本当の願い
静かだった。
幾億もの本が浮かぶ天上記録庫。
さっきまで一斉にページをめくっていた本たちは、
何事もなかったかのように静止している。
聞こえるのは、荒く乱れた呼吸だけ。
「……っ」
ペプシルは俯いたまま、肩を震わせていた。
涙が止まらない。
止め方が、分からない。
指先へ視線を落とす。
あの日と同じように、震えていた。
「……オサリア」
掠れた声が漏れる。
「……あぁ、そうか」
力なく本を抱き寄せ、自嘲するように笑う。
「俺は――」
唇が震える。
「俺が望む世界で、オサリアが笑ってて欲しかったんだ」
勇者らしからぬ、傲慢な願い。
世界を救うなんて、綺麗な願い事ではなかった。
世界を救うことでも。
誰かに称えられることでもない。
ただ、一人の少女に笑っていてほしかった。
「オサリア……」
もう一度、その名を呼ぶ。
返事はない。
もう二度と返ってこないことを思い出してしまった。
「……ごめん」
謝ったところで、届く相手は、どこにもいない。
それでも口から零れるのは、その言葉だけだった。
「ごめん……」
「ごめん……オサリア……」
嗚咽が言葉を飲み込む。
果てのない白へ溶けるように。
その声は、誰にも届かず消えていった。
◆
ふと、意識が浮かび上がる。
冷たい。
ゆっくりと自分の手を持ち上げる。
輪郭だけが、ぼんやりと白い線で縁取られていた。
指先は透けるように淡く、そこにあるはずなのに、触れれば消えてしまいそうな頼りなさがある。
――ここは。
そう呟いた、つもりだった。
けれど声は響かず、静寂だけがどこまでも続いている。
風はない。
温度もない。
確かにそこにあるはずなのに、どこか現実味がない。
ここには風も、温度も、匂いも。
何一つ存在しない。
白と黒だけで塗り潰された、色彩を失った世界。
息を呑み、ゆっくりと視線を巡らせる。
その時だった。
視界の奥を、一筋の白が走る。
さらさら、と。
紙の上を走るペン先のような音だけが、静寂を裂いた。
誰かが紙へ絵を描くように。
線は空間を滑り、枝分かれし、重なり合い。
やがて一軒の建物を形作った。
(あれは……)
洋食屋トレンディ。
ルミナスで、初めてノクス以外の人と食事をした店。
その名前を思い出した途端。
『ペプシルっていうんだ!』
自分の声が聞こえた。
『ペプシルさんは街の人から愛されてるんだね!』
『鬱陶しいったらありゃしない』
少し呆れたような青年の声。
思わず、小さく笑ってしまう。
「ふふ……」
店の中には誰もいない。
椅子も、テーブルも。
すべて白い線だけで描かれている。
楽しそうに話す声。
勇者になる前の、ただの観光客と守衛の会話。
酷く懐かしい。
あの日の空気だけは、確かにそこに残っていた。
一歩、歩く。
黒い世界へ足を踏み出すたび、また新しい線が生まれる。
今度は歯車と煙突。
見覚えのある工房。
『いらっしゃい、ようこそ真鍮鴉へ』
緑の瞳をした職人。
姿は見えない。
それでもその声だけは、昨日のことのように鮮明だった。
『…最高だなオイ!! 神話級の聖剣が機械に反発してやがる!!』
『なんでテンション上がってんだお前!?』
あの夜、工房中へ響いた大声。
騒がしくて、何故か笑いが止まらなくて。
少女は胸へ手を当てる。
「懐かしいなぁ……」
再び歩き出す。
『君、今度は何を持ち込んだ?』
先生の落ち着いた声。
『文句言うたヤツから追い出すで』
獣人の賑やかな声。
『俺はもう、他に守りてぇもん見つけちまった』
騎士の、太陽みたいな声。
見渡すたびに、建物が生まれる。
街が生まれる。
旅で歩いた場所が。
仲間たちと笑い合った景色が。
白い線だけで、静かに描かれていく。
彼らが守りたかった居場所。
守るために、戦った街。
ふと。
少し離れた場所へ、小さな白い塊が集まり始める。
(……何だろう)
少女が近づいてみれば、線はゆっくりと形を変えていく。
それは花びらを描き、葉を描き。
一面の花畑になった。
「あ……」
夜花の庭園。
夜の街で、蒼く淡く輝いていた庭園。
今は、白と黒しかない。
少女はしゃがみ込み、そっと、一輪の花へ触れる。
「……」
空虚を撫でた。
柔らかさも、冷たさも、花びらを撫でる感触さえ。
なにも、なかった。
「そっか……」
掠れた声が漏れる。
暗闇の世界に、独り。
思い出だけ集めて、白黒の世界に溶け込む。
彼らは青空が見える世界で、この先も生きていく。
それぞれが守ったものを胸に抱え、未来へ。
自分たちが選び、勝ち取った世界で。
みんなのいる世界を守れた。
守れたなら。
「良か____ッ……」
言葉が、続かなかった。
音もなく、頬を流れる雫が下に落ちる。
何も無い黒い床に、雫は吸い込まれて行く。
「ちが……」
また一粒、涙が落ちる。
「うちは……」
息を吸う。
吐き出そうとした言葉まで、一緒に震えてしまう。
「みんなが笑ってくれれば、それで……」
言葉の続きを、自分自身が信じられなかった。
自分の気持ちに蓋をするように、声に出して言葉を紡ぐ。
涙が跳ねる音すらしない。
聴こえるのは、自分の呼吸音と、思い出の声だけ。
「っ……」
涙は止まらない。
誰にも聞かれてないとわかってるのに、
なぜか、声を押し殺してしまう。
胸の奥から溢れてきたのは、
綺麗な願いなんかじゃなかった。
皆が笑っている世界を見て。
「うちも…………っ」
泣いている自分なんて。
「みんなと、いたかったなあ……っ」
自分勝手すぎたんだ。
少女の願いは、誰にも届かない。
白黒の世界へ溶けるように。
少女の嗚咽だけが、いつまでも静かに響いていた。
◆
ふと。
視線の端に、一冊だけ。
黒い本が目に入った。
題名も、装丁もない。
幾億もある本から切り離されるように。
白い空間の隅で、静かに横たわっている。
「……?」
ペプシルは無意識に歩み寄った。
手に取れば、それは驚くほど軽かった。
まるで、本ではなく空っぽの箱でも持ち上げたようだった。
ゆっくりと表紙を開く。
「……」
何も、ない。
文字も、絵も、世界も。
未来も。
過去も。
ただ、どこまでも続く闇だけが広がっていた。
「なんだ……この本」
ページをめくる。
一枚。
また一枚。
すると暗闇の中へ、一本の白い線が現れた。
さらさらと誰かが描くように、線は伸び、枝分かれし。
一軒の建物を形作る。
「……あ?」
見覚えがあった。
洋食屋トレンディ。
真鍮鴉。
闘技場。
旅で歩いた景色が。
まるで誰かの記憶をなぞるように、静かに描かれていく。
「これ……は」
世界線じゃない——誰かが見た景色だ。
ページをめくれば、そこには白い線だけで描かれた花畑が描かれていた。
夜花の庭園。
ペプシルはそう直感する。
花畑へ、一本の手が伸びる。
花へ触れる。
けれど何も掴めず、空を撫でるように。
ゆっくりと引き戻されていく。
その動きだけで、誰の手なのか分かってしまった。
「オサリア……」
ページの下へ。
小さく文字が浮かび上がる。
『うちも』
少し間を置いて。
『みんなと、いたかったなぁ』
「…………は」
息が止まる。
本を持つ手が震えた。
違う。
違うだろ。
お前は、最後まで笑って。
皆が笑う明日が来て欲しいって。
そう言って、逝ったんじゃないのか。
「……泣いてんのか……」
掠れた声だった。
震える指が、その文字をなぞる。
「ッ、オサリア……!」
あいつは今も、独りで泣いているのか。
ペプシルは真っ直ぐ本へ手を伸ばした。
届くはずがない。分かっている。
それでも。
——その瞬間。
ページの闇が、ゆらりと波打つ。
「!」
黒い闇が、水面のように指先へ絡みつく。
引き剥がそうとしても離れない。
「ッ……!」
闇が、一気に膨れ上がる。
「オサリアッ!!」
ペプシルは迷わなかった。
自ら、その闇へ身を投げる。
〈ズゥン……〉
重苦しい音ともに。
白い世界から、青年の姿が消えた。
残されたのは、床へ落ちる一冊の黒い本だけ。
〈パタン〉
静寂が、戻る。
◇
――。
音が、消えた。
光も、闇も、何もない。
身体が浮いているのか、落ちているのか。
上下さえ、分からない。
「……っ」
息を呑む。
視界を埋め尽くすのは、どこまでも続く黒。
底のない深海へ放り出されたような静寂だった。
その時、足先へ、何かが触れた。
「……?」
視線を落とす。
暗闇の底。
そこだけ、小さな白い線が集まっていた。
一本。
また一本。
細い線はゆっくりと花びらを描き、葉を描き、無数の花となって足元いっぱいへ広がっていく。
夜花だった。
「……」
ペプシルは無意識に膝を折り、一輪へ手を伸ばした。
指先が、そっと花へ触れる。
――ふわり。
白黒だった花が、淡い蒼色へ変わった。
「……!」
夜空を映したような蒼。
柔らかな光が、花弁の奥から滲み出す。
その輝きは隣の花へ伝わり。
一輪、また一輪と、静かに色を取り戻していく。
「な……っ」
思わず息を呑み、一歩後ろへ退いた。
その瞬間、足元から淡い光が駆け抜ける。
〈ふわっ……〉
夜花が一斉に蒼く灯った。
「……!」
暗闇だった世界へ、少しずつ、色が戻り始めていた。
ペプシルはゆっくりと前を向く。
踏み出せば、花が灯る。
一歩、また一歩。
暗闇が後退していく。
青年が歩くたび、世界そのものが息を吹き返していくようだった。
「……夜花の庭園」
掠れた声が漏れる。
刹那。
さらり、と。
頬を風が撫でた。
「!」
風だ。
初めてこの世界へ、風が吹いた。
夜花が揺れる。
淡い蒼色が波のように広がっていく。
空にはいつの間にか、小さな星々が瞬いていた。
暗闇だった空へ。
一つ。また一つと光が灯っていく。
「……あ」
少し遠くに、まだ色の戻らない場所があった。
その中心だけが、ぽっかりと色を失っている。
そこには。
一人の少女が、小さく身体を丸めて蹲っていた。
栗色の髪も。
服も。
輪郭さえすべて白と黒。
色を失ったまま、肩だけが小さく震えている。
風に乗って、微かな音が届いた。
〈すすっ……〉
鼻を啜る音。
嗚咽を堪える、小さな呼吸。
「__」
ペプシルは、その名を呼ぶ。
少女は動かない。
返事もしない。
ただ、肩がほんの少しだけ震えた。
ペプシルはゆっくりと歩き出す。
一歩。
また一歩。
世界へ色が戻る。
けれど。
少女の周囲だけは、何一つ変わらない。
色も。
風も。
光も。
届かない。
その時だった。
少女の足元から、じわり、と。
黒い闇が滲み出した。
まるで墨を零したように。
闇は静かに広がり。
一直線にペプシルへ向かって走る。
「ッ!」
反射的に腕を上げる。
闇は身体へまとわりつくように絡む。
冷たい。
けれど痛みはない。
その代わり。
胸の奥だけが、締め付けられる。
『……来ないで』
少女の声だった。
風へ溶けるように。
小さく、今にも消えそうな声。
ペプシルは腕へ絡みつく闇を見下ろした。
黒い粒子が、指先へ縋りつくように揺れている。
「来ないでって……」
掠れた声が漏れる。
「なんでだよ」
答えはない。
ペプシルは、もう一歩だけ前へ出た。
その瞬間、闇が先程よりも濃く、太くなってペプシルへ襲い掛かる。
『帰って』
冷たい声。
いや。
冷たいのではない。
泣きそうな声だった。
闇は身体へ巻き付き、肩を掴み、胸を押し返す。
それでも、少しも痛くない。
ただ、どうしようもなく、寂しかった。
「帰れねぇよ」
静かに呟く。
「お前がここに居るのに」
闇が揺れる。
その言葉を拒絶するように。
今度はゆっくりと、黒い闇がペプシルの口元へ伸びてきた。
そのままそっと、唇へ触れる。
喋らなくていい。
何も言わなくていい。
そう言われているようだった。
ペプシルは、その闇へ静かに触れる。
あの日、オサリアの手を離した時と同じくらい冷たかった。




