お前と歩いた世界
祭りの喧騒は、変わらず続いていた。
沢山の人の笑い声。
街のあちこちで鳴り響く音楽。
子供たちの歓声。
その全部が、どこか遠い。
「……どうしたんだい、ぺプシル」
ヨザキが、心配そうに眼鏡を押し上げた。
ペプシルは答えない。
黒い外套を見つめたまま、苦しそうに呼吸を繰り返す。
胸が苦しい。
頭が痛い。
なのに。
足だけが、前へ出ようとしていた。
「……カンナ」
ゆっくりと視線を向ける。
「頼む」
その一言に、皆が息を呑んだ。
「今すぐ、ノクスへ連れて行ってくれ」
「は……?」
カンナが目を瞬かせる。
「どうしたんだ急に」
「分からない」
即答だった。
「分からねぇんだ」
酷く悲しそうな声。
「でも……でも行かなきゃ駄目なんだ」
傍から見れば、その光景は異様だった。
「ぺプシル……」
「頼む」
一歩。
カンナへ近付く。
「何かがある」
もう一歩。
「俺が忘れてる何かが」
視界が揺れる。
黒い扉。
星の紋章。
蒼い花。
——栗色の髪。
全部が、掴めそうで掴めない。
「お願いだ」
気付けば、カンナの両腕を掴んでいた。
力が入り過ぎている。分かっているのに、自分でも止められない。
「今すぐ連れてってくれ」
「頼む……!」
祭りの喧騒が。
その一瞬だけ、静まり返ったように感じた。
カンナは驚いたまま、ペプシルの顔を見る。
そこにいたのは、いつもの冷静な青年ではない。
何かを失くして。
何かに縋るような。
今にも泣き出しそうな顔をした、一人の青年だった。
「……分かった」
カンナはゆっくり頷く。
「そんな顔されたら、断れないじゃないか」
小さく笑って。
けれど、その表情はすぐ真剣なものへ変わる。
「……今すぐでいいんだな?」
ペプシルは迷わず頷いた。
「ああ」
その返事だけで十分だった。
カンナは黒い外套の内側から、小さな銀色の結晶を取り出す。
掌へ乗せると、静かに目を閉じた。
「──転移術式 」
淡い、紫色の光がペプシルの足元へ広がる。
幾何学模様が幾重にも重なり、円を描く。
「えっ、ちょっ!」
サクヤが慌てて声を上げた。
周囲の人々も、滅多に見ない闇魔法にざわざわと好奇の視線を向けていた。
「ほんまに行くん!?」
「今から!?」
グランヴィアも目を丸くする。
「ぺプシル!」
ヨザキが呼び止める。
ペプシルは一度だけ振り返った。
皆の顔を見る。
笑っている。
困っている。
心配している。
大切な仲間たち。
なのに。
……胸の奥は、何一つ満たされない。
イリアスは目を細めた後。
「……失くしたんなら、見つけてこい」
そう言って、ぽりぽりと頭を掻く。
「……悪い」
掠れた声で、それだけ告げた。
カンナが静かに頷く。
「行ってこい」
光が一層強くなる。
祭りの喧騒が、白い光へ飲み込まれていく。
カンナは翳した掌を、ゆっくりと握る。
「──転移」
その言葉を最後に、見えたのは。
心配そうに手を伸ばすサクヤの姿だった。
「ぺプシルーッ!」
声が届く前に。
〈シュン――〉
世界が反転する。
眩い光が視界を埋め尽くした。
〈――〉
音が、消えた。
身体がふわりと浮く。
重力も、風も、祭りの喧騒も。
何もかもが、白い光の向こうへ遠ざかっていく。
(――)
瞼の裏を、無数の光が流れていく。
流れる星のように。
『ペプシル!』
誰かが笑った。
栗色の髪が揺れる。
『はい!』
蒼い花畑。
差し出された、小さな花冠。
「……誰だ」
声に出したつもりだった。
けれど。
自分の声さえ、聞こえない。
『暇なんだもん』
『ペプシルも食べる?』
『えへへ!』
鈴を転がすような無邪気な声が、脳裏に過ぎった。
「待て……!」
伸ばした手は。
誰にも届かなかった。
〈シュン――〉
足裏へ、硬い石畳の感触が戻る。
冷たい空気が、頬を撫でた。
鼻先を掠めるのは。
夜に咲く花の、淡く甘い香り。
ゆっくりと瞼を開く。
そこは、静寂に包まれた夜の街、ノクス。
冷たい色の花々が、風に揺れる。
黒曜石で出来た建物。
蒼色に揺らめく魔法灯。
空を埋め尽くす星々。
祭りの喧騒が嘘だったかのような、静かな世界。
「……ノクス」
掠れた声が漏れる。
胸の奥が、どくん、と大きく脈打つ。
来たことがある。
そんなはずはない。
自分の街から出ることなんてなかった。
けれど、不思議とその足に迷いは無かった。
誰かに導かれるように。
蒼い魔法灯。
黒曜石の家並み。
星々を映す泉。
見覚えがあるはずなのに、輪郭だけがぼやけている。
「……ここは」
足が止まらない。
まるで、身体の方が道を覚えているようだった。
その時。
「――案内する!」
弾むような声が、耳の奥で響いた気がした。
振り返る。誰もいない。
けれど確かに聞こえた。
頭に浮かぶ、栗色の髪と琥珀色の瞳をした少女。
名前を呼ぼうとして、喉の奥が詰まる。
(……誰だ)
思い出そうとするほど、輪郭が崩れていく。
指の隙間から零れる水のように。
それでも、足は迷わなかった。
やがて、蒼い灯りの途切れた先に、巨大な黒い建物が現れる。
星の紋章が刻まれた扉。
見覚えのある――いや、覚えているはずのない場所。
「星見の、書庫……」
口にした瞬間、頭の奥で何かが軋んだ。
『天上記録庫』
『鍵が失われておる』
『世界が今とは違う形をしておった頃の記録』
老人の声。誰の声だったかも分からない。
それでも、確信だけがあった。
ペプシルは勢いよく書庫の扉を開ける。
迷路のように連なる本棚を、迷いなく進んでいく。
そして。
「……あった」
書庫の奥。
立入禁止の札が掛けられた区画に。
『天上記録庫』
そう、古びた文字が刻まれた黒い扉が佇んでいた。
「——ッ」
思わず息を呑んだ。
この扉の向こうに、忘れているすべてがある。
そんな気がしてならない。
ペプシルは震える手を、黒い扉へ伸ばした。
開くかも分からない。
それでも。
ただ、なにかに縋るように。
ペプシルの手が触れた瞬間――
〈ゴゴゴゴゴ……〉
重い音とともに、星の紋章が淡く輝いた。
何百年も閉ざされていたはずの扉が、
まるで彼だけを待っていたかのように、静かに開いていく。
ペプシルは、導かれるように。
一歩、また一歩。
記録庫の中へ足を踏み入れた。
中は、言葉にするなら——白かった。
白という言葉さえ、正しいとは思えない。
言うなれば、色という概念そのものが存在しない世界。
天井もなければ床もない。
ただ、無数の光の筋が、四方八方へ果てしなく伸びていた。
「……なんだ、ここ」
一歩踏み出す。
その瞬間、ペプシルの足元から線が伸びる。
「ッ!?」
細い線は、音もなく空間を駆け巡っていく。
一本。
また一本。
交わり、枝分かれし。
やがて。
一冊の本の輪郭を描いた。
〈パラ……〉
本が、勝手に開く。
すると、その本からさらに無数の光が溢れ出し。
次々と本へ姿を変えていく。
一冊。
また一冊。
新たな本を、果てしなく生み出していく。
上へ。
横へ。
下へ。
前へ。
後ろへ。
視界の果てまで。
本棚という概念さえ存在しない空間へ、無数の本だけが、星々のように浮かび始めた。
「……」
ペプシルは、何気なく目の前に落ちてきた本を手に取る。
〈パラ……〉
本がひとりでに開く。
知らない少年が生まれ、成長し、老いて死ぬまでの内容。
そんな光景が一瞬で流れた。
ページを閉じる。
すぐ隣の本を開く。
そこでは、同じ人物が全く違う人生を歩いていた。
違う家族。
違う出会い。
違う結末。
「……違う」
もう一冊。
違う。
また違う。
ペプシルは息を呑む。
「……全部」
周囲を埋め尽くす。
無数の本を見上げる。
果てがない。
世界が違う。
運命が違う。
選択が違う。
「全部……世界線なのか」
誰も答えない。
けれど。
その理解だけは、自然と胸へ落ちてきた。
ペプシルは静かに呟く。
「だったら」
震える声。
「あるはずだ」
本棚へ視線を向ける。
「オサリアが笑ってる世界が」
ごく自然と、当たり前のようにその名を紡ぐ。
鼓動が速くなる。
「誰も死ななくて」
「アイツらも」
「オサリアも」
「みんな、笑ってる世界が」
足は、ひとりでに動いていた。
まだ微かに、靄が残っている。
何故彼女が居ないのか。
何故こんなことになったのか。
何故、こんなに胸が締め付けられるのか。
「どこかに、あるはずだ」
ペプシルは、積み重ねられた数え切れない本を一つ一つ手に取った。
〈パラ……〉
開いた瞬間、世界が眼前に広がる。
幼い頃の自分。
見知らぬ家族。
見知らぬ街。
見知らぬ人生。
次の瞬間には、すべてが閉じる。
「……違う」
本を閉じる。
また一冊。
今度は、魔物や聖剣など存在しない世界だった。
誰も魔法を知らず、人々は違う文明を築いている。
知らない乗り物に乗って。
知らない服を着ている。
「違う」
閉じて、また一冊。
レーネが皇帝ではない。
プルーも存在しない。
知らない誰かが玉座へ座っている。
「違う……!」
また一冊。
また違う。
また違う。
「違う」
「違う」
「違う……!」
本を開くたび。
一つの世界が生まれ。
一つの人生が流れ。
そして消える。
その中には、世界が滅んだ未来もあった。
誰一人生まれなかった世界もあった。
六都市が存在しない世界もあった。
空が赤い世界。
海が存在しない世界。
神など最初からいない世界。
すべてが、本の中にあった。
「違う……」
息が上がる。
違う。
欲しいのは、こんな世界じゃない。
また一冊。
オサリアがいた。
「!」
思わず本へ顔を近付ける。
確かにこの目で、何度も見た栗色の髪。
少女は笑っている。
「オサリア……!」
胸が高鳴った。
だが。
その隣にいるのは、自分ではなかった。
別の誰かと笑い合い、別の人生を歩いている。
ページは最後まで進む。
そして、彼女の墓標だけが残った。
「……違う」
彼女は笑っている。
なのに。
ぺプシルはその本を閉じる。
震える手で次を掴む。
オサリアが生きて、自分だけが居ない世界。
「違う」
オサリアだけが生きて、それ以外が居ない世界。
「これも違う…」
そもそもふたりが出会わない世界。
「クソッ…!」
読み終えた本を乱暴に投げ捨てる。
気付けば、周囲には読み終えた本が無数に漂っていた。
息が上がっている。目の焦点が合わなくなっていく。
それでも、手は止まらない。
「あるはずだ……!」
掠れた声が漏れる。
「あるはずなんだ……!」
涙が滲む。
「どこかに……!」
狂ったように本を掴む。
開いては閉じ。
開いては閉じる。
何十冊。
何万冊。
何億冊。
本は、無数に広がる星屑のように周囲を漂っている。
ペプシルは膝をついた。
呼吸が苦しい。
震える手から、一冊の本が零れ落ちる。
「……なんで」
誰へ向けた言葉でもなかった。
「なんで、無いんだ」
肩が震える。
「一つくらい……」
涙が、本へ落ちる。
「一つくらい、あってもいいだろ……」
その時だった。
――コトン。
静かな音がした。
読んでいた本でも、積み上げた本でもない。
たった一冊だけ、何もない空間から。
まるで誰かが置いたように。
一冊の本がペプシルの目の前へ落ちた。
「……?」
ゆっくりと拾い上げる。
他の本とはどこか違う。
不思議なくらいに、重い。
指先が震える。
表紙へ視線を落とした、その瞬間。
息が止まった。
そこには、ただ一行。
銀色の文字だけが刻まれていた。
『ペプシル・ツウィンズ』
「――は」
その名前を見た瞬間。
胸の奥で、何かが激しく脈打つ。
忘れていたはずの痛みが。
喪失が。
後悔が。
一斉に、心臓を締め付ける。
「……これは」
震える指で。
ゆっくりと表紙を開く。
〈パラ……〉
最初のページに映ったのは。
聖剣祭りの日。
剣を抜いた、自分だった。
「――ッ」
ページが、勝手にめくられる。
勇者の逃亡。
仲間との出会い。
旅。
笑い合った日々。
六都市。
ノクス。
サンクチュアリ。
すべてがら猛烈な勢いで流れ始める。
「やめ……」
ページは止まらない。
そして、最後のページ。
血に濡れた白い祭壇。
栗色の髪の少女。
涙を流しながら。
それでも笑っている。
『……ありがとう』
震える手で握られた聖剣。
自分が、その剣を振り下ろす。
「――あ」
世界が、止まった。
違う。
違う。
違う。
そんなはずがない。
俺が、俺がオサリアを。
——殺した……?
忘れていた記憶が、堰を切った濁流のように。
一瞬で、ペプシルの中へ流れ込んできた。
「――ぁ、あ……ッ」
聖剣を抜いて、ルミナスを逃げ出した日。
イリアスに聖剣を改造してもらったこと。
ヨザキと結晶の原因を調べる旅に出たこと。
サクヤと街の問題を解決したこと。
グランヴィアが勇者の自分を守ってくれたこと。
皆と食べたご飯。
いつも騒がしい、他愛もない会話。
旅の途中で見た、皆の色んな表情。
運命から逃げ出した光の街。
居場所をくれた闇の街。
天上記録庫、黒い結晶、サンクチュアリ。
そして。
栗色の髪を揺らして笑う、一人の少女。
「ペプシル!」
「お刺身、すっごく美味しい!」
「えへへ!」
笑って、泣いて。
怒って、拗ねて、転んで。
花冠を編んで。
「似合ってるよ?」
その笑顔が。
その声が。
その温もりが。
何もかもが、一気に胸へ押し寄せた。
「オサリア……」
喉が震える。
次の瞬間、彼女の笑顔は、砂のように消え去った。
巨大な黒い結晶。
オサリアと世界を飲み込む神。
震える聖剣。
左手の冷たい体温。
涙で滲む視界。
『……終わらせて』
「やめろ……」
思い出したくない。
『だいす——』
「やめろッ!!」
耳を塞ぐ。
けれど記憶は止まらない。
自分の叫び。
サクヤの泣き声。
そして。
白い刃が、少女の胸を貫いた。
『……ありがとう』
その最後の笑顔まで。
鮮明に、何一つ欠けることなく。
「—————あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙っっ!!」
劈くような絶叫が、透明な世界へ響き渡る。
手から本が滑り落ちた。
膝をついたまま、床もない虚空へ拳を叩きつける。
「俺が……!」
嗚咽が喉を塞ぎ、息を正しく吸えない。
「俺が……ッ!」
言葉の続きを吐こうとするたび、涙が口の中へ流れ込む。
視界はぐしゃぐしゃに滲み、自分の手さえまともに見えない。
「オ……」
ただ、ひとつの真実だけがまっすぐ彼を刺していた。
「……ッ、俺が……殺した……!」
周囲を漂っていた無数の本が、一斉に震えた。
〈パラパラパラパラパラッ――〉
何万冊。
何億冊。
数え切れない本が、一斉にページをめくり始める。
まるで、その事実を肯定するように。
「違う……」
首を振る。
「違う……!」
認めたくない。
だが。
この記録庫は嘘をつかない。
ここに記されたのは、起こり得た世界。
そして。
彼が歩いた、たった一つの世界。
「俺は……」
震える両手を見る。
あの日、星となり消え去る空虚を抱いた、この手を。
「全部、全部……思い出した……ッ」
掠れた声が、静かな記録庫へ溶けていく。




