潮風と、刹那の煌めき
黒鉄の蒸気船は、夕暮れを引き裂くように海へ滑り出した。
船体が波を割るたび、低い金属音が腹の底に響く。生温い潮風と、機関室から漏れ出す油の匂いが混ざり合い、現実感の薄い空間を作っていた。
「……思ったより揺れるな」
ペプシルは甲板の手すりに片手を置きながら呟いた。
──船首寄りの甲板、風の強い場所だ。
「そうだね」
オサリアは船尾側の手すりに近寄り、ぺたぺたと甲板を踏みながら海を覗き込んだ。
黒く沈んだ水面に、夕陽の名残が細く揺れている。
「綺麗だな」
どこか噛み締めるように、オサリアは言った。
「…そうか」
イリアスはというと、すでに階段を降りて船内へ消えていた。
甲板の中央にある機関室ハッチの方から、しばらくして金属を叩く音と罵声が響いてくる。
「おい!この圧力計どこ繋いだ!設計図と違うだろ!」
「うるせぇな、動いてりゃいいだろうが!」
「“動いてる”と“安全”は別物だ!」
「……いつもあんな感じなのか」
ペプシルが呟く。
「拘り強い職人さんだからかな」
オサリアは、手すりに腕を置いて海を見ている。
日が傾き始めており、空はゆっくりと群青に溶けていく。
星が一つ、また一つと滲むように浮かび始める。
闇に照らされるオサリアの横顔を、ペプシルはなんとなく眺めていた。
「なんか、凄いな」
「何だよ急に」
オサリアは微笑む。
「海って本当に広いんだ」
「……見たことないのか」
ペプシルが波しぶきの向こうを見つめながら、静かに問いかけた。
「いいや、見たよ。…本でね」
オサリアはそう言って、群青に染まっていく水平線を愛おしそうに見つめている。その言葉の端々には、どこか寂しさを感じた。
「この目で見るのは初めて。二度はない波の動き、時間や場所による海の機嫌の違い…そして、あの地平線の先にも街がある」
「多分、この旅がなかったら見ることは無かったかな」
オサリアはそう言って、小さく息を吐いた。
「…なあ。あの時、俺を連れ出したのは―――」
ペプシルがそこまで言ったとき、オサリアは「あ!」と声を上げて、夜空を指差した。
「ペプシル見て! 流れ星!」
「……」
「あーあ、消えちゃった。願い事、言えなかったな」
オサリアはくるりと振り返り、いつもの天真爛漫な笑顔をペプシルに向ける。
「楽しい」
ただ一言、純粋にそう呟いていた。
いつものような、眩しい笑顔。
ただ――
その奥で、ほんの一瞬だけ。
表情が揺れる。
ペプシルは、それを見逃さなかった。
(……)
言葉は出なかった。
流れ星は、もう空の向こうに消えている。
「……そうか」
それだけを、短く返した。
海はもう、夕暮れを飲み込んでいた。
境界線は曖昧になり、空と海の区別すら溶けていく。
ペプシルはしばらく何も言わなかった。
ただ、波の音だけが甲板を叩いていた。
やがて、船内の方から重い足音が響く。
階段を上がってきたイリアスが、甲板に顔を出した。
「お前ら、飯にするぞ。ま、保存食ばっかだけどな」
「終わったら風呂浴びて、さっさと寝ときな」
イリアスは、首にかけたタオルで額の油を拭った。
「おう」
ペプシルは手すりに預けていた体を起こし、短く返した。
オサリアはすでに、ハッチの方へトトト、と軽い足取りで歩き出していた。その背中は、先ほどまでの張り詰めた気配を綺麗に拭い去っている。
「ご飯、なに?」
「干し肉の塩煮と、硬いパン。腹の足しぐらいにゃなるだろ」
「えー、ドリア食べたーい」
「んな豪勢なもんはないね」
二人の声が、鉄のハッチの向こうへと吸い込まれていく。
甲板に、潮の音だけが残った。
指先が、鉄を一度だけ強く握る。
(……)
やがて、その手を離した。
足音を立てないように、ペプシルは階段へ向かう。
足元で、船が低く軋んだ。
その夜は、うるさいくらいに賑やかだった。
保存食の匂い、他愛もない会話、揺れる船体。
それだけが、淡々と過ぎていく。
甲板の振動と話し声が、だんだん遠くなるように薄れていった――。
機関室の振動が不規則に変わり、船体が大きく傾いた拍子に、ペプシルは目を覚ました。
食堂の固いベンチから身を起こす。
隣の長椅子では、オサリアが毛布にくるまり、小さな寝息を立てていた。
〈ゴゴゴゴゴ……〉
外から聞こえる音が変わっている。激しい外海の波の音ではない。水が狭い空間で跳ね返るような、反響を含んだ重い駆動音。
ペプシルは立ち上がり、丸窓の曇ったガラスを袖で拭った。
朝靄が、視界を白く染めていた。
だが、その霧の向こうから、無数の灯火が滲むように現れ始める。
石造りの古い橋の脚。
水路をせわしなく行き交う、小ぶりのゴンドラ。
建物の壁に嵌め込まれた、淡い青色に発光する無数の魔術結晶。
ひときわ高い、時計塔の鐘の音が、霧を震わせて重く響いてきた。
冷たい水の匂いと、微かな魚の香気が、開いた窓の隙間から滑り込んでくる。
「――おい、起きたか」
階段の上から、イリアスが顔を覗かせた。その顔も、作業着の袖も、真っ黒な煤とオイルで汚れている。
「大剣の軽い調整のついでに、遮熱板を増やしといた」
イリアスが顎で示した先――食堂のテーブルの脇に、ペプシルの機械大剣が立てかけられていた。真鍮のボルトはきつく締め直され、鈍い金属光沢を取り戻している。その横には、煤まみれのレンチと、引き抜かれた古い煤の塊が転がっていた。
「……悪いな」
ペプシルは短く応じ、大剣のグリップを握った。持ち上げた瞬間の重心が、驚くほど手に馴染む。背中のホルダーへ収めると、カチリと小気味よい音が響いた。
「ほら、そろそろ着くぞ。アストラの目が届かない、理屈抜きの水の街――水都レヴァリアに」
イリアスは首のタオルで乱暴に顔を拭い、甲板へと戻っていく。
ペプシルはまだ眠りの中にいる少女の肩を、大きな手で静かに揺り動かすと、毛布の塊がもぞりと動いた。
「ん……う、……」
オサリアが長い睫毛を震わせ、眠気の残る目でゆっくりと瞼を持ち上げる。丸窓から差し込む朝靄の白い光に、彼女は眩しそうに琥珀の目を細めた。
「……海、おわった?」
「街に着く」
オサリアは跳ね起きるように毛布を撥ね退けた。まだ寝癖のついた頭のまま丸窓へと顔を寄せ、曇りなきガラスの向こうを見つめる。
窓に額を押し付けんばかりにして、刻一刻と姿を現す水の都を見つめている。その横顔には、昨夜の甲板で見せた一瞬の揺らぎはもうどこにもなかった。ただ純粋な、世界を初めて見る子供のような瞳がそこにある。
甲板の上からは、錨が下ろされる激しい金属音と、船を岸壁に寄せるためのイリアスの鋭い号令が聞こえ始めていた。
黒鉄の蒸気船は、その推進力を静かに落としながら、水都レヴァリアの港湾へと滑り込んでいく。
船体が岸壁に身を寄せるたび、重いゴムの防舷材が軋み、鈍い衝撃が甲板を伝ってきた。
「……!」
オサリアは窓からパッと顔を離すと、まだ素足のまま、食堂の床をぺたぺたと踏んで出口へと急ぐ。
「おい、靴を――」
ペプシルの制止よりも早く、オサリアはハッチの向こうの光の中へと消えていった。残された毛布の端が、冷たい朝の空気に微かに揺れている。
ペプシルは低く息を吐き、床に転がっていた彼女の革靴を拾い上げた。片手で一足ずつ掴み、鉄の階段を上る。
甲板に出ると、鼻を突く潮の香りが一気に強くなった。
朝靄の向こう、石造りのドックには、すでに何隻もの小舟や、魚を山積みにした荷車がひしめき合っている。行き交う人々は一様に綺麗な法衣を身に纏っていた。
「おら、ロープしっかり縛れ! 流されんぞ!」
船首の方では、すでに飛び降りたイリアスが、港の作業員に向かってスパナを振り回しながら怒鳴り散らしている。
オサリアはというと、手すりから身を乗り出すようにして、水路を行き交うゴンドラを眺めていた。その足元へ、ペプシルは無言で靴を落とす。
「あ、ありがと!」
オサリアは片足立ちになりながら、危なっかしい手つきで靴に足を滑り込ませた。それから、すぐにまた視線を水路へと戻す。
「ねえ見てペプシル!あそこ、魚が跳ねてる!」
彼女が指差した先、濁った緑色の水面から、銀色の小魚が群れをなして跳ね上がっていた。朝の薄光を浴びて、それは一瞬だけ、昨夜消えた流れ星のようにきらめく。
「……行くぞ」
ペプシルは一歩、錆びたタラップを踏み出す。
アストラの追っ手も、聖剣の縛りもない、理屈抜きの水の街。
二人の足音が、レヴァリアの濡れた石畳に初めて刻まれた。
「ヨザキさんって、どんな人なんだろ」
「イリアスと違って、堅実そうだな」
「俺ぁいつだって計算して行動してるさ」
「お前はその場で計算してるみたいなもんだぞ」




