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銀の刃と、帰る光

忘れていたはずなのに。

もう二度とは触れられなかったはずの温度。


「……そうか」


掠れた笑みが零れる。


「お前」


闇へ触れたまま、静かに呟く。


「まだ、一人で抱えてんのか」


ぴくり、と闇が震えた。


少女は振り向かない。

けれど、小さく丸めた肩だけが、また震えた。


『……お願い』


声が滲む。


『帰って』


「帰らない」


即答だった。


『来ないで』


「行く」


『もう終わったの』


少女の声が、少しだけ大きくなる。


『世界は救えた。みんな笑って生きてる』

『それで、いいじゃん』


一言紡ぐたび。

闇は少しずつ濃くなっていく。

まるで、自分自身を覆い隠すように。


「……よくねぇよ」


ペプシルは首を振った。


「全然、よくねぇ」


『いいの』


「よくない」


『お願いだから』


「嫌だ」

 

少女は俯いたまま。

短い言葉だけが、静かな世界へ落ちていく。


一瞬の静寂。


刹那——闇が、唸りを上げた。


それは少女の感情に呼応するように。

 

黒い霧が夜花の庭園を飲み込み、蒼く灯っていた花々が一輪、また一輪と色を失っていく。


「——帰ってッ!!」


鮮明になった叫びと同時に。


〈ドォンッ!!〉


漆黒の奔流が、一直線にペプシルへ襲い掛かった。


「ッ!」


反射で剣を抜く。

鞘に入っているのは、もう聖剣ではない。

 

刃が夜花の残光を弾きながら、闇と正面から噛み合う。

轟音とともに突風が吹き荒れ、庭園を彩っていた花弁が根こそぎ舞い上がった。


「来るな!!」


闇は意志を持つように形を変え、無数の槍となって空間を埋め尽くしていく。

 

一本、二本。

 

瞬く間に十本、百本へと増殖する。


「もう終わったの!!」


震える声とともに、その槍の涙が降り注ぐ。

ペプシルは怯まず地を蹴った。


「終わってねぇ!!」


剣が唸る。

ただの鋼のはずなのに、まるで意志があるかのように正確に閃き、一本を両断し、二本を弾き返す。避けきれない残りは、構わず身体で受けた。

 

闇は思っていたよりも、冷たいだけだった。


「みんな生きてるじゃん……!!」

 

縋るような声だった。

 

「……あぁ」

 

短く、静かな肯定だけが返る。

 

「世界も救えたじゃん……!!」

 

「……そうだな」

 

また一つ、頷くだけの答え。

 

「だから、帰ってよ……!!」

 

「——帰らねぇ!!」

 

その一言だけは、譲らなかった。

たったそれだけで、オサリアの表情が崩れた。


「——っ、なんでぇッ!!」


叫びが弾けた瞬間、闇そのものが彼女の感情に呼応するように激しく脈打つ。

庭園が一瞬で黒に塗り潰され、揺れる夜花が悲鳴のようにざわめいた。


「なんでそんなこと言うの……!!」

「うち、頑張ったんだよ……!!」

「怖かった……! 苦しかった……!!」

 

声が、震えながら積み重なっていく。

 

「でも……」

 

一拍。

 

「皆が生きられるなら、それでいいって……!!」

 

大粒の涙が頬を伝う。

 

「やっと……」

 

嗚咽で言葉が途切れる。

 

「やっと、諦められたのにぃ……ッ!!」

 

その叫びを合図に、闇が完全に暴走した。黒い津波と化して、ペプシルの視界すべてを塗り潰す。

 

それでも、足は止まらなかった。

 

「オサリアァ!!」

 

闇を斬り裂きながら前へ出る。

一歩、また一歩。

手を伸ばせば届くところまで、彼女との距離を詰めていく。


「来ないでぇ!!」


オサリアが両手を突き出す。

黒い奔流がペプシルの胸へ直撃する。

 

「ぐっ——!!」

 

身体が吹き飛び、そのまま地面を転がっていく。

——それでも、立ち上がる。


「なんで……!」

「なんで立つの!!」


「お前が泣いてるからだろ!!」


怒鳴り返した。

自分に向けられたその声に、オサリアが息を呑む。


「泣いてなんか……」


「泣いてただろ!!」


ペプシルは叫ぶ。


「暗闇で、独りで……!!」

「——皆といたかったって、泣いてたじゃねぇか!!」


「違うッ!!」


オサリアは首を振り、耳を塞ぐ。

 

「違う!! 違う!!! あんなの嘘!!!」

 

「それが嘘だろォッ!!」

 

闇を切り裂き、花を踏み散らしながら。

ペプシルはそのまま彼女へ飛び込む。


「ッ!」


咄嗟に振られた少女の腕から、闇が爆ぜる。


だが。


ペプシルは剣を手放し、その腕を掴んだ。


「離して!!」


もがき、振り払おうとする。

もう片方の腕にも闇を纏わせる。


「離してってば!!」

 

暴力などしなかった彼女が、力強く胸を押し、殴り、叩く。


それでも、離さなかった。


「ペプシル!!」

「離さねぇ!!」


オサリアは胸ぐらを掴んだ。


ぐしゃぐしゃの顔で。


涙を流しながら。


「なんで来るの!!」

「うちを置いていけばよかったじゃん!!」

「うちなんかそのまま忘れればよかったじゃん!!」


「世界を救えたんだから、それでいいじゃん!!」


胸ぐらを何度も揺さぶる。


「答えてよ!!」


「どうすればよかったの!!」


「うち……っ、どうすればよかったの!!!!」


ペプシルもまた、オサリアの服を掴み返した。

額がぶつかるほど間近まで引き寄せて、声を張り上げる。


「俺に聞くな!!」


オサリアが目を見開く。


「そんなもん……!」


「俺だって分かんねぇよ!!」


「世界を救う方法なんか……正解なんか!!」

「分かるわけねぇだろ!!」


息が切れる。涙が止まらない。

それでも、続けた。


「でもなぁ……!」


喉が裂けそうなほど叫ぶ。


「お前が居ねぇ世界を!!」

 

「俺は正解だなんて認めねぇ!!」


オサリアの身体が震えた。


「だって……だって……!」

「皆が笑える世界に……!」


「お前が笑ってねぇだろ!!」


その一言で。


オサリアの瞳から、堰を切ったように涙が溢れた。


「っ……」


「ぁ……」


「うっ……」


言葉にならない。

肩が震え、まともに呼吸ができないまま、彼女は立ち尽くしていた。

ペプシルは胸ぐらを掴んだまま、静かに言った。


「お前な」


「最後まで、勝手なんだよ」


涙混じりに笑う。


「俺の気持ちまで、勝手に決めんな」

「俺がお前を失って……平気で笑えると思うな」


オサリアは力なく首を振る。


「でも……」

「でもじゃねぇ」


「俺は」


震える声で。

それでもはっきりと。


「お前がいないのは——嫌なんだよ」


その瞬間。


オサリアの膝から力が抜けた。


崩れ落ちそうになった身体を、ペプシルは反射的に抱き留めた。


二人を包んでいた闇は。

風に溶けるように、少しだけ、薄くなった。


オサリアは抱き留められたまま、ペプシルの胸を何度も叩く。


「嫌だもん……っ」


ぽかっ。


ぽかっ。


力なんて全く入っていない。


「嫌だったもん……!」


また叩く。


「死にたくなんかなかった……!」

「皆といたかった……!」

「旅もしていたかった……!」

「もっと馬鹿やりたかった……!」

「もっと皆で笑いたかったぁ……!!」


とうとう崩れ落ちる。

ペプシルの胸を掴んだまま、子供みたいに泣きじゃくる。


「でもそんなこと言ったら、止めてくれなかったでしょ……!!!」


「だからぁっ!!」


「だから行くしかなかったの…ッ!!」


ペプシルは、涙がとめどなく溢れていた。

止める気なんて、もうなかった。


「分かってるよ……ッ」


嗚咽が混じる。


「全部……分かってる……!!」


腕へ、さらに力を込めた。


「だから俺は……ッ」


オサリアを抱き締める。

もう、二度と離さないように。


「お前が、俺と笑う世界を選びに来たんだよ……!!」


「……っ」


その言葉に、オサリアの身体がびくりと震えた。


「そんな……」


掠れた声。


「そんな世界……」


震える指が、知らず知らずのうちにペプシルの服を握り締める。


「選んで、いいの……?」


その問いは、ペプシルではなく。

ずっと自分自身へ向けていたものだった。


「うちは……」


涙が止まらない。


「皆を守るために、生まれたのに……」

「みんなを、回復して」

「器だったから」

「神様を呼ぶために、生きてきたんでしょ……」


「そんなうちが」


呼吸が乱れる。


「幸せになりたいなんて……」


言葉が、詰まる。


「思っちゃ、駄目だって……」


ペプシルは、オサリアの肩を掴み直す。


「誰が決めた」


静かな声だった。


「……え」

「誰が、お前は幸せになっちゃ駄目だって決めた」


オサリアは答えられない。


「サンクチュアリか」


首を振る。


「神様か」


また首を振る。


「世界か」


震えながら、小さく唇を噛む。


「違う……」


「じゃあ誰だ」


長い沈黙。


やがて。


オサリアは、泣き笑いみたいな顔で。

小さく、小さく呟いた。


「……うち」


その一言で、ペプシルは目を閉じた。


「そうだ」


優しく。

けれど、迷いなく言う。


「ずっと、お前自身がお前を許してなかった」


その言葉が、胸の奥深くへ落ちていく。


「……っ」


視界が再び、涙で滲んでいく。

 

「うちは……」


「うちは……っ」


震える声で、何度も同じ言葉を飲み込んで。

そして、初めて、誰にも遠慮しない願いを口にした。


「……生きたい」


消えてしまいそうなほどに、小さな声だった。


それでも、確かに。


「皆と……」


涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま。

ペプシルを見上げる。


「……ペプシルと」


その名を呼んだ瞬間。


〈ふわり〉


一輪。


夜花が蒼く灯る。

淡い光が二人の足元から静かに広がっていく。


一輪。


また一輪。


世界が、色を取り戻し始めた。


ペプシルは泣き笑いのまま、小さく息を吐いた。


「なあ」


オサリアは赤く腫れた目で見上げる。


「覚えてるか」


「……?」


「一番最初」


少しだけ笑う。


「あの日。お前、俺になんて言った」

 

オサリアは涙を拭う手を止め、記憶を辿るように目を細めた。

涙で滲んだ記憶が、ゆっくりと浮かぶ。


聖剣祭りの日。


勇者に選ばれた青年。

世界に縛られた青年へ。

 

栗色の髪を揺らした少女は、悪戯っぽく笑って。


『逃げちゃえば?』

 

「……あ」


思い出した。


「お前のあの一言で」


ペプシルは、懐かしむように呟く。


「俺の人生、全部変わった」


オサリアの瞳が揺れる。


ペプシルは少しだけ照れくさそうに笑って。

それでも、真っ直ぐに彼女を見つめた。


「お前と旅をして、お前と笑って、仲間ができて」

「やっと分かった」


希望を語るような声で。


「始まりは運命だったとしても」


夜風が、二人の間を吹き抜ける。

蒼い夜花が、柔らかく揺れた。


「その先は、自分で選べるんだって」

 

ゆっくりと、オサリアの両手を包み込む。


「だからさ」


琥珀の瞳を真っ直ぐ見つめる。


ペプシルは。

あの日、自分を運命から連れ出した少女へ。


「――逃げようぜ」


 

返事はなかった。


ただ。


オサリアが震える手で。

ペプシルの服を、ぎゅっと握り返した。



暖かな光が、二人を包む。


夜花が蒼く咲く。


暗闇だった世界を。

静かに、光が包み込んでいく。



 

今。


彼の手から零れた世界は、選別された。



誰もいない天上記録庫。


幾億もの本が、静かに宙へ浮かんでいた。


その中で、ただ一冊だけ。

ページが、ひとりでに開いた。


〈……パラ〉


開かれた頁。

 

そこには、少女が神の器となり。


世界を救い。


命を落とした結末が記されている。


そこで、文章は終わっていた。


沈黙。


やがて、頁の余白へ、さらりと一本の文字が浮かび上がる。


誰の手もない。


それでも。

物語は、自ら続きを綴る。


――勇者は、彼女と笑う世界を選んだ。


最後の一文字を書き終えると、


〈パタン〉


本は静かに閉じる。


その瞬間、記録庫中へ浮かぶ無数の本が、一斉に頁をめくり始めた。


〈パラララララララ……〉


まるで、たった一行の結末が、無数の世界へと伝播していくように。


やがて音は止み、再び静寂が訪れる。


天上記録庫は、静かになった。

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