始まりを告げる命動
〈ドクン〉
黒い結晶が大きく脈打つ。
祭壇を満たす鼓動だけが、静寂の中へ響いていた。
誰も動けない。
ただ一人の少女だけが、ゆっくりと天へ昇っていく。
「オサリア……」
掠れた声で、ペプシルが名を呼ぶ。
少女の小さな身体は、まるで見えない糸に引かれるように、巨大な黒い結晶の頂へ吸い寄せられていく。
服の裾から覗く肌には、細い黒の紋様が這うように広がっていた。
長い栗色の髪が色を失い、ふわりと宙へ散らばる。
閉じられた瞼は微かに震え、頬を伝う涙だけが、静かに宙へ零れ落ちた。
「返事せぇや……!」
サクヤが叫ぶ。
「オサリアッ!」
グランヴィアも怒鳴る。
「聞こえてんだろ!!」
誰の声にも反応しない。
〈ドクン〉
〈ドクン〉
鼓動が、さらに速くなる。
その時だった。
オサリアの唇が、小さく震えた。
「……た……」
か細い声。
ペプシルが息を呑む。
「オサリア!」
少女は苦しげに眉を寄せる。
「……け……て」
今にも消えそうな、小さな声。
次の瞬間。
『――不要』
その声は。
オサリアのものでは、なかった。
低くも、高くもない。
男とも、女ともつかない。
一人の声ではない。
幾重もの囁きが重なり合い、一つの言葉だけを紡いでいた。
『苦痛』
『恐怖』
『悲嘆』
『不要』
「……ッ」
ペプシルの背筋を、悪寒が駆け抜ける。
耳から聞こえるのではない。
頭の内側へ、直接流し込まれてくる。
『世界は』
『欠けている』
『故に』
『還す』
〈ドクン〉
黒い結晶が、大きく脈打つ。
◇
暗い。
どこまでも。
どこまでも、暗い。
足元もない。
空もない。
世界そのものが、黒く塗り潰されていた。
「……ここ」
声を出したつもりだった。
けれど音は響かない。
自分の身体があるのかすら分からない。
ただ、意識だけが浮かんでいる。
「みんな……?」
返事はない。
ペプシルも。
サクヤも。
誰の気配もなかった。
その代わりに。
〈ドクン〉
鼓動だけが鳴る。
世界そのものが脈打っているような、巨大な心臓の音。
一度。
また一度。
鼓動の度に、黒い空間へ波紋が広がっていく。
「ここ、どこ……」
その瞬間だった。
『ここは』
声。
耳ではない。
直接、思考へ落ちてくる。
『我の内側』
「……!」
振り向く。
誰もいない。
なのに、確かに”何か”がいる気配がする。
姿はない。
だが、確実に見られている。
世界そのものが、自分を見下ろしているような圧迫感。
身体が震えた。
「だれ……?」
一瞬の沈黙。
そして、無数の囁きが重なる。
『我を 忘れたか』
『否 知るはずもない』
『お前たちは』
『幾度』
『幾度』
『幾度』
『滅びても』
『覚えてはいない』
「……何を」
理解できない。
言葉の意味が頭へ入ってこない。
けれど、聞いてはいけない。
本能だけが、そう叫んでいた。
『ようやく』
声が一つになる。
先ほどまで何千と重なっていた声が。
たった一つの意思へ収束する。
『見つけた』
その瞬間。
黒い空間へ、無数の光景が流れ込む。
見覚えのある、地下水路。
胸を締め付けた、あの黒い気配。
森の中。
裂け目を開き、笑うように見えた結晶樹。
結晶だらけの洞窟。
結晶化した狼が、自分だけを見つめた赤い瞳。
旅の途中、何度も感じ続けた違和感。
「……違う」
涙が零れる。
「あれは……」
気付いていたのは、自分じゃない。
『我は ずっと』
『見ていた』
心臓が止まりそうになる。
『巡り 待ち 今』
『辿り着いた』
「ぅ……」
息が詰まる。
『欠けた理は 満ちる』
『眠りは 終わる』
『器は』
『ここにある』
オサリアは理解した。……してしまった。
狙われていたんじゃない。
選ばれたのでもない。
ずっと。
ずっと前から。
神は、自分へ辿り着く日だけを待っていたのだ。
黒い空間の果て。
いや。
果てではない。
今まで空だと思っていたもの。
世界そのものが。
——ゆっくりと、瞼を開いた。
「――ッ」
息が止まる。
見えない。
形は理解できない。
なのに、“巨大”だと分かる。
星も、空も、世界よりも。
遥かに巨大な存在。
脳は理解を拒絶した。
「ぁ……」
頭が割れ、吐き気が一気に込み上げる。
感情の制御が出来ない。
ただ、必死に正気を保とうと瞳から大粒の涙を零していた。
『恐れるな』
優しい声だった。
母親が子へ語りかけるような、穏やかな声。
だからこそ、何より恐ろしかった。
『世界は 還る』
『欠けは 満ちる』
『器は開いた』
「いや……」
必死に首を振る。
「いやだ……」
『拒絶は意味を 持たない』
黒い空間全体が。
ゆっくりと白へ染まり始める。
『封印は開いた』
『顕現する』
『——世界の創世を 始めよう』
「――いやぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
◇
劈くような絶叫が響き渡る。
その瞬間。
オサリアの瞳が、ゆっくりと開いた。
「……!」
琥珀色ではない。
黒でもない。
瞳いっぱいに、白い光が満ちていた。
誰も、その瞳にオサリアの面影を見つけることはできない。
「……オサリア?」
ペプシルが震える声で名を呼ぶ。
返事はない。
白く染まった瞳が、ゆっくりと祭壇を見下ろす。
その視線は、誰も映さない。
「おい……」
グランヴィアが息を呑む。
「あれ、本当にオサリアなのか」
誰も答えられない。
〈ドクン〉
巨大な黒い結晶が、再び脈打つ。
その鼓動に呼応するように。
オサリアの身体から淡い白い光が溢れ始めた。
「ッ!」
ヨザキの表情が変わる。
「魔力が……」
あり得ない。
魔力という次元ではない。
空間そのものが、彼女を中心に書き換えられている。
祭壇へ刻まれた神聖文字が、一斉に輝きを増した。
〈ゴゴゴゴゴ……〉
白い床が揺れ、円柱が震える。
神殿そのものが歓喜するように鳴動を始めた。
「な、何が起きてんねん……!」
サクヤが槍を構える。
その時。
「……なるほど」
静かな声が響いた。
青灰色の瞳は微動だにせず、
宙へ浮かぶ少女だけを見つめている。
「そういうことか」
その声には。
これまで一度も見せなかった色が宿っていた。
驚愕。
歓喜。
そして。
長年求め続けた答えへ辿り着いた者だけが浮かべる、確信。
「依代」
誰へともなく呟く。
「神は外から降りるのではない」
ゆっくりと、一歩、祭壇へ近付く。
「人を器とし」
「その身を通して」
「現世へ顕現する」
〈ドクン〉
鼓動が重なる。
巨大な黒い結晶と、オサリアの胸。
まるで。
二つの心臓が一つになったように。
同じ間隔で、同じ音を刻み始める。
「……ッ」
ヨザキの血の気が引く。
「まさか」
眼鏡の奥の紫色の瞳が見開かれる。
「召喚術式じゃない……」
掠れた声が漏れる。
「最初から、器を完成させる儀式だった……!」
サクヤが持っていた槍が、カタリと地面に落ちた。
沈黙。
「器……?」
プルーは静かに頷いた。
「そうだ」
五人へ向けて視線を移す。
「神は」
一拍。
「ようやく、この世界へ降り立った」
祭壇から、音が消えた。
誰もその言葉を理解したくなかった。
「もう、止まらない」
〈ドクン〉
今までで最も大きな鼓動。
オサリアの身体が、さらに高く。
巨大な黒い結晶の頂へ向かって、ゆっくりと昇り始めた。
白い光が、祭壇全体へ降り注ぐ。
その光を浴びて、プルーが静かに目を閉じた。
「……長かった」
誰へ向けた言葉でもない。
レーネを失ってから。
禁書を漁り。
禁薬を煽り。
奴隷を買い。
記憶を読み。
何度も、何度も探し続けた答え。
その全てが今、目の前にある。
青灰色の瞳がゆっくりと開く。
そこにはもう迷いはなかった。
「邪魔はさせない」
その一言で、空気が変わる。
「……!」
ペプシルが反射的に大剣を構える。
次の瞬間。
〈ギィィン〉
白銀の剣が、何も無いところからペプシルを襲った。
今まで一度も見せなかった速度。
「ッ!」
金属音。
ペプシルが咄嗟に受け止める。
衝撃だけで石畳が砕け散った。
「プルー……ッ!!」
火花が散る。
互いの剣が鍔迫り合う。
プルーはオサリアから視線を外さないまま、静かに言った。
「あと少しだ」
「顕現は始まった。今ここで止めるわけにはいかない」
「ふざけんなッ!!」
ペプシルが押し返す。
「オサリアを返せ!!」
その叫びに、プルーは首を振るだけだった。
「返せない」
青灰色の瞳は僅かに伏せられる。
「彼女はもう、人では無くなった」
その言葉で、よりペプシルの冷静さを欠いた。
「……何、言うとんねん」
サクヤの声が震える。
「人や」
槍を握り直す。
「オサリアは、人やろがッ!!」
怒声と同時に地を蹴る。
緑色の軌跡を描きながら、一気に祭壇を駆け抜ける。
狙うのはプルーではない。
その先。結晶へ昇っていくオサリアだった。
「今助けたるから――!」
その瞬間。
プルーの剣が、静かに横へ薙がれた。
〈ギィンッ!!〉
「ッ!」
サクヤは咄嗟に槍で受ける。
凄まじい衝撃。
石畳を削りながら数メートル後方へ弾き飛ばされた。
「くっ……!」
靴底が火花を散らす。
止まった頃には、プルーは再びオサリアを見上げていた。
視線すら向けない。
まるで、虫を払っただけのように。
「邪魔だ」
淡々とした声。
「顕現の妨げは、許さない」
「……ッ!」
イリアスが銃を構える。
〈パンッ!〉
銃弾が一直線に走る。
プルーは振り返りもしない。
白い光が一瞬だけ空間へ走る。
〈キィィン〉
銃弾が空中で弾け、霧散する。
「な……!」
イリアスの表情が変わる。
「止められた……!?」
「ッ、全員離れろ!」
ヨザキが叫ぶ。
次の瞬間。
足元一帯へ、巨大な魔法陣が展開された。
床へ刻まれていた神聖文字が、一斉に白く燃え上がる。
〈ゴォォォォッ!!〉
無数の光柱が天へ突き上がった。
「ッ!」
グランヴィアが咄嗟に大剣を地面へ突き立てる。
「サクヤ!」
「分かっとる!」
掛け声とともに、爆風と衝撃が神殿内に響く。
白い光が視界を埋め尽くす。
轟音が神殿全体を揺らした。
〈ゴゴゴゴゴ……〉
円柱が軋み、祭壇が鳴動する。
光が晴れた時。
五人は、それぞれ離れた位置へ吹き飛ばされていた。
「ぐっ……!」
ペプシルは片膝をつき、大剣を支えに立ち上がる。
その光景を見届けるように、プルーは静かに剣を構えた。
白銀の刃先が五人へ向く。
その瞳は。
怒りも、殺意も。
憎しみすら宿していない。
ただ、目的だけを見据えていた。
「ここから先は」
静かな声。
「私だけが立てばいい」
一歩。
白い外套が揺れる。
「今となっては、お前達は障害だ」
ペプシルは大剣を握り締めた。
「彼女へ届くことも」
「顕現を止めることも」
「何人たりとも許されない」
「あぁ……?」
イリアスの額へ青筋が浮かぶ。
「何様のつもりだよ」
「皇帝だ」
一切の迷いなく返ってくる。
青灰色の瞳が僅かに細められた。
「新たな世界の、な」
「……ッ!」
グランヴィアが苛立たし気に大剣を構える。
「思い上がるなッ……!!」
プルーは静かに首を振る。
「それが真実だ」
ヨザキは呼吸が乱れていた。
言葉を紡ぐことも、詠唱もできない。
自分が見た未来視。
——もしそれが、この結末を示していたのなら。
〈ドクン〉
黒い結晶が脈打つ。
その音へ耳を澄ませるように、プルーは一瞬だけ目を閉じた。
「もう間もなく」
「神は完全に顕現する」
「それまで」
剣先が僅かに持ち上がる。
「お前たちは、ここで眠れ」
〈ギィィィンッ!!〉
白い閃光が視界を裂いた。
「ッ――!」
ペプシルは反射的に大剣を掲げる。
〈ガァン!!〉
衝撃。
踏み締めた石畳が蜘蛛の巣状に砕ける。
「くっ……!」
重い。
一撃、一撃が骨まで響く。
プルーの剣は淀まない。
迷いも、怒りも、躊躇もない。
ただ目的だけを貫くように、正確無比な斬撃が降り続ける。
「サクヤ!右から回れ!」
「言われんでもッ!」
グランヴィアの声を合図に、緑の軌跡が駆ける。
槍が唸りを上げた。
しかし。
〈ギィンッ!〉
白銀の剣が穂先を弾く。
「チィッ……!」
その隙。
「どけぇッ!!」
グランヴィアの大剣が炎を纏って振り下ろされる。
プルーは半歩だけ退いた。
炎が床を抉る。
「イリアス!」
「分かってる!」
〈パンッ!〉
〈パンッ!〉
〈パンッ!〉
三発。
一直線に放たれた魔力を纏う弾。
だが。
〈キィィン〉
白い魔法陣が幾重にも重なる。
弾丸は触れた瞬間、光となって砕け散った。
「……ッ!」
イリアスが目を見開く。
「なんなんだよ、その防御……!」
「魔法陣だ!」
ヨザキが叫ぶ。
震える呼吸を整えながら。
眼鏡の奥の紫色の瞳が、高速で術式を追う。
「常時展開している……!」
息を呑む。
「いや……違う」
信じられないものを見るように、呟いた。
「僕の障壁と同じ理論じゃない」
「もっと、完成されている……」
誰一人、傷一つ付けられない。
それでも、止まれなかった。
視界の先。
白い光を纏った少女は。
今もなお、巨大な黒い結晶の頂へ昇り続けている。
ゆっくりと、確実に。
「—————オサリアァァァッ!!」
勇者の叫びは届かない。
ペプシルの叫びに、プルーは僅かに視線を上げた。
「無駄だ」
静かな声。
「顕現は、もう止まらない」
「ッ、だったら」
ペプシルが歯を食いしばる。
青い瞳が真っ直ぐ皇帝を射抜く。
「お前を倒して」
大剣を握る手へ、力が籠もる。
「オサリアを取り戻すだけだッ!!」
〈ガギィィィンッ!!〉
再び剣が激突する。
火花が舞った。
誰も退かない。
仲間を。
たった一人の少女を。
この世界へ、連れ戻すために。




