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ただ一人のための勇者

白い光は、なおも膨れ上がる。


〈ドクン〉


〈ドクン〉


世界そのものが鼓動していた。


花開いた黒い結晶は、

天へ向かって無数の花弁を広げていく。


一枚。


また一枚。


光を孕んだ花弁が静かに開くたび、祭壇を満たす空気が変質していく。


息が苦しい。

立っているだけで、膝が震える。


ヨザキはこみあがる何かに呑まれそうになるのを、

歯を食いしばり必死に繋ぎ止める。

 

『三千年の巡り満つる時、一なる花、冥き時の底より咲き出づ』


「……花」

 

思わず溢れ出た声。

全ての答えが出揃ってしまった、絶望の呟き。


「……なんや、これ」


サクヤが槍を握る手を震わせた。

誰も答えられない。


ただ一人。


プルーだけが、その光景を見つめていた。


「…………」


白い外套は血で濡れている。

鼻血も、口元の血も止まってはいなかった。


それでも。


青灰色の瞳だけは、初めて穏やかだった。


ゆっくりと、剣が床へ落ちる。


〈カラン〉


乾いた音が響く。


プルーは一歩。また一歩。

花開いた結晶へ歩いていく。


そして。

血に濡れた膝を、静かに床へついた。


「……!」


ペプシルが目を見開く。


皇帝が。

 

誰にも頭を下げなかった男が、今、両膝をついている。


震える手を胸の前で組み。

まるで祈るように。


いや。


縋るように。


その瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。


「…………神よ」


掠れた声。


震えていた。

今まで一度も聞いたことのない声だった。


「お願い、します」


誰もが言葉を失う。


「私は、他に何も望みません」


涙と血が綯い交ぜになる。


「世界がどうなろうと」

「私が死のうと」

「全てを失おうと構いません


震える唇が、ようやくたった一人の名を紡ぐ。


「だから……」


声が掠れた。

子どものように、壊れそうな声で。


「レーネを」


涙が石畳へ落ちる。


「返してください」


「もう一度だけ」

「もう一度だけでいい」


嗚咽が混じる。


「笑ってほしい」


皇帝の威厳など、どこにも無かった。


「私は」


「間に合わなかった」

「救えなかった」

「守れなかった」


今まで押し殺してきた後悔が。

堰を切ったように溢れ出す。


「だから、お願いです……」


皇帝ではない。

世界を支配した男でもない。


そこにいたのは。


大切な人を失った、一人の男だけだった。


「神様」


顔を伏せる。


「どうか」


「レーネを――」


返事はない。


〈ドクン〉


花開いた結晶が、ゆっくりと脈打つ。


誰も息をしない。

風もない。

祈りだけが、白い神殿へ置き去りにされる。


プルーは顔を上げない。

返事を待っている。


ただ、それだけだった。


〈ドクン〉


花弁が、一枚。


再び静かに開く。


中心に浮かぶ少女の指先が。

——ほんの僅かに、動いた。


「……!」


プルーの肩が震えた。


確かに動いた。

花の中心で、白い光に包まれた少女の指先が。


ゆっくりと。

意思を持つように。


「レーネ……?」


掠れた声が漏れる。

願いが届いたと、そう信じた。

涙に濡れた青灰色の瞳が、ゆっくりと見開かれる。


「……っ」


少女の唇が、微かに開く。


誰も息をしない。

神殿全体が、その一言を待っていた。


「…………」


唇が動く。だがそれは声にならない。


もう一度。


ゆっくりと。


「…………」


プルーは一歩、前へ出た。


「レーネ……!」


祈るように。

縋るように。


その名を呼ぶ。



少女の唇がようやく、音を紡いだ。


「――」


その瞬間、少女の瞳が、開いた。


白。


瞳孔も、虹彩も何もない。

世界の始まりだけを映したような、真っ白な瞳。


その視線は、プルーを見ていなかった。

それどころか。

その場にいる誰一人として、映していなかった。


もっと遠く。


もっと果て。


人の理解が届かない場所を見つめているように見えた。


そして。


少女は初めて、笑った。


それは喜びではない。

慈悲でもない。


人が知る、どの感情にも当てはまらない微笑だった。


ただ。

世界のどこかで、何かが正しい位置へ戻った。

そんな錯覚だけが、全員の胸を貫いた。


〈ドクン〉


少女の唇が、ゆっくりと動く。


「――」


音は聞こえない。

けれどその場にいる全員が、同時に顔を上げた。


聞いた。

いや——聞かされた。


耳ではない。頭でもない。

 

もっと深い場所へ。


直接、何かが落ちてくる。


理解できない。


言葉ではないのに。

意味だけが、逃げ場もなく胸へ刻まれていく。


――終わり。


――巡り。


――帰還。


――始まり。


断片だけが流れ込む。


繋がらない。

文章にならない。


それでも。

それは世界にとって疑いようのない真実だった。


「……ぁ」


ヨザキが何かから逃げるように、耳を塞ぐ。

眼鏡が衝撃で落ちていった。

 

無意味だ。

耐えず、理解の出来ない言葉が流れ込んでくる。


止められない。


「あ……ぁ……」


膝をつく。


理解してはいけないものを。

理解できないまま理解させられる。


脳が悲鳴を上げた。


サクヤが槍を取り落とし、その場に崩れ落ちる。

何かをぶつぶつと、縋るように小さく呟き始めた。

 

イリアスはまともに息が吸えず、

間抜けに漏れるか細い息だけが喉から聞こえた。


グランヴィアは無意識に後退る。

今すぐ、この場から逃げ出したい。

それでも、脚が縫い付けられたように動かない。


ただ。


ペプシルだけが、真っ直ぐ少女を見続けていた。


「…………」


一方。

プルーは涙を流したまま、希望だけを見つめている。


「神様……」


震える声。


「届いたのですね」


一歩。

また一歩。


血の軌跡が、白い床によく映えた。


「レーネは」


笑う。


「返して、いただけるのですね」


少女は、何も答えない。


ただ。

その白い瞳がほんの僅かに、プルーのいる方向を向いた。


その瞬間だった。


ただ、蝋燭がふっと消されるように。

プルーから熱が消えた。


何かが起きたわけではない。

何かを見たわけでもない。


ただ。


胸の奥で、最後まで燃え続けていた希望だけが、音もなく。


「……あ」


小さく声が漏れる。


「そう……ですか」


笑った。

泣いたまま、優しく諦めるように。


「私は」


血が口から溢れる。


「最後まで、届かなかった」


〈ゴボッ〉


大量の血が石畳を染める。


もう、身体は動かない。


それでも最後に一度だけ。


花の中心を見上げる。


「……レーネ」


その名を呼ぶ声だけは、どこまでも優しかった。


そして。

皇帝プルー・リブラを支え続けた執念は。

 

「……すまなかっ——」


言葉は最後まで続かない。

身体から、何かの糸が切れたように力が抜ける。

 

組まれていた両手がほどけると、

そのまま白い床へ、静かに落ちた。


〈……〉


誰も、動かなかった。


白と黒の花だけがなおも、静かに咲き続けていた。

時間という概念さえ、この場所から失われたようだった。


〈ドクン〉


その一音だけで、神殿中の空気が重く沈む。


「……っ」


ペプシルが息を呑む。


違う。


鼓動ではない。


世界そのものが、呼吸を始めている。


〈ドクン〉


鼓動する度に。

花の中心から溢れる白い光が、ゆっくりと濃くなっていく。

風もないのに花弁が揺れる。

まるで誰かが、その奥から歩み出ようとしているように。


「…………」


ヨザキはもう声も出せない。


震える瞳だけが、花の中心を見上げていた。


ヨザキは逃げるように耳を塞ぎ続ける。

サクヤは誰かに救いを求めるように支離滅裂な言葉を紡いでいる。

イリアスは虚ろな瞳のまま、呼吸を忘れている。


グランヴィアの指先から、大剣が滑り落ちた。


〈ガラン〉


乾いた音。


その音だけが、ひどく人間らしかった。


〈ドクン〉


花弁がまた一枚、開く。

その奥、白い光の中で。


白い髪が、ふわりと揺れた。


閉じていた両腕は、まるで見えない糸に導かれるようにゆっくりと左右へ開いていく。

歓迎するように。

世界を抱き寄せるように。

その姿はもう、他人の幸せを望んだ少女ではなかった。


「…………」


ペプシルだけが、瞬きも忘れて見つめている。


呼ばなければ。


そう思う。


あれはもう、オサリアじゃない。

頭では分かっている。


それでも。

喉の奥から、勝手に声が漏れた。


「……オサリア」


その名を呼んでしまった。


少女は反応しない。

代わりに、白い瞳だけがゆっくりとこちらへ向く。


〈ドクン〉


世界が止まった。


音が消え、鼓動だけが残る。


白い瞳は。

ただ、こちらを向いている。


見ているのか。

見ていないのか。


その違いさえ、人には分からない。


「…………」


ペプシルは動かなかった。

逃げるという発想が、最初からなかった。


ただ。

花の中心に浮かぶ少女だけを見つめていた。


〈パキ……〉


微かな音。

少女の足元で、白く輝く花弁の一枚がゆっくりと剥がれ落ちる。


重力を忘れたようにわ静かに、空中を漂う。

その軌跡を追うように、二枚、三枚。

無数の花弁が、神殿いっぱいへ舞い始めた。


雪のように。


羽のように。


あるいは世界そのものが、静かに崩れ始めたように。


〈ドクン〉


舞い落ちた花弁が、床へ触れる。


その瞬間。


〈サァァァ……〉


石畳が、何も無い白へ塗り替わった。


「……!」


ペプシルの瞳が揺れる。


花弁が触れた場所から、神殿そのものが書き換わっていく。


柱。


壁。


祭壇。


何千年も積み重ねられてきた歴史が。


雪へ溶けるように、静かに白へ還っていく。


壊れているのではない。

燃えているのでもない。


ただ、最初から存在しなかったものへ戻されていく。


「…………」


ヨザキは、その光景を見た瞬間。

喉の奥から、小さな嗚咽を漏らした。


理解してしまった。


あれは破壊でも、創造ですらない。


もっと根源。


世界を書いた紙へ。

もう一度、筆を置こうとしている。


その行為。


〈ドクン〉


また一枚、花弁が舞う。

今度はペプシルの足元へ。

白い花弁が、ゆっくりと降りてきた。


触れる。


その寸前。


〈ギィィィ……ミシッ〉


不意に。


背中の黒鉄の大剣から、今まで聞いたことのない音が響いた。


「……?」


ペプシルが、初めて視線を落とす。


柄元の黒い装甲に、一筋の亀裂が走っていた。

まるで、何かが内側から、目覚めようとしているように。


黒い装甲へ、さらに一本。


細い亀裂が走る。


歯車が軋み、内部で何かが目覚めるような振動だけが、柄を通して伝わってきた。


だが。

ペプシルはすぐに剣から視線を外した。


そんなものより。

今、見なければならないものがある。


「オサリア」


もう一度。


静かに、その名を呼ぶ。

白い少女は動かない。


ただ、世界だけが脈打っている。


ペプシルは、一歩踏み出した。


「ペ……」


掠れた声。


ヨザキだった。

震える唇が、必死に何かを伝えようとしている。


「……行く、な」


途切れ途切れ。

まともに言葉を繋げることもできない。


「それは……もう……」


オサリアじゃない。


そう言いたかった。

でも、最後まで言葉にならなかった。


ペプシルは振り返らない。


「違う」


短く答える。


「オサリアだ」


また一歩。

白い花弁が足元で舞う。


「帰ろう」


返事はない。


「みんな待ってる」

「飯だってまだ食ってねぇだろ」


苦笑する。


「アイゼル」

「空中列車、乗ってみたいって言ってたじゃねぇか」


少女は動かない。

白い瞳は、いつまでも、何も映さない。


それでもペプシルは、自然に右手を伸ばしていた。


旅の途中。


敵から庇う時。

迷子になりそうな時。

泣きそうになっていた時。

 

何度も、何度も差し出した手。

それを、何の迷いもなく。


「ほら、帰るぞ」


その指先が、あと少しで届く。



その瞬間、白い花弁が一枚。


ふわりと少女の肩から離れた。


〈ズァァァッ――〉


白い閃光。


「ッ!」


鋭い衝撃。

 

何が起こったか、誰も理解できなかった。


一拍遅れて、ペプシルは自分が感じる痛みに気づく。

 

右肩から胸元へかけて、真一文字に裂けていた。

鮮血が宙を舞う。


「ペプシル……ッ!!」


イリアスの掠れた悲鳴。


膝が揺れる。

息が詰まる。


熱い。

痛い。


腕に力が入らない。


それでも。

ペプシルは一歩も退かなかった。


「……いてぇ」


苦く笑う。

左手で裂けた肩を押さえる。


指の隙間から、血がぽたぽたと白い床へ落ちていく。


それでも。


また、右手を伸ばした。


震えながら。

血に濡れながら。


何事もなかったように。


「オサリア」


優しく。

あの日と同じ声で。


「帰ろう」


少女は答えない。


もう一枚、花弁が舞う。

再び、白い光が揺らいだ。

 

「ペプ……ッ」

 

「ペ、プシルッ!!」


グランヴィアが叫ぶ。


「やめろ!!」


サクヤはもう涙を流しながら首を振っている。


「違う……!」

「もう違うんや……!」


ヨザキは耳を塞いだまま、崩れるように呟く。


「もう……融合してる……」

「戻らない……」


その言葉だけが、誰よりも残酷だった。

けれど、ペプシルは意に介さなかった。

声は聞こえていても、その意味を受け入れなかった。


ゆっくりと、もう一歩だけ前へ出る。


「どうしようもないなんて」


小さく笑う。

血で濡れた顔のまま。


「あいつが言うなら信じるけどさ」


少女を見上げる。


「お前らが決めんなよ」


右手はまだ伸びたままだった。


「なんとかなるだろ」

「だから――」


泣きそうなほど優しい声で。


「一緒に帰ろう、オサリア」


少女は、答えない。

 

伸ばした手はあと数センチ。

その距離だけが、永遠のように遠かった。


「……オサリア」


掠れた声。

 

何度呼んでも。

何度手を伸ばしても。


ただ。


世界だけが脈打っていた。


〈ドクン〉


「……頼む」


小さく。

誰にも聞こえないほど、小さく呟く。


「帰ってきてくれ」


沈黙。


「頼むよ」


指先が震える。


「なあ……」


視線がふと、黒鉄の大剣へ落ちる。


血に濡れた。


勇者の機械大剣。

今まで何度も命を救った。


何度も。

自分でも信じられないぐらい、奇跡みたいなことを起こしてきた。


だから。


「なあ」


初めてペプシルは、その剣へ語りかける。


「勇者だろ、俺」


声が震える。


あまりの情けなさに、思わず笑った。

……泣きながら。


「みんな、そう言ってたじゃねぇか」


拳を握る。


「俺は」

「みんなの英雄なんだろ」


肩が震える。


「だったら」

「——だったら!!」

 

「コイツ一人くらい!!」


「救えんだろッ!!!」


神殿中へ響く。


「応えろッ!!」


黒鉄の剣を掴む。


「応えろよ!!」


歯を食いしばる。


「応えろよォォォッ!!!!」


一人の青年の叫びは、白い神殿へ吸い込まれる。

返事は、ない。


神も。

少女も。

世界も。


誰一人として答えない。


——ただ、ペプシルが握り締めた黒鉄の大剣だけが。


〈……カチ〉


静かに、小さな音を立てた。


「……?」


誰も動かない。

音は、あまりにも小さかった。


続いて。


〈カチ〉


〈カチ〉


柄元で。

何かの錠が外れていく。


歯車が止まり。

蒸気も。

魔力の駆動音も。


ひとつずつ、役目を終えたように沈黙していく。


「…………」


黒い装甲が。

音もなく、柄から滑り落ちていく。


一枚。


また一枚。


重力に従うように静かに床へ落ちる。


〈……コト〉


乾いた音。


それだけだった。


砕けもせず、爆ぜもせず、叫びもしない。


ただ。


何十年も纏い続けていた鎧を脱ぐように。

黒鉄が、静かにその姿を失っていく。


やがて。


最後の装甲が外れた。


「……っ」


誰もが息を呑む。


そこにあったのは。


名を示す紋章も、一切の装飾もない剣。

 

それでもら誰もが理解した。

 

——紛れもない、勇者の聖剣だと。


白銀の光、ただそれだけ。


それなのに。


世界中の光が、その一本へ跪いているようだった。


鼓動は止まらない。

神も、少女も。何も変わっていない。


それでも。


その剣だけは。

最初から、そこに在ったもののようだった。


ペプシルは、その剣を見なかった。


「……」


白銀の刃を握ったまま。

視線は、一度も少女から離れない。


「なあ」


掠れた声。


「助けてくれよ」


誰へ向けた言葉なのか。

本人にも、もう分からなかった。


サンクチュアリで世界が軋んでいる、その同じ瞬間。


六つの街で。

何も知らない人々の、いつも通りの夜が続いていた。

 

 

「はよ帰ってきいや、って言うたのに」


ペプシルの母は、卵と牛乳を切らしたままの台所で、

腰に手を当てて溜息をついた。


聖剣祭りの日から、何日も経っている。

息子は、ずっと帰ってこない。


最初は苛立っていた。

次に心配になった。


今は――なんとなく、諦めに似た呆れだけが残っている。


「あの子、聖剣祭り嫌いなくせに、聖剣持って出て行くとはねぇ」


誰に言うでもなく呟き、鍋を火にかける。


「長いお使いやなあ、ほんまに」


窓の外では、今日も聖剣祭りの名残の提灯が揺れていた。


聖剣が抜かれた広場は、今も警備の対象になっている。


柵の向こうに立つ守衛隊の一人が、ふと欠けた台座を見上げた。


「……アイツ、今頃何やってんのかな」


かつての同僚だった男は、ぽつりと呟く。

あの日、衝撃波に吹き飛ばされながらも剣を抜いた金髪の青年。

愛想笑いばかりで、街の連中に構われるのを鬱陶しがっていた男。


「勇者様、ねえ」


鼻で笑う。

似合わない、と誰より自分が分かっている。


「まあ、あいつなら、どっかで誰か助けて怒られてるくらいがお似合いだけどな」


夜風が、台座の周りを静かに吹き抜けていった。


 

真鍮鴉の工房は、しばらく閉まったままだった。


割れたガラスは新しい板に張り替えられ、

壊れた棚も修理されている。


埃を被った工具箱の横で、

赤髪の女性が丁寧に作業台を拭いていた。


「まったく、あの子は」


イリアスの母親は、壁に飾られたままの試作銃を見上げる。


「工房放って、どこまで行ったんだか」


その隣で、茶髪の父親らしき男が。

もう随分前に乾いた、床の血痕を見つけて苦笑した。


「また誰かと揉め事起こして、飛び出したんだろうよ」

「性格は変わらないねぇ」


母親は笑いながら、新しい看板を持ち上げる。

文字は変わらず『真鍮鴉』のまま。


「次は何やらかしたんだか」


呆れながらも、その手は迷いなく看板を掛け直していた。

息子が戻ってきた時、すぐに仕事へ戻れるように。



塾の教室には、灯りが点いていた。


「まだ?」

「まだだよ、いーっぱい飾るの!」


子供達が、机の上に紙飾りを吊るしながら楽しそうに言い合っている。

黒板には、下手くそな字で大きく書かれていた。


『おかえり ヨザキせんせい』


「先生、いつ帰ってくるんだろ」

「わかんない。でも、絶対サプライズしてやるんだから」


一番小さな女の子が、教壇の上にそっと折り紙の花を置いた。


「先生、宿題見てくれるかな」

「見てくれるよ。宿題出さないと、あの人怖いんだから」


子供達の一人が、しみじみと呟く。

言葉づかいだけは、どこか誰かに似ていた。


「早く帰ってきてくれないと、僕の宿題溜まっちゃうよ」


くすくすと笑い声が漏れる。

窓の外、運河の水面には、変わらず穏やかな月が映っていた。



「今日のシチューはよう出来たわ」

「おっちゃん、作りすぎや!」


広場の焚き火を囲んで、村の人々と子供達が笑い合っている。

鹿肉の匂いが、山の風に混ざって流れていく。


「サクヤ姉ちゃん、まだ帰ってこないね」


リナが小さな器を抱えたまま、山の方を見つめた。


「サクヤ姉ちゃん、腹減らしてるかな」

「これ、絶対サクヤ姉ちゃんの分も残しておかなきゃ」

「三人前くらい残しとかんとやな、アイツの食いっぷりやし」


村人達が、どっと笑う。


「サクヤにも食わせたいなあ」


ガインが器を一つ、丁寧に取っておいた場所へ置く。


「帰ってきたら、腹一杯食わせてやらんとな」


風車がゆっくりと回り続けていた。

器の中身が冷めても、また温め直せばいい。

それだけの、当たり前の約束だった。



小さな家の庭で、ソラは花に水をやっていた。


「……綺麗に咲いたね」


昔、家族みんなで植えた花々はまだしっかりと根を張っている。

夜空を見上げ、小さく息を吐いた。


「早く帰ってきてね、兄さん」


声には出さず、ただ胸の中だけで呟く。

約束は、まだ果たされていない。


「海、まだ見てないもん」


騎士団の施設。

夜の見張りに立つ隊長格の男が、一人窓辺で夜空を見上げていた。


勝手な理由で離脱した部下。

国家反逆の片棒を担いだ男。


本来なら、厳罰は免れない。


「……はぁ」


深く息を吐く。

それでも、拳を握る顔は、怒りよりも別の何かの方が強かった。


「帰ってきたら」


窓の外、遠くの空を睨むように見つめる。


「ただでは、おかんぞ」


その声は、低く、けれど微かに笑いを含んでいた。



終わらない夜の街、蒼い灯りの下で。

小さな焚き火を挟んで、長老とカンナが並んで座っていた。


「……遅いな」


カンナが、火に薪を一本加える。

パチ、と小さく爆ぜた。


「案じてもどうにもならぬ」


長老は静かに夜空を見上げる。

満天の星が、いつもと変わらず瞬いていた。


「じゃが、祈ることは出来る」


二人は、そっと両手を合わせる。


「オサリア……ちゃんと帰ってこいよ」


カンナの声は、少しだけ震えていた。


「お前の連れも、な」


長老は目を閉じ、静かに続ける。


「どうか、あの子らが」


星々の光が、蒼い炎に映り込む。


「無事に、帰る道を見つけられるように」


願いは、声にならないまま星空へ溶けていった。

届くかどうかも分からない、ただそれだけの、小さな祈り。


 

六つの街で。

誰もが、誰かの帰りを待っていた。


温かな食卓も。

灯りの消えない工房も。

子どもたちの笑い声も。

温め直すシチューも。

二人だけの約束も。

星へ捧げる祈りも。


その全てが。


「また明日」を疑っていなかった。


だから誰も知らない。


その”明日”そのものが。


今まさに、世界の果てで、失われようとしていることを。



世界の果ての白い神殿では。

 

一人の勇者が、答えのない聖剣を握り締めたまま。

ただ、少女を見つめ続けていた。

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