それぞれの世界
聖剣が抜かれてから、季節がいくつか巡った。
世界は、変わった。
いや——正確に言うなら。
変わり始めた、というべきだったのかもしれない。
プルーの死後、アストラは長く指揮系統を失っていた。
彼が強引に握り潰していた各街の自治権は、
少しずつ元の持ち主の手へと返されていく。
ガルディアでは、再び武人たちが合議を重ね。
ラグナでは、長老たちが村々の声を拾い。
アイゼルでは、ギルドの職人達が街を動かし。
レヴァリアでは、賢者たちが評議を開く。
そしてルミナスでもまた、文官たちの手で法が編み直されていった。
各街の代表が円卓を囲み、話し合いで方針を決める――かつてそうであったはずの在り方が、時間をかけて取り戻されつつある。
そして。
世界中を蝕んでいたあの黒い結晶は、光の粒となって静かに消えていた。
理由を知る者は、ほとんどいない。
だが。
ラグナの北山に立ち枯れたままの木々。
ガルディアの西部鉱山に残る封鎖区画。
ルミナスの半壊した街々。
爪痕は、まだそこかしこに残っている。
けれど、それ以上増えることはなかった。
魔物は落ち着きを取り戻し、
人々はまた、明日を当たり前のものとして数え始めた。
セレスティアでは、皇帝の死は当初、秘されたままだった。
けれど、地下に隠されていた施設の噂は消せなかった。
名前を奪われた人々。
評価という名の恐怖。
それを知る者たちが、少しずつ、少しずつ声を上げ始めている。
地下施設の実態が明るみに出るにつれ、人々は自分たちが恐怖によって従わされていたことを理解し始めていた。
その混乱の中で、もうひとつ、静かに崩れていったものがある。
ノクスから来た行商人の姿を、以前より頻繁に街角で見かけるようになった。
蒼く光る夜鉱石のランプ。
夜花で編んだ小さな飾り。
珍しそうに手に取る人はいても、眉をひそめる者は、以前より確実に減っていた。
ノクスにも議会の席を――そんな話すら、どこかで囁かれ始めている。
隔離の法が撤廃されたわけではない。
第四条は、まだ議会の書類の中で眠ったままだ。
何も、綺麗には片付いていない。
新しい体制は定まらず、混乱は続いている。
それでも——恐怖で押さえつけるだけの世界より、
今の方がいくらか息がしやすいのだと。
そう言う者が、増えてきていた。
聖剣を持ち去った勇者の手配書は、今も、どこかの掲示板に貼られたままかもしれない。
けれど、それを本気で追う者は、もういない。
「あれは、国の闇を暴いた男だ」と、まことしやかに囁く声すらある。
真実か、誤解か。
それを確かめる者もまた、いない。
◇
〈カン!カン!カン!〉
〈チクタクチクタク〉
〈プシュー……〉
蒸気が吹き出し、歯車が回るこの街では。
「――違う! もっと角度浅く叩け!」
真鍮鴉の奥の工房で、緑の瞳の青年は弟子の手元を覗き込みながら顔をしかめた。
「はい、師匠……」
数ヶ月前、突然「弟子にしてくれ」と押しかけてきた少年だった。
最初は追い返そうとしたが、諦めが悪い上に筋は悪くない。
気づけば、面倒を見る羽目になっていた。
「師匠って呼ぶな」
「じゃあ何て呼べば」
「イリアスでいい」
「でも……」
「いいから打て」
そう言いながらも、その口元はどこか緩んでいる。
工房の壁には、以前と変わらず名前の刻まれた剣が並んでいた。
けれど一本だけ、以前にはなかった場所に飾られている剣があった。
『夜渡り』
『ありがとう』と一言。
老いた職人からもらった、あの一振り。
売り物ではない。ただ、そこに在るだけでいい。
「――イリアス!」
不意に、店の入口から声が飛んだ。
振り返れば、見覚えのある赤いメッシュの入った黒髪の男が、豪快に手を振っている。
「グランヴィア……お前、何しに来た」
「武器の調整だ!この前の遠征でちょっとガタが来てんだよ」
大剣を担いだまま、店内へずかずかと入ってくる。
弟子の少年が「闘技場の…!」と目を丸くして固まった。
「……有名人か」
「有名っちゃ有名だな」
騎士は照れくさそうにしている。
鍛冶師は肩を竦めながら、大剣を受け取る。
「ソラは元気か」
「元気だ!!最近は学校に通い始めて、友達まで出来てる」
「そりゃあ良かったな。兄が寂しがりそうだが」
「いや?ソラの一番は俺だけどな?」
「シスコンが」
軽口を叩きながら、慣れた手つきで刃を確かめる。
アイゼルの喧騒は、今日も変わらず賑やかだった。
工房の窓から見える空には、相変わらず空中列車が白い蒸気を引いて駆け抜けている。
「――なあ」
騎士はふと、真面目な顔になった。
「お前んとこの弟子、筋いいのか」
「悪くない」
「なら、そのうちうちの武器も打ってもらうか」
「十年早い」
即答に、弟子の少年がしゅんと肩を落とす。
緑の瞳は、ふ、と小さく笑った。
「……まあ、五年だな」
その一言で、少年の顔がぱっと明るくなった。
ふと、騎士の視線が工房の隅へ向く。
「お前、まだそれ置いてんのか」
示された先には、小さな棚。
歯車の欠片と、焼け焦げた黒鉄の装甲片が、ガラスケースに収まっていた。
前代未聞の改造を施したあの夜、暴走する聖剣を抑え込んだ末に弾け飛んだ、機械大剣の装甲の一部だった。
「記念品だ」
「証拠品の間違いだろ」
「証拠なんざ、とっくにねぇよ」
鍛冶師は肩を竦める。
「あん時ので全部外れて、吹っ飛んじまったからな。今頃ルミナスの空の下で刺さってるだけの、ただの聖剣だ」
「……にしても、出来すぎだよなぁ」
騎士が苦笑する。
「国家転覆ものの改造品だってのに、証拠だけ綺麗さっぱり消えるなんてよ」
「運が良かっただけだ」
そう言いながらも、鍛冶師はその棚を眺める目を、少しだけ細めた。
「あれを超える最高傑作は、もう多分ねぇな」
◇
「はい、次の問題」
黒板に向かって文字を書きながら、
黒髪の青年は静かに続けた。
「先生、この前のお話の続きは?」
「宿題を先にやりなさい」
「えー」
不満そうな声に、教室の中から小さな笑いが起こる。
運河から吹き込む風が、開けた窓を揺らした。
放課後。
教室に一人残り、先生は机の上に積んだ資料を整理していた。
黒い結晶の残留記録。
結晶が消えた理由についての推論。
どれも、まだ結論には至っていない。
「提出しても、誰も信じないだろうね」
独り言のように呟き、紙を束ねて棚へしまう。
真実を、真実のまま公表することが正しいとは限らない。
ふと、闇魔法やノクスについて書いた書類を手に取る。
彼女と過ごす中で、密かに記録していたもの。
「……残しておいて正解だった」
学府におまけ程度に提出したものだが、魔導師たちは思わぬ知見を得たらしい。
レヴァリアはノクスへの偏見を改め始め、それは伝播するようにセレスティア中で少しずつ広がっていったのだ。
窓際で、花瓶に飾られた夜花を静かに見つめる。
「ヨザキ先生ー!」
突然、扉が勢いよく開いた。
「イリアスさんから手紙来てましたよ!」
生徒の一人が、封筒を差し出してきた。
受け取り封を切ると、中身は簡単な近況と、雑な絵で描かれた新型魔導具の設計図だった。
『今度見せてやるから来い』
その一文だけで、思わず笑みがこぼれる。
「……相変わらずだ」
窓の外、運河の水面に夕陽が反射していた。
ゴンドラの鐘の音が、静かに響いている。
塾の壁には、まだあの日の飾りが残っていた。
『おかえり ヨザキせんせい』
色褪せた紙飾りを見上げ、彼は小さく目を細めた。
◇
風車が、今日もゆっくりと回っている。
「サクヤ姉ちゃん! 見て見て!」
広場の隅、少女が得意げに一枚の紙を掲げていた。
下手くそだが、確かに山と風車が描かれている。
「おお、上手いやん!」
赤い瞳の女性は、優しく頭を撫でる。
その隣で、少し背が伸びた少年――かつて少女の兄だった子が、腕を組んで得意げにしていた。
「俺が教えたんだ」
「お前が?」
「サクヤ姉ちゃんの絵、真似してるだけだけどな」
減らず口を叩くようになったのも、成長の証だろう。
あの日、誰よりも大人びていた少年。
今はようやく、年相応の子供らしい顔を見せるようになっていた。
「そういや、村長のとこ寄った?」
「寄った。相変わらず口うるさいわ」
女性は苦笑しながら、山の方角を見上げる。
北の山は、まだ完全には戻っていない。
立ち枯れた木々が、静かにそこに在り続けている。
けれど。
魔物の被害は落ち着き、税の重さも少しずつ緩められていた。
身寄りの無い子達は、今度こそ大人に護られている。
「この前」
村長が、広場の椅子に腰掛けながら口を開いた。
「レヴァリア学府の者が来た。山の調査続けとるらしい」
女性は槍を担ぎ直す。
「ヨザキか」
「そやつも居るじゃろう」
「アイツ、理詰めしてきよるから怖いんよなあ」
小さく笑いながら、彼女は空を見上げた。
「……また来るんかな、あいつら」
その問いに、答える者はいない。
けれど、答えを急ぐ必要もなかった。
女性は槍を傍らに置き、広場の椅子に腰掛けた。
一冊のスケッチブックを膝の上で開く。
最初のページは、翠嶺の見慣れた山々。
次のページは、ガルディアの赤茶けた街並みと、闘技場の熱気。
白亜の都、アストラの威圧的な城壁。
そして――蒼く淡く輝く、ノクスの夜花の庭園。
旅の途中、暇さえあれば描いていた。
景色だけじゃない。
次のページを捲れば、六人の姿があった。
仏頂面の金髪の青年。
銃を振り回す茶髪の男。
眼鏡を光らせる黒髪の学者。
豪快に笑う赤メッシュの騎士。
そして、いつも笑っている栗色の髪の少女。
その中に、緑髪の獣人が、少しだけ照れくさそうな顔で描かれている。
「……ふふ」
小さく笑みが零れた。
「今度はアイツらの街もスケッチするか」
あの頃は、こんな旅になるとは思っていなかった。
まさか、世界の終わりに立ち会うことになるとも。
それでも、描き残しておいて良かった、と心から思う。
「……せや」
女性は新しいページを開くと、鉛筆を握った。
目の前に広がる、いつもの風車と山々。
何度も描いてきたはずの景色。
それでも、今日の一枚は、また少し違って見えた。
夕焼けが山々を染めていく。
子供たちの笑い声が響く広場で、女性は風に吹かれながら、のんびりと筆を動かしていた。
◇
「――ほら、着いたぞ!」
馬車を降りるなり、
赤メッシュの入った黒髪の青年は大きく伸びをした。
騎士団への帰還報告は、拍子抜けするほどあっさり済んだ。
書かされた反省文は、たったの二枚。
元より勇者保護法の在り方には、ガルディア内部でも疑問の声がくすぶっていたのだ。
その疑問を、命令に背くという形で表に出したのが、他でもない自分だった。
ただ、それだけの話。
潮の匂いが、真っ先に鼻を掠める。
「わあ……」
黒髪の少女は、光を反射する海のように目を輝かせた。
「本当に、来られたんだね」
その声には、まだ少し、信じられないという響きがあった。
十三年間。
家から出ることさえ、ほとんど許されなかった身体。
今は外に出て、自分の足で立てる時間があるくらいには回復していた。
「約束したろ」
青年は、少女の手を優しく握りながら砂浜へと進んでいく。
「もっと近くまで行くか?」
「行く!」
砂浜の際、波打ち際まであと少しのところで、足を止める。
「どうだ?」
波音が二人を包む。
二人はただ、目の前に広がる青を、じっと見つめていた。
太陽の光を受けて、細かく砕けるように輝く波。
遠くまで続く水平線。
潮風が、彼女の髪を優しく揺らした。
「……綺麗」
掠れた声で、それだけ呟いた。
「絵よりも、本よりも、ずっと綺麗」
少女の言葉に、青年は小さく笑った。
「 ……そうだな」
しばらく、二人は無言のまま、波の音だけを聞いていた。
「兄さん」
「どうした?」
青年は少女の目線に合わせて屈んだ。
「……これから、いろんなこと一緒にしよう」
「夜空も、山も、お祭りも」
「兄さんと、一緒に見たい」
「いきたい」
青年は、少女の真っ直ぐな言葉に喉が詰まる。
「……ッ、うん」
「ソラがいきたいところなら、どこまでも連れていく」
波が、静かに寄せては返す。
青年は、込み上げる何かを抑えるように空を見上げた。
雲一つない、青い空だった。
少女は、波の音を聞きながら。
兄の横顔を見つめる。
初めて、自分の意思で。
「今」という時間を、自分の瞳に焼き付けていた。
◇
蒼い灯りの下。
琥珀色の瞳の少女が、夜花の庭園で花冠を編んでいた。
「……よし、これくらいでいいかな」
夜花を編み込んだ冠を、満足げに掲げる。
星迎え祭は、もう目前だった。
「毎年張り切りすぎだろ、お前」
「だって楽しいんだもん!」
隣で、翡翠色の髪を揺らした女性が呆れたように笑っていた。
「それに、今年は光の街の人達も来てくれるかもなんだよ!張り切るのも当然!」
「ノクスの境界の案内所、最近は結構人が来てるらしいな」
「うん!」
少女の声が弾む。
「まだ結界は解けてないが……迎えに行けば、誰でも来れるようになったからな」
閉ざされていた街が、少しずつ、外へ手を伸ばし始めている。
それは、この旅で得た、小さくない変化の一つだった。
「今年は誰か呼ぶのか?例の勇者とか」
「サクヤ達にはお手紙送った!ペプシルは呼んでない!
今度ルミナスに行くから、その時直接誘う!」
女性は目を細めた後に、ふっ、と笑った。
「そうか。まあ、来ないわけないと思うがな」
「うん!絶対に来るよ!」
根拠なんて、どこにもなかった。
それでも、そう言い切れることが、今の彼女には何よりの支えだった。
「そういえば」
女性は花を編む手を止め、ふと少女を見た。
「今更だが、どうしてノクスから出ていったんだ?」
少女は花冠を掲げたまま、少しだけ視線を上げる。
「自分の目で世界を見たかった。それは、分かる」
「でも、なんでルミナスだったんだ?」
指先で夜花の茎をくるくると弄びながら、懐かしむように目を細めた。
「それはたまたまだよ。本当、適当に転移使って」
少女はふふっと笑った。
「で、気付いたらルミナスに居た」
「行き当たりばったりにも程があるだろう…」
呆れたような声に、少女はけろっとした顔で頷く。
「うん!最初はちょっと観光して、すぐ帰るつもりだったんだよ」
「でも――」
そこで、少しだけ言葉を切る。
「泣きそうな顔で、聖剣握ってる人に会っちゃって」
水色の瞳が、面白そうに細まった。
「それがペプシルか」
「うん」
少女は花冠を胸に抱くように持ち直す。
「でも、正直渡りに船だったの。うちにとっても」
「ペプシルを連れて逃げるっていう口実が出来るからって?」
「……えへへ」
少女は目を逸らし、笑った。
「でもさぁ」
「行き先も、帰る日も決めずに家出したうちと」
「運命から逃げ出したペプシル」
夜風が、編みかけの花冠を揺らす。
「ただの偶然で、沢山のものを得られて、学べて。
こんなに長い旅になるなんて、思わなかったな」
そう言って、少女はもう一度、夜空を見上げた。
「……大きくなったな」
女性は小さく、そう呟いた。
蒼い花畑の中で、旅の思い出を語りながら。
星迎え祭の準備が進んでいく。
終わらない夜の街に、また一つ、季節が巡っていた。
◇
「――おら、ぼーっとすんな!」
聖光ルミナスの正門で、槍を構えた老年の守衛が、若い青年の背を小突く。
「今日は北通りの巡回、お前な」
「……分かってる」
金髪の青年は面倒臭そうに剣を担ぎ直すと、大きく欠伸をした。
「はあ……聖剣祭り、今年も面倒だな……」
呟きながら歩き出す。
台座には、聖剣が刺さっていた。
自分で刺した訳でもない。
ただ、気づけばそこに戻っていたのだ。
街へ戻った当初は、母親と街の人々にしこたま怒られた。
怒られて、泣かれて。
それでも、勇者ではなく、一人の青年として迎えを待ってくれていた。
その帰還はルミナス中で大騒ぎ。
誰かが誰かに話し、その誰かがまた別の誰かに話し。
日が落ちる頃には、街のほとんど全員が知るところとなっていた。
その騒ぎは当然ながら日を置かずしてアストラの耳にも入り、新星騎士団が事情聴取のため街を訪れたが、彼らが得たものは何もなかった。
守衛隊は「魔物からの避難行動中に見失った」の一点張りを崩さず、母親は「療養のため親戚の家に厄介になっていた」と迫真の演技で涙ながらに訴え、市場の商人達は「そんな話は知らない」「見た覚えがない」と口を揃えた。
示し合わせたはずもないのに、街中の証言が奇妙に噛み合っていた。
誰もが少しずつ違う嘘をつき、それでいて、誰一人として綻びを見せなかった。
騎士団は、それから幾度となく街を訪れたが、半年が過ぎ、一年が過ぎる頃には調査官の姿を見ることもなくなった。
街が一人の青年を取り戻すのに、そう長くはかからなかった。
守衛隊に戻ったのも、つい最近のことだった。
「勇者だった男」を今すぐ現場に出す訳にはいかない、
という上の判断で、しばらくは見習いのような扱いを受けている。
不服はなかった。
むしろ、ちょうどいい。
騒がしい聖剣祭りの喧騒。
物売りの声。
子供の笑い声。
見慣れた、どうでもいい日常。
それが、今は、ひどく愛おしかった。
「ぺプシルー!」
その声に、思わず足が止まる。
振り返るまでもなかった。
「――お前、また来たのかよ」
呆れたように言いながらも、口元は緩んでいる。
栗色の髪を揺らす少女は、人混みをかき分けて駆けてくる。
その手には、包みごと湯気を立てる何かが握られていた。
「お土産!月花パイ!」
「ノクスの菓子じゃねぇか、持ち歩くの大変だっただろ」
「頑張った!」
得意げに胸を張る。
その顔に、いつかの重さは、もうどこにもなかった。
「……また黙って抜け出したんじゃねえだろうな」
「カンナに乗せてもらったよ!公認!」
いつものように、あっけらかんとした答え。
それでいい、と青年は思う。
「ったく……」
小さく息を吐きながら、差し出された包みを受け取った。
まだ温かい。
「昼飯、まだだろ」
「食べる!」
「即答すんな」
軽口を叩きながら、二人は自然と、いつもの店へ足を向ける。
洋食屋トレンディの扉を開ければ、カランカラン、と鈴の音。
「あら!ぺプシルちゃんと――」
女将さんは目を丸くしてから、すぐに嬉しそうに笑った。
「オサリアちゃん!
いつもこの子の世話焼いてくれてありがとうねぇ」
「世話焼いてんのは俺だ」
「えへへ」
いつもの席。
いつもの喧騒。
変わらない、いつものオススメ。
二人は言葉を紡ぐ。
最近あったこと。
嬉しかったこと。
行きたい場所。
何の重荷も、責任もない。
ただの雑談。
「ねえねえ!」
少女は話しかける。
「ずっと気になってたこと聞いて良い?」
「何だ?」
少女はドリアを頬張りながら、目を輝かせる。
「ペプシルって、なんであんなすんなり聖剣抜けたの?」
「使えるって分かってたみたいに!」
青年は思わず目を逸らす。
そこに気づくか、とため息をついた。
「…」
観念したように目線を少女に戻した。
「子供の頃、夜中に家抜け出して……いたずらで触ったんだよ」
「まさか自分が抜けるなんて思いもしなかった。あまりにもすんなりと抜けそうになるもんだから、慌てて戻して、そっからずっと知らねえ振りしてた」
少女がきょとんとする。
そして大きく笑った。
「…おい、笑うな」
「だって…!!身体が勝手に動いた、とか、お告げが聞こえたとか、そういうの想像してたから……っ」
「抜けんの分かってて使わない方が後味悪ぃだろ。あのまま死ぬよかマシだっただけだ…」
くふふっ、と少女は苦しそうに笑う。
青年はバツが悪そうだった。
「……でもさ!」
お水を飲んで、ようやく落ち着いた少女は青年に向き直る。
「勇者になってなかったら、こんなにすごい冒険出来なかったよ!」
屈託のない笑顔だった。
「……まあ、一理ある」
相変わらず不器用な答え。
それでも表情は緩んでいた。
「ペプシルや、皆にも会えたし!」
「……ああ」
青年は少女を見つめる。
大切な宝物のように。
慈しむように。
「なあ」
青年は、ふと口を開いた。
「次はいつ来る」
「んー……分かんない!」
少女はにこにこと笑う。
「でも、また来る」
それだけだった。
理由も、約束もいらない。
ただ。
そう言い切れることが、今の二人にとっては何よりの幸せだった。
夕暮れ。
街の外まで、青年は少女を見送りに出た。
「今度はうちに来てよ」
街の外れで、少女が振り返る。
「ノクスにか?」
「うん!もうすぐ星迎え祭だから!」
「……考えとく」
「ぜーったいに来て!歌うから!」
小さく笑いながら、彼女は駆け出す。
荷馬車が待つ方向へ。
その笑みを見て、青年は青い瞳を細めた。
「気を付けろよ」
少女は駆け出し、少し離れたところでパッと振り返る。
大きく手を振った。
「また来るね!」
「——大好きだよ!!」
「……は!?」
青年の間の抜けた声は、夕焼けの中に、まっすぐ響いた。
聖剣が刺さった台座には、今日も祭りの飾りが揺れている。
世界は、まだ何も終わっていない。
恐れも、混乱も、消えてはいない。
それでも。
たった一人の少女が。
たった一人の青年の元へ。
これからも、当たり前のように帰ってくる。
それが、彼の選んだ世界だった。
◇
六人は、あの日々のように毎日を共に過ごしてはいない。
各々の選んだ道で、各々の日々を過ごしていく。
だって、旅が終われば、帰るのだから。
それでも、あの日々が紡いだ絆は消えない。
誰かが誰かの街へふらりと顔を出しては、
くだらない話をして、飯を食って、また帰っていく。
勇者の逃亡録は終わった。
それでも、世界は続いていく。
ようやく彼らは、名前の無い世界を歩いていくのだ。
完結です。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました。
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