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君のための、世界を選べ

眩い光が、ゆっくりと消えていく。


「――ッ」


足元が揺れた。

次の瞬間、固い石畳を踏み締める感覚が戻る。


冷たい風。


焼けた石の匂い。


崩れ落ちた瓦礫。


耳を打つのは、遠くで砕ける岩の音だけ。


「ここは……」


掠れた声が漏れる。

ゆっくりと顔を上げる。


そこは、サンクチュアリ最奥。


神を降ろすための神殿だった。

巨大な黒い結晶は、跡形もなく砕け散っている。


天井は崩れており、

差し込む陽光が、舞い上がる砂塵を金色に照らしていた。


終わった。


誰の目にも、それだけは分かった。


「……」


ペプシルは、無意識に腕の中を見下ろす。


そこには——栗色の髪をした少女が、小さく身体を預けていた。


温かい、確かな重み。

 

夢じゃない。


恐る恐る、その頬へ手を添える。

柔らかな温もりが、掌へ伝わった。


「……オサリア」


掠れた声で名前を呼ぶ。


返事はない。

規則正しい寝息だけが、小さく聞こえる。


その静かな呼吸を聞いた瞬間。

張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。


「はは……」


笑った。

何度流したか分からない、涙が止まらないまま。


「……生きてる」


もう一度、確かめるように呟く。


「生きてる……」


その声は。

誰に聞かせるでもなく。


ただ、自分自身へ言い聞かせるようだった。


その時。


背後から、小さく瓦礫を踏む音が響く。


「……ペプシル?」


聞き慣れた声。

サクヤの声だった。

 

「……サクヤ」

 

ゆっくりと振り返る。

 

瓦礫の向こうから、

緑の髪を揺らした獣人がこちらを凝視していた。

 

その顔が、みるみるうちに歪んでいく。

 

「な……なんで……」

 

一歩、二歩。

ふらつく足取りで近付いてくる。

 

「なんで、オサリアが……」

 

視線は、ペプシルの腕の中に釘付けだった。

信じられないものを見るように。

それでも目を逸らせないように。

 

「……夢か?」

 

掠れた声。

 

「これ、夢なんか……?」

「違う」

 

ペプシルは、静かに首を振った。

 

「本物だ」

 

その一言に。

サクヤの膝が、がくりと崩れた。

 

「……ッ」

 

瓦礫の上に膝をついたまま、両手で顔を覆う。

 

「うそ……うそやろ……」

 

肩が震える。

 

「オサリア……オサリアァ……ッ!」

 

もう、堪えられなかった。

四つん這いのまま這うように近付き、

震える手でオサリアの頬に触れる。

 

「……あったかい。あったかいやん……」

 

涙がぼたぼたと、白い床に零れ落ちる。

 

「よかった……よかったぁ……」

 

その声に応えるように。

腕の中の少女が、小さく身じろぎした。

 

「……ん」

 

瞼が、微かに動く。

 

「サクヤ……?」

 

覚束ない声。

けれど、確かにオサリアの声だった。

 

サクヤの顔が、くしゃくしゃに歪む。

 

「オサリア……起きたんか……」

「泣いてるの……?」

 

寝ぼけたような、間の抜けた声。

それだけで、涙腺が決壊した者がもう一人増えた。

 

「うるさいねん……ちょっと黙っとけ……」

 

震える声で、そう返すのが精一杯だった。

 

その時。

瓦礫を踏み崩す音が、次々と重なる。

 

「オサリア……!」

グランヴィアの声。

「うおおおおお……!!!!」

大粒の涙を流しながら、ペプシルごと抱き抱えた。

 

「嘘だろ……本当に……」

 

イリアスも駆けてきて、オサリアの顔を見た途端。

ペプシルの肩を強く叩く。

 

「お前……お前ッ……」

 

必死に目頭を抑えていた。

 

そして。

 

「……」

 

ヨザキだけが、少し離れた場所で立ち尽くしていた。

眼鏡の奥の紫の瞳が、大きく揺れている。

 

言葉が出ない。

未来視で何度も見た、あの光景。

 

けれど、今目の前にあるのは——彼が恐れ続けた結末とは、違う光景だった。

 

「……ヨザキさん」

 

オサリアが、ぼんやりとした目でそちらを見る。

 

「大丈夫って、言ったでしょ…?」

 

そう、優しく微笑む。

 

ヨザキはただ、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。

 

瓦礫の上に座り込んだまま。

両手で顔を覆う。

肩が、微かに震えていた。

 

「……よかった」

 

指の隙間から漏れた声は、

ほとんど聞き取れないほど小さかった。

 

「本当に……よかった」

 


崩れた神殿に、嗚咽が静かに重なる。


神を降ろすために造られたこの場所で。


初めて、人の笑い声と涙が響いていた。



しばらく、嗚咽と笑い声が静かな神殿へ響いていた。

 

誰も急かさない。

誰も、立ち上がろうとしない。


ようやく取り戻した温もりを、確かめるように。

ただ、同じ時間を共有していた。


やがて。


「……ん」


オサリアが小さく身を起こす。


「まだ寝とけ」


ペプシルが支えると、オサリアは少しだけ困ったように笑った。


「大丈夫……」


その声を聞いて、また誰かの目から涙が零れる。


「もう、泣かないでよぉ……」

「無理や」


サクヤが鼻をすすりながら答える。


「お前が生きて帰ってきたんやぞ……泣くわ……」


オサリアは照れくさそうに笑った。


その笑顔を見て、グランヴィアもイリアスも、

ようやく肩の力を抜く。


張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ。


「……あ」


ふと、オサリアの表情が曇る。

ペプシルの身体に刻まれた、無数の傷が目に入ったからだ。


「……」


反射だった。

何度もそうしてきたように。


胸の前で両手を重ね、静かに祈る。


「――癒しの光よ」


優しい声が神殿へ溶ける。


——けれど、何も起こらなかった。


「……あれ」


もう一度。


「……癒しの光よ」


祈る。

指先へ意識を集中させる。

いつもなら当たり前のように集まる光は。

どこにも、なかった。


「……っ」


オサリアの瞳が揺れる。


何度も、何度も祈る。


それでも掌には、何一つ宿らない。


「……なんで?」


小さく震えた声。

ペプシルは、その手をそっと包んだ。


「もういい」


「でも……傷が」


「いいんだ」


優しく笑う。


「今度は、治さなくていい」


オサリアはゆっくりと顔を上げる。


「お前は、もう」


ペプシルはその手をぎゅっと握った。


「神様の器でも、回復役でも」

「世界を救うための道具でもない」


少しだけ照れくさそうに笑う。


「ただの、オサリアだ」


その言葉に、オサリアは自分の掌を見つめる。


何も灯らない。

何も癒せない。


それなのに。


不思議と、怖くはなかった。


「……そっか」


小さく笑う。

泣き笑いのような顔で。


「うち、もう……普通なんだ」


その一言を聞いても、誰も悲しそうな顔はしなかった。


むしろ。


「ようやくやな」


サクヤが涙を拭いながら笑う。

 

「今まで働きすぎや」


グランヴィアも豪快に笑った。


「そうだそうだ!これからは俺たちが守る番だ!」


「俺の優秀な助手がいなくなっちまったなぁ」


イリアスが肩を落とす。


「イリアス、冗談は顔だけにしておけ」


「辛辣ッ!」

 

ヨザキの調子も戻ってきた。

 

その言葉に、神殿には笑い声が広がっていく。

  

「……で」


サクヤが辺りを見回す。

 

崩れた神殿。

砕け散った黒い結晶。

崩壊した天井。


どこにも転移陣らしきものは見当たらない。


「ここから、どないして帰るん?」

 

「…………」


全員が固まった。


ペプシルも周囲を見渡す。

空高くそびえ立つ塔。

今はもう、何も妨げるものがなかった。

ただ、澄んだ青空が広がっている。

 

だからこそ。


「……た、高ぇ」


情けない声が、ペプシルから漏れ出た。


「今さら気付いたんか」


サクヤが呆れたように笑う。


「いや、だって……」


恐る恐る塔の縁から下を覗く。


遥か眼下。

地面なんて、豆粒ほどにしか見えない。


「これ、降りるのか……?」


イリアスも隣から覗き込み、思わず顔を引きつらせた。


「うわ……」

「来る時はアドレナリン出てたからなんとも思わなかったけどよ……」


ヨザキは眼鏡を押し上げる。

 

「……外部を遮断する障壁も切れてる」

「入口まで行ければ、通信機で飛行船を呼べると思う」


一拍置いて。


「それまでは歩いて降りなければならないね」


「…………」


「…………」


「…………」


全員の顔から笑みが消えた。


 

「……ふっ」


その様子を見て、小さく笑い声が漏れた。

オサリアだった。


「帰ろっか」


その一言で。

張り詰めていたものが、ようやくほどけたように。


「……せやな」


サクヤが立ち上がる。


「帰ろか」


その言葉に頷きながら。


六人は、ゆっくりと瓦礫の向こうへ歩き出す。

……が、数歩歩いたところで。


「……あ」


オサリアが立ち止まる。


「どうした?」


ペプシルが振り返る。

オサリアは、延々と続く石階段を見下ろした。


「……」


「歩くのやだ」


全員が固まる。


「抱えて」


「はぁ?」


ペプシルが素っ頓狂な声を上げた。


「一回世界救ったんだから休憩」


「俺も救った」


「まだ病み上がり」


「いま歩いてただろ」


「……足に力入らないナー!」

 

わざとらしく、その場にぺたりと座り込む。

 

「嘘つけ」

「入らないもん」


ペプシルは深いため息をついた。


「……ったく」


ぶつぶつ言いながらも、しゃがみ込む。


「え」


オサリアの目が丸くなる。


「さっさと乗れ」

「こっちの方が運びやすい」

 

「……えへへ」


嬉しそうに背中へ飛びつく。


「重いな」

「ちょっ!」

「冗談だ」

「女の子に言うことじゃないよ!」

「じゃあ降りるか?」

「やだ」


ぎゅうっと首へ抱きつく。


その様子を見て。


「……戻ったな」


イリアスが笑う。


「せやな」


サクヤも笑う。

ヨザキも眼鏡を押し上げながら、小さく微笑んだ。

グランヴィアは腹を抱えて笑っている。


崩れた神殿に。


今度は、泣き声ではなく。

仲間たちの笑い声だけが、白亜の塔に響き渡る。


新世界へと還るはずだった場所を、背にして。

今度は、自分たちの帰る場所へ向かうために。

 

六人は、それぞれの未来へ歩き出した。



数え切れないほどの世界が記されていた。


救われる世界。


滅びる世界。


誰かが笑う世界。


誰かが泣く世界。


勇者となる世界。


勇者にならない世界。


 

その、すべてを前にして。


 

青年は、選択した。


勇者であることを、捨てると。


青年は、選択した。


彼女と生きると。


そして。


青年は、選別した。


彼女がいない、すべての世界を。



【アカシックレコードの選別】

 

――君のための、世界を選べ。


『俺は、オサリアと笑う世界を選んだ。』


 

これは、勇者を拒んだ青年の逃亡録である。

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