光に還る宝物
〈……〉
悠久を思わせるほどの、静かな時間。
世界を震わせていた鼓動も。
花弁のざわめきも。
誰かの呼吸さえも。
何も、聞こえない。
ただ、白銀の聖剣だけが、少女の胸を静かに貫いていた。
「…………」
ペプシルは動かない。
左手はまだ、少女の手を握ったままだった。
指先から伝わる温もりは、ゆっくりと、失われていく。
「……オサリア」
返事はない。
白い瞳は静かに閉じられている。
もう、世界の果てを見ていなかった。
〈パリ……〉
小さな音がした。
「……?」
サクヤが顔を上げる。
少女の頬から、白い塗膜が剥がれるように。
光が、さらりと零れ落ちた。
一枚。
また一枚。
白が、剥がれていく。
雪が溶けるように。
幻が終わるように。
神の色だけが、静かに失われていく。
やがて、栗色の髪が現れる。
血色を失った頬。
閉じられた瞼。
何度も見てきた。
誰より見慣れた少女の姿。
「……オサリア」
ペプシルの声は、あまりにも静かだった。
もう返事はないと、身体が知ってしまっていた。
聖剣は胸を貫いているのに、血は一滴も流れていない。
この身体には、もう流すものさえ残っていないように。
「……っ」
サクヤの膝から力が抜ける。
「いや……」
掠れた声。
「いやや……」
その場へ崩れ落ちる。
グランヴィアは拳を握ったまま。
イリアスは、ただ俯いた。
ヨザキは、涙を静かに零している。
「……終わったんだ」
その一言は、誰へ向けたものでもなかった。
「……」
ペプシルは、何も言わなかった。
繋いだ左手だけを、最後まで離さなかった。
そのままゆっくりと、右手を動かす。
白銀の聖剣の柄へ、そっと手を添える。
「……ごめん」
聖剣を抜く時より、遥かに丁寧に。
胸を貫く白銀を引き抜く。
〈ス……〉
音は、ほとんどしない。
血も流れない。
傷口だけが、静かに閉じられていく。
最初から何もなかったかのように。
「……」
ペプシルは剣を握ったまま、しばらく動けなかった。
その切っ先には、血は一滴も付いていない。
白銀の聖剣が、力なく床へ置かれる。
〈……コト〉
その音だけが、ひどく寂しく響いた。
ペプシルは空いた両腕で、そっとオサリアの身体を抱き寄せる。
軽かった。
旅の途中、何度も転びそうになった身体。
自分を後回しにして、誰よりも他人を助けた身体。
「……あったけぇ」
掠れた笑いが漏れる。
「まだ、あったけぇじゃねぇか」
返事はない。
肩へ額を預ける。
栗色の髪からは、夜の街で見た夜花の香りだけが微かに残っていた。
「なぁ」
声が掠れる。
「帰ろうって」
笑う。
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま。
「言っただろ」
誰かが静かに涙を零す音が響く。
抱き締める腕へ、少しだけ力が入った。
その時だった。
『——何故』
何処からともなく、声が響いた。
誰の口も、動いていない。
世界そのものが問いかけているようだった。
『何故、悲しむ』
静寂。
『何故、抗う』
白い花弁が、ゆっくりと舞う。
それは攻撃の意思がない。
ただ、散っていく命のように降っていた。
『巡りは終わり』
『世界は満ちた』
『故に、還る』
声には喜びも、怒りも、慈悲もない。
ただ淡々と、事実だけを告げる。
『始まりより』
『幾度も繰り返された理』
『汚れは積もる』
『命は濁る』
『世界は閉じる』
『故に、選別』
『そして再び、白へ還す』
季節が巡ることを説明するように。
雨が降る理由を語るように。
あまりにも無慈悲で、自然な口調だった。
『ここに至るまで』
『全て、定められた運命——』
「違うッ!!!」
神の言葉を遮るように。
ペプシルは、悲鳴に近い叫び声をあげた。
「勇者なんて肩書きから逃げたのも……!」
抱き締める腕へ、力が入る。
「こいつらと旅をして!」
「笑って!」
「苦しんで!」
「それでも、ここまで来たことも!」
涙が止まらない。
声は何度も掠れ、それでも叫ぶことをやめない。
「俺が!」
「——ッ……俺が、オサリアを守るって決めたことも!」
「全部!」
喉が裂けそうなほど叫ぶ。
「全部ッ!!」
冷え始めた少女の身体を強く抱き締める。
「俺が決めた!」
グランヴィアは思わず目頭を押さえた。
何かを押し殺すように、ただ、静かに。
「俺の意思で歩いて!」
「俺の意思で選んで!」
「俺の意思で、ここまで来たんだ!!」
ぽたり、ぽたり、と。
涙が静かにオサリアの肩へ落ちる。
「それを……」
息を吸う。
「運命なんて一言で終わらせるなぁぁぁッ!!」
神殿に響く叫び声。
白い花弁だけが、ゆっくりと降り積もる。
神は沈黙した。
怒りもしない。
否定もしない。
ただ。
『汝らは』
『幾度も、同じ涙を流した』
『それでも、巡りは変わらぬ』
あまりにも残酷な言葉は。
静かに、世界の果てから落ちてきた。
「……ッ、お前には」
オサリアの前髪を、震える指でそっと払う。
「分からない」
涙がまた落ちる。
「誰かを好きになることも」
「守りたいって思うことも」
「失いたくないって願うことも」
冷たい頬を、そっと指で撫でた。
「帰りたいって思うことも」
冷たい少女を。
強く、強く抱きしめる。
「だから、お前は神なんだ」
その言葉は、罵倒ではない。
人間と神が、決して交わらないことへの静かな断絶だった。
〈……〉
神は、答えなかった。
否。
答える必要がない、とでもいうように。
『理は変わらぬ』
その一言だけが。
世界の果てから、静かに落ちてきた。
そして。
世界から、神の気配が少しずつ遠ざかっていく感覚を覚える。
それは、役目を終えた季節が、静かに去っていくように。
「……行くな」
ペプシルが掠れた声を漏らす。
「待て」
それは神へ向けた言葉ではなかった。
腕の中の少女へ。
「まだ」
抱き締める腕へ力が入る。
「まだ終わってねぇ」
その時だった。
〈さら……〉
「……?」
小さな光が、オサリアの指先から零れ落ちた。
淡い金色。
春の日差しのような、優しい光。
「……おい」
もう一粒。
また一粒。
肩から。
髪から。
胸元から。
身体そのものが細かな光となって、静かに崩れ始める。
「待て」
ペプシルの声が震えた。
「やめろ」
零れ落ちる光を逃さまいと、縋るように抱きしめる。
けれど腕の隙間から、光だけが、静かに溢れていく。
「やめろよ……」
涙が落ちる。
「もう終わっただろ」
返事はない。
それでも、光は止まらない。
「もう十分だ」
嗚咽が混じる。
「頑張っただろ……」
栗色の髪が、風もないのに、ふわりと揺れた。
一本。
また一本。
光となって、空へ還っていく。
「オサリア……」
その名を呼ぶ。
何度でも。
旅の途中と同じように。
「帰るぞ」
笑おうとする。
唇だけが震えた。
「みんな待ってる」
肩が崩れる。
輪郭が、少しずつ薄れていく。
〈さら……〉
その頃。
少女の意識は。
何もない、白の中にあった。
暗くも、明るくもない。
境界さえ曖昧な場所。
(……あ)
遠くで、誰かが泣いている。
安心する。
知っている声だ。
いつも励ましてくれて。
いつだって前を向いていた。
(ペプシル)
泣かないで。
そう言いたかった。
でも、もう声は出ない。
代わりに、旅の景色だけが。
一つずつ浮かんでは消えていく。
ルミナス。
アイゼル。
ラグナ。
ガルディア。
ノクス。
笑ったこと、怒られたこと、悲しかったこと。
ご飯を食べたこと。手を繋いだこと。
全部。
全部、宝物だった。
(よかった)
みんなに会えて。
本当に、よかった。
意識が、ゆっくりと薄れていく。
最後に一つだけ。
胸の奥へ。
願いを抱いた。
(どうか)
(みんなが)
(笑える世界に)
その願いだけを残して。
少女の意識は、静かに光へ溶けた。
〈さらさら……〉
「……っ」
ペプシルの腕が。
少しだけ軽くなる。
「いやだ」
抱き締め直す。
「行くな」
オサリアの肩は、もう、半分ほど光になっていた。
触れようとしても、掴もうとしても。
指の間をすり抜けていく。
「オサリア」
叫ぶ。
「オサリア!」
最後の光だけが。
彼の頬を、優しく撫でた。
〈さら……〉
最後の一粒が、空へ昇る。
ペプシルの腕の中にはもう、誰もいない。
空を掴んだまま、震えている。
「……ぁ」
息が漏れる。
もう、彼女の名前を呼んでも。
返事はどこにもない。
「——」
勇者は、初めて声を上げて泣いた。
子供のように。
ただ、ひとりの少女を愛した青年が。
ただ、ひとりの少女を失った青年が。
あまりにも大きく。
あまりにも虚しい慟哭だけが。
白い神殿へ、いつまでも響き続けた。
やがて。
白い神殿を満たしていた光は、少しずつ霞んでいく。
輪郭が滲む。
床も。
柱も。
仲間たちの姿さえ。
水面へ絵の具を落としたように。
ゆっくり、ゆっくりと溶け始める。
「……?」
ヨザキが顔を上げる。
「景色が……」
世界が、ぼやけていく。
ペプシルの涙も。
誰かの声も。
遠く。
遠く。
聞こえなくなっていく。
まぶたが重い。
抗おうとしても。
意識は、静かに眩い光の中へ沈んでいった。




