優しき大罪
「……っ」
最初に息を吸ったのは、ヨザキだった。
突然、肺へ滞りなく空気が入る。
「……はぁ……ッ」
荒い呼吸。耳鳴りはまだ止まらない。
頭蓋の奥を掻き回されるような痛みも消えていない。
それでも、さっきまで脳を埋め尽くしていた”あの声”だけは、ほんの少し遠ざかっていた。
「……なん、で」
震える指先で、自分の胸を押さえる。
鼓動は速い。
まだ、生きている。
「……戻った」
掠れた声だった。
「ヨザキ……?」
隣から聞こえた。
サクヤだった。
涙で濡れた頬のまま、焦点の合わない目を何度も瞬かせている。
「……頭が」
震える指で額を押さえる。
「さっきまで……何や……」
ぶつぶつと祈り続けていた声は、止まっていた。
イリアスが、大きく咳き込む。
「ッ……!」
ようやく肺が空気を思い出したように、何度も咳を繰り返す。
「……息、できる」
掠れた呟き。
グランヴィアも、大剣へ手を伸ばした。
さっきまで震えていた腕が、ほんの少しだけ言うことを聞く。
「……何が」
誰も答えられない。
その時だった。
ぽたり。
白い床へ。
淡く金色に輝く雫が落ちた。
「……?」
全員が同時に顔を上げる。
花の中心。
少女の指先から、一滴、また一滴。
柔らかな光が零れている。
それは攻撃でも、破壊でもない。
あまりにも見慣れた光。
旅の途中。
擦り傷を負った時。
生死を彷徨う重傷を負った時。
誰かの人生を救った時。
繋いできた、あの光。
「……治癒魔法」
ヨザキの声が震える。
神が、自身の妨げになるであろう相手に治癒を施すなんて。
——有り得るはずがない。
あれは。
あれだけは。
「オサリア……」
ペプシルが呟く。
白い少女は、微動だにしない。
瞳も、表情も。
何一つ変わらない。
それでも。
金色の光だけが。
誰にも気付かれないように、仲間たちを包み込んでいた。
「……まだ」
サクヤの声が掠れる。
「まだ、おるんか」
声は返らない。
笑顔も、あの少し間の抜けた返事も。
もう、返ってこない。
それでも。
金色の光だけは、震えていた。
ここにいると、そう伝えるように。
〈ドクン〉
その瞬間だった。
少女の身体が、ぴくり、と震えた。
神へ逆らうためではない。
世界を止めるためでもない。
ただ、あと少しだけ。
仲間たちへ手を伸ばすために。
その身体の奥で、一人の少女が必死にもがいていた。
〈ドクン〉
治癒の光が、一瞬だけ強く輝いた。
「……っ」
ヨザキが息を呑む。
金色の光が、四人の身体をゆっくりと巡っていく。
裂けた皮膚が塞がり、乱れていた呼吸が整う。
狂気に侵されかけていた意識が、少しずつ輪郭を取り戻していく。
「オサリア……!」
ペプシルが、思わず一歩踏み出す。
〈ドクン〉
白い鼓動が、一際大きく脈打つ。
「――ッ!」
少女の身体が、大きく跳ねた。
金色の光が途切れる。
代わりに、花弁の奥から溢れ出した白い光がその全身を飲み込んだ。
「ぐ……ッ」
まるで見えない何かに締め上げられるように。
少女の細い指先が、ぎゅっと強張る。
治癒の光が消えそうに揺れる。
「……ぁ」
サクヤが、小さく声を漏らした。
「まだ、一人で……ッ」
震える声だった。
あの身体はもう、オサリア一人のものではない。
それでも金色の光は、完全には消えなかった。
途切れ、揺らぎ。
今にも吹き消えそうになりながらも。
何度でも灯る。
少女自身が、まだ終わらせないと言わんばかりに。
「……オサリア」
ペプシルの声が震える。
返事はない。
けれど。
「……!」
ペプシルの瞳が大きく揺れた。
「いる」
掠れた声。
「まだ……いる」
その言葉に、四人全員が息を呑む。
誰一人としてその理由は分からない。
それでもペプシルだけは、確かにそう言い切った。
「ペプシル……」
ヨザキが、花の中心を見上げる。
白い少女は動かない。
「……融合が解けたわけじゃない」
誰へ言うでもなく。
自分へ言い聞かせるように。
「オサリアちゃんが……」
唇が震える。
「神から、一瞬だけ身体の主導権を奪ってるだけだ」
グランヴィアが顔を上げた。
「そんなこと……出来るのか」
ヨザキは首を振る。
「出来る、じゃない」
「……やってるんだ」
花を見つめたまま。
「命を削って」
その一言で、空気が凍った。
「魂が……」
ヨザキは拳を握る。
「神と混ざった魂を、無理やり引き剥がそうとしてる」
「そんなこと続けたら……」
イリアスの声が掠れる。
ヨザキは答えない。
答えなくても、全員が理解してしまった。
「長くは……持たない」
〈ドクン〉
少女の肩が、びくりと震えた。
「ッ!」
金色の光が、また大きく揺らぐ。
「やめえ……!」
サクヤが叫ぶ。
「もうええ!」
涙が溢れる。
「もう頑張らんでええから!」
返事はない。
それでも金色の光は、また、小さく灯った。
「……っ」
ペプシルは聖剣を握る。
白銀の柄が、微かに温かい。
今まで感じたことのない熱だった。
「助ける」
ぽつり、と。
誰へ向けたものでもなく。
「まだ助けられる」
「ペプシル」
ヨザキが顔を上げる。
「聞け」
その声には、珍しく焦りが滲んでいた。
「希望を捨てろとは言わない」
一度、言葉を切る。
「でも、思い違いだけはするな」
ペプシルは振り向かない。
「今、君が見てるのは、神に勝ってるオサリアじゃない」
〈ドクン〉
「神に呑まれながら、最後の力で」
「……僕たちだけは助けようとしてる、オサリアだ」
静寂。
ペプシルは、ただ少女だけを見つめていた。
そして、ゆっくりと、白銀の聖剣を握る右手へ力を込めた。
〈ドクン〉
白い花弁が、一枚。
音もなく舞い落ちた。
床へ触れるその寸前。
金色の光が、ふわりとそれを包み込む。
「……!」
花弁は砕けない。
オサリアの光に触れた瞬間だけ、ゆっくりと動きを止めた。
ほんの、一瞬だけ。
「止まった……?」
イリアスが息を呑む。
しかし。
〈ドクン〉
次の鼓動と共に、白い花弁は何事もなかったように落ち続ける。
床へ触れ、白がさらに世界を侵食した。
「……駄目だ」
ヨザキが唇を噛む。
「押し返せてない」
「あれじゃ……」
グランヴィアが拳を握る。
「時間稼ぎにしかなってない」
誰も否定できなかった。
少女は。
世界を救おうとしているのではない。
ただ。
自分が完全に呑まれる、その最後の瞬間まで。
仲間だけでも守ろうとしている。
「オサリア……」
サクヤの涙は止まっていない。
それでも、白い少女を真っ直ぐ見据えた。
〈ドクン〉
鼓動する度に、少女の身体から零れる金色の光は少しずつ弱くなっていた。
「……減ってる」
ヨザキが青ざめる。
「魔力じゃない」
掠れた声。震えていた。
「あれは……魂そのものだ」
「治癒魔法を使うたびに」
「オサリアちゃん自身が……消えてる」
誰も言葉を返せない。
ただ、五人は少女を見上げていた。
ペプシルは深く息を吐く。
白銀の聖剣を握る手に、知らず知らず力が入る。
「……教えてくれ」
掠れた声。
誰へ向けたものでもない。
「勇者なんだろ、俺」
白銀の刃は、何も語らない。
「だったら」
唇を噛む。
「何のために、お前は目覚めた」
その呟きに呼応するように。
白銀の聖剣が、かすかに呼吸をするように脈打った。
「……!」
ペプシルの瞳が揺れる。
柄を握る掌へ、温かな何かが流れ込んでくる。
言葉ではない。命令でもない。
けれど、一本の道だけが。
心の奥へ、静かに、示された。
「……!」
ペプシルの肩が、小さく震えた。
流れ込んでくる。
映像でも、声でもない。
ただ。
一つの”事実”だけが、胸の奥へ静かに沈んでいく。
〈ドクン〉
白銀の刃が、淡く輝く。
その光は。
少女の胸元へ、静かに伸びていた。
「……」
ペプシルの呼吸が止まる。
「……そう、か」
誰にも聞こえないほど、小さな声。
ヨザキが顔を上げる。
「何が見えた」
返事はない。
ペプシルは、ただ白い少女を見つめている。
その瞳には。
希望も、絶望も。
まだ宿っていなかった。
ただ理解だけがあった。
〈ドクン〉
少女の身体が、また大きく震える。
「……ぁ」
金色の光が散る。
今度は、一滴。
また一滴。
消えていく方が、増えていた。
「まずい」
ヨザキが一歩踏み出す。
「もう限界だ……!」
「オサリア!」
イリアスが叫ぶ。
「もういい……!!」
声は届かない。
少女の指先だけがほんの僅かに震えた。
最後まで、大丈夫だと安心させるように。
「……馬鹿」
グランヴィアの声が崩れる。
「なんで最後まで、ッ……」
涙が床へ落ちる。
ペプシルが、一歩前へ出た。
「ペプシル!」
ヨザキが叫ぶ。
「待て!」
歩みは止まらない。
白銀の聖剣を下ろしたまま。
ゆっくりと、少女の前まで歩いていく。
花弁が肩を裂いても。
白い光が身体を削っても構わなかった。
「……オサリア」
少女の白い瞳は、世界の果てだけを見つめ続けている。
それでも、ペプシルは笑った。
泣きそうなほどに、優しく。
「聞こえてるよな」
静かな声だった。
「お前、最後まで」
喉が震える。
「俺たちを、守ろうとしてるんだな」
金色の光が、ほんの少しだけ強く瞬いた。
「……!」
サクヤが息を呑む。
誰もが、その一瞬を見逃さなかった。
返事はない。
けれど。
その光だけが、確かに応えた。
ペプシルは目を閉じる。
短く、一度だけ息を吸う。
そして。
静かに、白銀の聖剣を胸の前で構えた。
「……大丈夫だ」
その声は、もう震えていなかった。
「もう、頑張らなくていい」
その一言で、この場の空気が変わる。
ペプシルが、何を選ぼうとしているのか。
まだ理解できていなかった。
〈ドクン〉
白い少女の指先から。
最後の金色の光が、そっと零れ落ちた。
ぽたり。
金色の雫は、白へ染まりかけた石畳へ落ちる前に、ふっと空へ溶けた。
〈ドクン〉
少女の肩が、大きく震える。
「――ッ!」
今までで一番強い白い光が溢れ出した。
花弁が一斉に舞う。
神殿中を埋め尽くすほどの、白。
「……ッ」
ヨザキの拳が強く握られる。
「オサリアちゃんの意識が――」
最後まで言葉は続かなかった。
少女の胸元から、金色の光が、ゆっくりと引き剥がされていく。
白が、彼女を今度こそ全て飲み込もうとしている。
「ッ……!」
ペプシルは駆け出した。
あと数歩。
手を伸ばせば届く距離。
白い少女の右手が。
ぴくり、と震えた。
「……!」
ゆっくりと、本当にゆっくりと。
その手が持ち上がる。
神が動かしたような、そんな滑らかさではなかった。
骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げるような、あまりにも不格好な動き。
それでもその指先は、確かにペプシルへ向かって伸びた。
「オサリア……!」
掠れた声。
あと少し。
あと少しで。
触れられる。
〈ドクン〉
白い光が爆ぜた。
少女の腕が、ぐしゃり、と見えない力に押し戻される。
「ッ!」
喉の奥から。
声にならない悲鳴が漏れたような気がした。
それでも。
また、指が動く。
神に奪われ、取り返す。
その繰り返し。
あと数センチ。
あと一歩。
「……っ」
ペプシルも右手を伸ばす。
震える手。
血に濡れた手。
旅の途中、何度も握った手。
その記憶だけを頼りに。
まっすぐ。
「届け」
誰へ願ったのか。
自分でも分からない。
ただ。
——今度こそ、届いてほしかった。
その瞬間。
二人の指先が、ほんの僅かに触れた。
「――!」
温かい。
それは神の光じゃない。
ずっと知っている。
柔らかくて。
少しだけ体温の低い、オサリアの手だった。
少女の白い瞳が、ほんの一瞬、彼女の色を取り戻す。
一筋の泪だけ零れた。
唇が。
微かに動く。
「……ぺ」
声にならない。
もう一度。
「……ぷ」
息だけが漏れる。
それでも、ペプシルは聞き逃さなかった。
「……オサリア」
少女はほんの少しだけ、笑った。
旅の途中。
何度も見てきた。
いつも変わらない、少しだけ照れたような笑顔で。
「——おわらせて」
優しい声で告げる、その言葉だけが。
ペプシルの耳に、鮮明に届いた。
「――」
何も言えなかった。
ペプシルの左手が。
震えながら、少女の手を包む。
冷たい。
それでも確かに、生きている温もりだった。
少女も最後の力を振り絞るように、その手をぎゅっと握り返す。
旅の途中。
何度も繋いだ手。
危ない目に遭った時。
ひとりじゃないと、教えてくれた時。
全部。
同じ温もりだった。
「……」
もう。
涙は出なかった。
ただ。
繋いだ左手を離さないまま。
右手の白銀の聖剣を、静かに持ち上げる。
少女は怖がらなかった。
逃げもしない。
〈ドクン〉
世界が鼓動する。
その鼓動よりも、ペプシルの心臓の音だけが大きく響いていた。
白い花弁が、二人の間を静かに舞う。
「……ごめんな」
誰へ向けた謝罪だったのか。
自分でも、もう分からない。
少女はただ、穏やかに笑っている。
「……」
ペプシルは、小さく頷く。
その頷きだけで。
少女も、ゆっくりと頷き返した。
言葉は、もう要らなかった。
左手は、最後まで繋いだまま。
右手だけが。
白銀の聖剣を、静かに持ち上げる。
刃先は迷うことなく。
少女の胸へ向く。
〈ドクン〉
白い瞳の奥で琥珀色が、もう一度だけ灯った。
「……ぺぷ」
小さく。
息よりも儚い声。
「だい……す」
最後まで。
言葉にはならない。
けれど。
ペプシルは笑った。
泣きそうなほど、優しく。
「俺もだ」
その一言だけだった。
少女の目尻から一粒、涙が零れる。
それは白ではない。
温かな、人間の涙だった。
「ごめん」
「——ありがとう」
口はもう動いていない。
ただ、頭の奥で。
オサリア自身の声で、確かに聞こえた。
ペプシルはゆっくりと目を閉じる。
「……」
白銀の聖剣が、静かに前へ進む。
少女は、自分から半歩だけ、その刃へ身体を預けた。
それは、帰る場所へ歩いていくかのように。
刃先が胸へ触れる。
「——ッ」
勇者の聖剣は。
音もなく、少女の胸を貫いた。




