お前が帰る場所
〈カァァァァン――――〉
重い鐘の音が、白い空間を震わせる。
一度。
また一度。
果てしない静寂の中へ、その音だけが幾重にも反響していた。
「……」
暗闇の底で、誰かがゆっくりと瞼を震わせる。
あまりにも遠い。
鐘の音だけが、水の底から聞こえてくるように曖昧だった。
(……鐘)
微かに意識が浮かぶ。
世界中の重力が、身体にのしかかっているように。
指先ひとつ、動かすことが出来ない。
自分の身体ではないようだった。
(俺は……)
途切れ途切れの記憶が蘇る。
白い門。
プルー。
祭壇。
そして。
『安心しろ』
『起きた時には、すべて終わっている』
「――ッ!」
その言葉と同時に、意識が一気に浮上した。
ペプシルは勢いよく息を吸い込む。
「はぁっ……!」
肺へ冷たい空気が流れ込む。
鼓動が早い。
額には嫌な汗が滲んでいた。
指先へ力を込める。
深い眠りの底へ縫い付けられていた身体は、
少しずつ感覚を取り戻していった。
〈カァァァァン――――〉
再び、鐘が鳴る。
今度はさっきより近く、大きく。
直後。
白い回廊の向こうから、慌ただしい足音が響き始めた。
「急ぎなさい」
「外界の穢れが聖域へ侵入した」
ペプシルの青い瞳が大きく見開かれる。
「……侵入?」
一瞬、思考が止まる。
白い法衣の神官たちが、次々と駆け抜けていく。
ここへ来られるのは勇者だけ。
ならば、侵入者とは誰だ。
思考が、一人の少女へ辿り着く。
琥珀色の瞳。
無邪気な笑顔。
「……まさか」
鼓動が大きく跳ねる。
「オサリア……!」
胸の奥で、消えかけていた炎が一気に燃え上がった。
◇
神官も、信徒も叫ばない。
「忌み子って……」
先程、自分に向けられた言葉が脳内で木霊する。
何十、何百もの視線。
誰も表情は変えない。
それでも、オサリアには分かった。
恐怖。
嫌悪。
憎悪。
穢れを見るような眼差しだけが、自分を射抜いている。
ヨザキの目が細くなる。
「……オサリアちゃんから距離を取ってる」
「……なんや」
「ノクスの生まれは忌み子って呼ばれるんか?」
サクヤは、周囲の信徒たちを見回しながら眉をひそめた。
その一言に、先程悲鳴を上げた女性がぴくりと肩を震わせた。
「……ノクス?」
「違うわよ」
涙を流したまま。
唇だけが、ゆっくりと歪む。
「"ソレ"は——」
〈シャッ!!〉
紫色の魔法弾が、女の頬を掠めた。
「っ!」
髪が数本、宙を舞う。
広間が静まり返った。
グランヴィアは反射的にヨザキを見る。
思わず、息を呑んだ。
「……それ以上、口にするな」
その瞳には。
今まで一度も見たことのないほどの怒りが宿っていた。
神官は深く息をついた。
そして。
「……忌み子」
恐怖に満ちたその一言だけが、白い空間へ落ちた。
「穢れ共」
誰かが、小さく呟く。
「穢れだ」
別の誰かが続ける。
「穢れ」
「断罪」
「神を穢す者」
一つ。
また一つ。
祈るように。
唱えるように。
やがて誰が最初に口にしたのかも分からなくなった。
ただ。
白い空間を埋め尽くすように、その言葉だけが繰り返されていく。
やがてひとつの言葉へ収束していく。
「神を穢す者」
「神を穢す者」
「神を穢す者」
幾十もの声が、寸分違わぬ調子で繰り返された。
「……嫌な予感がするぜ」
イリアスが心底居心地悪そうに頭を搔いた。
その時。
「穢れを祓え」
神官が、静かに告げた。
それは。
今日の祈りを捧げるように。
今日の食事を口にするように。
あまりにも当たり前の口調だった。
「神域を穢した忌み子を」
「その忌み子によって穢された哀れな者共を」
神官は胸の前で両手を組み、静かに目を閉じる。
「断罪なさい」
その言葉を合図に。
白い法衣を纏った信徒たちが、音もなく一斉にこちらへ歩み始めた。
一歩。
また一歩。
誰一人として走らない。
焦りも、怒りも。
殺気さえ感じられなかった。
ただ、決められた儀式を執り行うように歩いてくる。
「……なんなの」
オサリアは消え入りそうな声で言った。
「……何、言ってるの」
一歩だけ前へ出る。
「うちは……」
オサリアが思わず声を張り上げた。
「うちは何も——」
「穢れの言葉は無用です」
女は遮る。
迷いは一切ない。
「神は教えられました」
「穢れの言葉へ耳を貸してはならない、と」
「違う!」
オサリアはまた一歩、踏み出す。
「うちは——」
「ダメだ」
ヨザキが静かに前へ出た。
紫色の魔力が足元から音もなく広がる。
黒髪がふわりと浮かんだ。
それとは裏腹に、空気が重く沈む。
「お前たちも、それ以上近付いたら容赦はしない」
静かな声。
白い石畳が小さく震えた。
四人は息を呑む。
この男は、本気だ。
「ヨザキ、さん……?」
それでも女は止まらない。
「穢れへ触れた者もまた穢れる」
「共に断罪する必要があります」
「……話にならねぇな」
「俺たちを人間として見ちゃいねぇ」
イリアスが銃を構え、安全装置を外す。
〈カチリ〉
「……最初から、そのつもりはねぇんじゃねえか」
グランヴィアが低く呟く。
「アイツらにとってオレらは『外界の穢れ』っちゅうことやろ」
「話し合いなんてムリや」
サクヤのその一言で、全員がようやく理解した。
ここでは、言葉は届かない。
「……悪ぃな」
イリアスは銃口をゆっくり持ち上げた。
「こっちは急いでんだ。ペプシル迎えに行くもんで」
引き金に指をかける。
「——道、開けてもらおうか」
神官は静かに目を開く。
「——神敵」
その一言で。
信徒たちは一斉に両手を胸の前で組んだ。
「「「「神を穢す者——」」」」
抑揚の無い、寸分違わぬ声が重なり一つの巨大な「祈り」となる。
その瞬間、彼らの頭上に、眩い白銀の光が集っていく。
〈キィィィィン――〉
無数の光の魔法陣が、床一面へ咲いた。
「——断罪せよ」
次の瞬間。
〈ズドォォォンッ!!〉
数え切れないほどの光槍が、一斉に降り注いだ。
「ッ!」
サクヤが前へ飛び出す。
〈ガギィィンッ!!〉
槍を振るい、迫る光槍を次々と弾き飛ばす。
しかし。
一本を防げば、十本。
十本を防げば、その倍が降る。
「多すぎる……!」
サクヤは歯を食いしばった。
「下がれ!」
グランヴィアが大剣を振り抜く。
〈ゴォォォッ!!〉
炎が唸りを上げ、正面の光槍をまとめて飲み込んだ。
爆風が白い法衣を揺らす。
信徒達は怯む様子もなく、一歩も止まらない。
祈りだけを紡ぎながら、静かに歩き続ける。
「神敵を断罪せよ」
「穢れを祓え」
「神敵を断罪せよ」
寸分違わぬ声が、白い空間へ響く。
「チッ!」
イリアスが引き金を引いた。
〈パンッ!!〉
イリアスの放った乾いた銃声が、円形の広間に爆音となって炸裂した。
弾丸は先頭を歩く信徒の足元の石畳を砕き、鋭い破片がその白い法衣を切り裂く。
だが、破片を浴びた男は、眉一つ動かさない。
傷口から小さく血を流しながらも、その虚ろな瞳はオサリアだけを見据え、歩調すら変えずに前進してくる。
「っ……まるで廃人だな」
「イリアス、下がれ!」
ヨザキが叫び、紫色の障壁を展開してオサリアとイリアスを完全に背後へ隠す。
「神敵を断罪せよ」
「穢れを祓え」
「神敵を断罪せよ」
寸分違わぬ声が、白い空間へ響く。
キリがない。
「ヨザキさん……!」
障壁の奥で、オサリアが震える声でヨザキのローブの裾を掴む。
「あの人は……あの女の人は、何を知ってるの……?」
ヨザキは振り返らない。
眼鏡の奥の瞳を険しく光らせたまま、ただ魔力を滾らせる。
「聞く必要はないよ、オサリアちゃん」
「彼らは狂っている。ただそれだけだ」
「違うわよ!!」
その声を上げたのは、先ほどヨザキの魔法弾を浴びた、四十ほどの痩せこけた女だった。
女は髪を振り乱し、血の気の失せた顔で、障壁の向こうのオサリアを狂おしく睨みつけている。
「神聖なるサンクチュアリの決まりを破り、光を持たぬ穢れを孕んだ!」
女の声が、広間に狂信的に響き渡る。
「……やめろ」
ヨザキの声が、地を這うように低くなる。
「ヨザキ、アイツは何を言ってんだ!?」
グランヴィアが大剣で信徒を押し返しながら叫ぶ。
女は聞こえていない。
涙と涎で顔を濡らしながら、己の胸を強く掻きむしった。
「二年に一度、神へ子を捧げる!」
「毎日祈りを捧げる!」
「私は従った!神のために!正しい光の子を授かるために!!」
震える指が、自分の腹を掴む。
「なのに……」
「ノクスから来たあの男が……!」
「私を……神聖な子宮を、闇で汚した!!」
広間が静まり返る。
オサリアの瞳が、小さく揺れた。
「生まれてきたのは」
女の唇が、大きく歪む。
「……闇を纏った忌み子だった!」
「司教様は、その穢れをノクスへ捨てられた!」
「それが――」
〈ダッダッダッダッダッ!!〉
突然、階段の上から激しい足音が響く。
女以外の全員が反射的に振り向いた。
白い法衣を突き飛ばすように、一人の青年が駆け下りてくる。
乱れた金髪。
荒い呼吸。
青い瞳。
「オサリア――ッ!!」
ペプシルだった。
息を切らしながら広間へ飛び込む。
プルーに意識を刈り取られたはずの勇者。
仲間の危機を察知し、死に物狂いでここまで走ってきた。
しかし。
ペプシルが目にしたのは、押し寄せる狂信者の群れでも、
白銀の門でもない。
完全に魂を抜かれたように立ち尽くす、小さな少女の姿。
ペプシルの姿を見たオサリアの瞳が、大きく揺れる。
「……ペプシル」
掠れた声。
女は笑った。
狂気に満ちた笑みを浮かべ、一歩、女が前に踏み出す。
「それがお前!その穢れこそ――」
「私が産んでしまった、忌み子よ!!」
「……あ」
オサリアの指先から、力が抜けていく。
頭の奥で、冷たい鎖が音を立てて外れていくような感覚。
「オサリアちゃん、耳を塞ぐんだ!!」
ヨザキが叫び、女に向けて魔法弾を放とうとした。
だが、もう、遅い。
オサリアの唇が震える。
ペプシルも動けない。
青い瞳が、女とオサリアを何度も見比べる。
「光を持たず生まれた!」
「神にも愛されなかった!」
「私の人生を壊した穢れ!」
「お前が産まれなければ、彼がノクスの産まれということも知らずにいられたのに……!!!」
グランヴィアが言葉を失う。
女の顔が、歓喜と絶望で歪んでいった。
「お前が殺したのよ!! お前が私の夫を奪い、私の人生を汚したのよ、忌み子!!」
「――」
世界から、音が消えた。
耳鳴りだけが聞こえる。
胸が苦しくなり、呼吸ができない。
身体が自分のものではなくなっていくような感覚。
目の前の女。
自分とよく似た瞳の色。
震える手。
狂ったように泣き叫ぶ顔。
「う、ちが……」
喉の奥が、完全に張り付いた。
「うちが……お父さんを…お母さんを…?」
青い瞳は、信じられないものを見るように見開かれていた。
「……オサ、リア……?」
かすれた声が、ペプシルの口から漏れる。
ペプシルの青い瞳に映っていたのは、
忌み子でも、穢れでもない。
壊れてしまいそうなほど震える、一人の少女だった。
最悪のタイミング。
最悪の再会。
聖域の鐘の音が、彼らの絶望を祝うように、なおも重く響き渡っていた。
「うちが……ころしちゃった……?」
震える声が、静かな広間へ落ちる。
もう、返事はない。
ただ、狂信者たちの祈りだけが重なり続けていた。
「神敵を断罪せよ」
「穢れを祓え」
「神敵を断罪せよ」
オサリアはゆっくりと俯く。
握り締めていた拳から、力が抜けた。
ぽたり。
涙が白い石畳へ落ちる。
「……ごめんなさい」
誰にも届かないほど小さく。
「ごめんなさい」
もう一度。
言葉は祈りの声によってすぐさまかき消される。
「うちが、生まれてきたから……」
掠れた声だった。
「ごめんなさい……」
一歩。
オサリアはヨザキの障壁へ向かって歩き出す。
「オサリアちゃん!?何を……ッ」
今の少女には、誰の声も聞こえていない。
「ごめんなさい……」
もう、涙すら拭かずに。
「うちが居なかったら……」
また一歩。
「みんな助かるんだったら……」
障壁へ手を伸ばす。
「うちだけ――」
「オサリア」
低い声が響いた。
それは、妙に聞き心地の良い声。
少女の足が止まる。
振り返れば、そこには息を切らせたペプシルが立っていた。
青い瞳だけが、まっすぐオサリアを見つめている。
「……ペプシル」
涙で濡れた声。
「ごめんなさい……」
笑おうと口角をあげようとする。
それはたった数ミリ上がった後、止まってしまった。
「うち……」
唇が震える。
「うち、生まれてこなかったら良かった」
その瞬間。
ペプシルの表情から、すべての色が消えた。
「……何言ってんだ」
静かな声だった。
怒鳴らない。
けれど今まで誰も聞いたことがないほど、暗く低い声。
「ごめんなさい……」
「みんな巻き込んで……」
「お父さんも、お母さんも……」
「だから、うち――」
「黙れ」
空気が震えた。
オサリアがびくりと肩を揺らす。
ペプシルは真っ直ぐ歩き出す。
そして。
オサリアの細い腕を、強く掴んだ。
「っ……!」
「勝手に終わらせるな」
震えていた。
掴まれた腕ではない。
ペプシルの声だった。
「……なんで」
オサリアは涙の滲む瞳を見開いた。
掴まれた腕が、痛いほどに強い。
けれど、その奥から伝わってくるのは、
冷徹な拒絶ではなく、張り裂けそうなほどの熱だった。
「うち、悪い子なんだってさ……」
「お父さんも、お母さんも、みんなうちのせいで……」
「ッ——そんなわけねぇだろ!!」
ペプシルの咆哮が、広間の大気を爆発的に震わせた。
周囲で祈りを捧げていた信徒たちの声が一瞬だけ掻き消える。
ペプシルはオサリアの腕を掴んだまま、
その青い瞳に、いまや怒りと、それ以上の激情を滾らせて彼女を睨みつけていた。
「……生まれただけだろ」
震えていた。
怒りと、悔しさで。
「生まれた、だけだろ」
ペプシルは女を睨む。
青い瞳が、冷たく細くなる。
「何も知らねぇ赤ん坊が、何をした」
「産んだのは誰だ」
「捨てたのは誰だ」
「なんで全部、オサリアが背負わなきゃいけねぇんだ」
女が息を呑む。
「お前が壊れたのは、オサリアのせいじゃねぇ」
一歩。
ペプシルが前へ出る。
「この場所のせいだ」
静かな一言。
その一言だけで十分だった。
「何を……外界の穢れが……」
女が虚ろな目を剥き、不気味に首を傾げる。
「神敵を断罪せよ」
「穢れを祓え」
再び、信徒たちの調子外れの祈りが重なり、頭上の光槍が鋭く輝きを増していく。
その光に照らされながら、ペプシルはオサリアを自分の背後へ、まるで宝物を隠すように力強く引き戻した。
「オサリア」
背中で、金髪の勇者が静かに、けれど絶対に揺るがない声で告げる。
「お前が生きてきたのはノクスだろ」
「……っ」
「お前が帰る場所は」
歪な機械大剣へ手を掛ける。
「俺たちのところだ」
広間から、時間が消えた。
オサリアの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「……っ」
胸の奥が熱くなった。
何かを言おうとして。でも、言葉にならない。
その静寂を。
〈キィィィィィン――〉
耳を裂くような魔力音が引き裂いた。
ヨザキが振り返る。
「ペプシル!」
頭上に、数百の光槍。
先ほどとは比較にならない数の魔法陣が、白い天井を覆い尽くしていた。
神官は静かに目を閉じたまま告げる。
「神敵が揃いました」
「これにて断罪を執行します」
「——撃て」




