しく明滅した。
完全に距離感を誤った鉄の獣は、ペプシルの手前で虚空を掴み、床へと無様に転がっていく。
「な、なんだ……?」
「ペプシル!前!!」
オサリアが叫ぶ。
「っと。サンキュ、オサリア」
ペプシルは眼前まで迫っていたスクラップを大剣で切り裂いた。
再び視線を向ける。
床でもがくスクラップの胸部。
分厚い装甲の奥に隠れているはずの『魔力コア』だけが、なぜか青く透けて見えた。
「弱点のフォーカス?んな機能組み込んだっけか…?」
イリアスは困惑している。
「まあいいや…そろそろ終幕といこう。長引かせても面倒だ」
〈パンッ!〉
鼓膜を突き刺す、乾いた高い破裂音。
浮かび上がる“青い急所”へと、吸い込まれるように火線が奔る。目にも留らぬ速度で放たれた銃弾が、スクラップの胸部を正確に撃ち抜き、その奥のコアごと木っ端微塵に弾き飛ばした。
イリアスは硝煙を上げる小ぶりの拳銃を片手で構えたまま、酷く退屈そうに肩をすくめて見せた。
「コアの位置が分かってりゃ、この程度はいい的だよ。……まあ、今のガラクタは随分と親切に、自分で急所を教えてくれたみたいだがね」
イリアスは銃口にふっと息を吹きかけ、それを手際よく懐へと収める。
最後の一体だったらしい。襲ってくる機械人形はもう居ない。
「…終わったっぽいな。お疲れさん、二人とも」
二人の肩をパン、と軽く叩く。
「ペプシル大丈夫!?今治すからね!」
ペプシルはそう言われ、ようやくヒリヒリと痛む手や頬に気がついた。むしろ、それで済んだのがラッキーなくらいだ。
オサリアは相も変わらず、治癒魔法を当たり前のように使った。
柔らかな光が手のひらから溢れ、ヒリヒリと焼けていた皮膚を包み込む。
痛みがすっと引いていく。
「……助かった」
「えへへ」
オサリアは嬉しそうに笑った。
「便利だな」
「でしょ?」
「…大剣作ってる時から思ってたんだけど、お嬢ちゃんうちの助手にならないか?」
「あの酷使は嫌!」
「そうかい。天才技師の第一弟子になれるチャンスを蹴るなんて、もったいないねぇ」
イリアスはわざとらしく肩をすくめ、それから再びランタンを持ち直して歩き出した。
(やっぱり、今のフォーカスは……)
ペプシルは大剣を背中のホルダーへ深く差し込みながら、密かに冷や汗を拭った。
あの瞬間、確かにランタンの影が不自然に歪んだ。そして突如見えた、あの青い光。
頭をよぎったのは、ルミナスから逃げ出した夜だった。
耳元で聞こえたオサリアの声。
直後に身体を包んだ、あの冷たい闇。
(……似てる)
だが、確証はない。
ペプシルはちらりと前を歩く女性の背中を見る。
当の本人は何も知らないような顔で、イリアスと何やらいがみ合っているようだ。
(……まあ、今はいいか)
小さく息を吐き、ペプシルは思考を打ち切った。
「それにしても欠陥品じゃねえか、この剣」
ペプシルは背中の機械大剣を軽く叩いた。
「試作品だっつってんだろ。そもそも聖剣を蒸気機関に接続するなんて前例がねぇんだ」
「だったら俺で試すな」
「試す相手がお前しかいなかったんだよ」
「最悪だな…。構造上仕方がねえなら、今度絶対に遮熱板を増やせよ」
「へいへい」
オサリアはそんな二人を見ながら小さく笑った。
地下回廊はさらに奥へと続いていく。
回廊は想像以上に広大だった。
幾重にも分岐する配管網。
廃熱で霞む通路。
時折現れるスクラップを蹴散らしながら、ひたすら前へ進む。
気づけば、ランタンの油を何度も継ぎ足していた。
体感時間すら曖昧になるほど、景色の変わらない鉄の迷宮だった。
「まだ着かねえのか」
ペプシルがうんざりしたように呟く。
「もう少しだ」
イリアスは前方を見据えたまま答える。
やがて地下回廊は終点へと辿り着いた。
無数の配管が集まる巨大な空洞。
その最奥にある分厚い鉄扉の前で、イリアスが立ち止まる。
「着いたぞ」
腰の工具袋から古びた鍵を取り出し、重い錠前へ差し込む。
〈ガコン〉
鈍い音。
続いて、長い年月放置されていたかのような耳障りな軋みが響いた。
〈ギギギギギ……〉
ゆっくりと開いた扉の向こうから吹き込んできたのは、油と蒸気の臭いではない。
潮風だった。
「海……?」
オサリアが目を丸くする。
三人の目の前に広がっていたのは、巨大な海蝕洞窟だった。
天井は遥か高く、黒々とした岩肌から雫が滴り落ちている。
洞窟の奥では外海と繋がる海水が静かに揺れ、差し込み始めた夕暮れの光を受けて鈍く輝いていた。
岩壁には無数の鉄骨と足場が組まれている。
木箱の山。
錆びたクレーン。
用途不明の機械部品。
そして―――。
波止場に一隻の蒸気船が停泊していた。
船体は艶のない黒鉄色。
煙突からは白い蒸気が絶え間なく噴き出している。
どう見ても表の社会を歩けるような船ではない。
「……合法じゃなさそうだな」
ペプシルが率直な感想を漏らした。
「違法だからな」
イリアスは即答した。
「即答するなよ」
「安心しろ。捕まるのは船長だけだ」
「安心できる要素が一つもねえ」
オサリアはそんな二人を横目に、きらきらと目を輝かせていた。
「すごい……! 海だ! 船だ!」
「嬢ちゃんは警戒心ってもんを覚えろ」
イリアスが苦笑する。
その時だった。
船の甲板から野太い声が響く。
「――よう、イリアス」
三人が顔を上げる。
船縁にもたれ掛かっていた大柄な男が、煙草を咥えながら片手を振っていた。
無精髭、日に焼けた肌、片目を覆う革の眼帯…どう見ても堅気ではない。
「まだ生きてやがったのか」
「そりゃこっちの台詞だ、船長」
イリアスは肩をすくめた。
「そんじゃ、頼めるか」
男はペプシルを見る。
背中の巨大な機械大剣を見る。
続いてオサリアを見る。
数秒だけ沈黙した。
そして盛大にため息を吐く。
「……また厄介事を拾ってきたな、お前」
「褒め言葉として受け取っとくよ」
「受け取るな」
男は煙草を海へ放り投げる。
ジュッと小さな音がして闇に消えた。
「まあいい。金さえ払うなら客は客だ」
そう言って船へ続くタラップを顎で示した。
「乗りな。日が沈むと同時に出るぞ」
ひときわ強い潮風が吹き抜ける。
「……行くぞ」
ペプシルは一言、そう放つ。
三人は黒鉄の蒸気船へと乗り込む。
波の音は、一度だけ、三人を責め立てるように激しく波打った。
「なんだか怖そうな船長さんだな…」
「大丈夫だ、あんなんでもおねしょをしてた頃があったんだぜ」
「…やめてやれ」




