終焉と創世を結ぶ聖域、サンクチュアリ
眩い光が、ゆっくりと消えていく。
「――ッ」
足元が揺れた。
次の瞬間、固い石畳を踏み締める感覚が戻る。
金髪の青年——ペプシルは反射的に目を開いた。
「……ここは」
思わず息を呑む。
目の前にそびえていたのは、巨大な白い門だった。
アストラのものとは比べ物にならない。
人の何百倍もある高さ。
滑らかな白亜の扉一面には、幾重もの神聖文字が刻まれている。
その周囲を囲むように、巨大な魔法陣。
風の音すらない。
ただ、世界から音だけが切り取られたような、異様な静寂。
「サンクチュアリ……」
無意識に呟いた、その時。
〈コツ……〉
背後から靴音が響く。
「目覚めたか」
低く、思わず身体が強張るあの声。
振り返るまでもない。
「……プルー」
皇帝は白い門を見上げたまま、小さく笑った。
「予定より早かったな」
ペプシルはすぐに周囲を見回した。
オサリアも。
イリアスも。
サクヤも。
グランヴィアも。
ヨザキも。
誰もいない。
「……みんなは」
「来ない」
プルーは即答した。
「少なくとも、今はな」
ペプシルは舌打ちする。
「俺だけを連れてきたのか」
プルーは門へ歩き出す。
「この門は、お前を拒まない」
白い門の前で立ち止まる。
そして、ゆっくりと振り返った。
青灰色の瞳が、真っ直ぐペプシルを射抜く。
「開けろ」
短い命令。
その声にペプシルは眉をひそめた。
「断る」
即答だった。
「悪いが」
プルーは表情一つ変えない。
「拒否権はない」
その声を聞いた途端。
ゾクリ、と。
首筋を悪寒が走る。
「……?」
——首筋へ、氷のような冷たさが触れた。
「ッ……!?」
反射的に息を止める。
ゆっくりと視線だけを動かした。
そこには――一本の白銀の剣。
切っ先が、喉元へ寸分違わず突き付けられている。
「な……」
思わず身体を引こうとする。
だが。
左。
右。
背後。
頭上。
視線を向けるたび、そこに一本。
いや。
一本ではない。
気づけば視界の端という端に、
数え切れないほどの白銀の刃が静かに浮かんでいた。
すべての切っ先が、ただ一人。
ペプシルだけを捉えている。
刃は微動だにしない。
それなのに。
一歩でも動けば、次の瞬間には全身を貫かれる。
本能がそう告げていた。
「……」
プルーは動かない。
手は後ろで組まれたまま。
詠唱もない。
魔法陣もない。
まるで最初からそこに存在していたかのように、
無数の剣だけが静かに空間へ浮かんでいる。
「開けろ」
もう一度。
感情のない声だけが、静寂へ落ちた。
ペプシルは奥歯を噛み締めた。
「……なんで、そこまで」
掠れた声。
「お前は」
「世界を再構築した後に何を望んでる」
「お前が知る必要はない」
ペプシルは青灰色の瞳を見据えた。
「……ずっと引っ掛かってた」
「お前は穢れた世界を救いたいんじゃない」
「救えなかった、たった一人に報いたいだけなんじゃねぇのか」
プルーの呼吸が一瞬、乱れる。
「……望んでんのは、“彼”……“レーネ”か?」
沈黙。
時が止まったと錯覚するほどの、静けさだった。
「だから世界一つなんて安いって言えんだろ」
ペプシルは真っ直ぐな声で言った。
「お前にとっちゃ、この世界はもう」
「……"レーネがいない世界"でしかねぇ」
プルーはペプシルから目を離さない。
「……仮にそうだとして、お前はどうする」
青灰色の瞳から、ほんの一瞬だけ冷たさが消えた気がした。
「お前は、どうしていた」
その言葉に、どれ程の意味が詰まっているだろうか。
風はない。
生きている証のように、互いの呼吸だけがやけに耳へ響いていた。
「……んなの、分かんねえよ」
正直だった。
「本当に大事な奴を失ったことなんて、まだ俺にはねぇ」
「だから、お前の痛みを分かったようなことは言えねぇ」
「でも」
脳裏に琥珀色の瞳が過ぎる。
『皆が笑える世界がいいなあ』
あまりにも当たり前で。
あまりにも、眩しい願い。
あの笑顔は、誰かを犠牲にして生まれるものじゃない。
ペプシルはゆっくりと顔を上げる。
「守るしかねえだろ」
「今、生きてるやつの世界を」
「……作り直す必要なんて、ねぇんだよ」
プルーは表情を変えない。
ただ、深く息を吐いた。
「私は」
「彼の理想を実現させるのだ」
目を伏せる。
「完成した理想郷で――」
「今度こそ、彼に生きてもらう」
それが唯一の答えだと信じ切った声だった。
「お前と、何が違う?」
再び、青灰色の瞳がペプシルを射抜く。
プルーの声に、微かな熱が宿った。
「誰かのために剣を取る」
「誰かを救うために戦う」
「……それは、お前も同じだろう」
「違う」
ペプシルは短く、でもハッキリと返す。
「お前は、彼のために世界を壊そうとしてる」
「俺は」
オサリアの笑顔が脳裏をよぎる。
「アイツの願いを守りたい」
「皆が笑える世界を」
「だから――世界は壊させねぇ」
ペプシルはプルーを見据える。
静寂。
返事はない。
ただ。
喉元へ突き付けられていた剣が、ほんの数ミリだけ前へ滑った。
「っ……!」
薄く皮膚が裂ける。
一筋の赤が、首筋を伝った。
痛みはほとんどない。だからこそ分かった。
次は、止まらない。
「勇者」
プルーが静かに口を開く。
「勘違いするな」
一歩。
ゆっくりと距離を詰める。
「私は、お前に協力を求めているわけではない」
また一歩。
青灰色の瞳が、向けられる刃のように真っ直ぐペプシルを見据えた。
「必要なのは、お前自身ではない」
そしてゆっくりと、白い門へ目を向ける。
「勇者だけだ」
ペプシルの表情が強張る。
「お前が歩こうが」
「這おうが」
「気絶していようが」
感情の起伏は無い。ただ、淡々と。
「死にかけていようが、門は反応する」
さらに一歩前へ進み、プルーは門へ片手を添えた。
その言葉に、ペプシルの瞳が揺れる。
「自分の意思が必要だと、誰が言った?」
「……ッ」
周囲を囲んでいた無数の白銀の剣が、一斉にわずか数センチだけ前へ動いた。
〈ギィ……〉
金属が擦れるような、不気味な音。
喉に、胸に、腹に、脚に。
全身へ向けられた切っ先が、あと一歩で届く距離まで迫る。
「選べ」
プルーの声だけが響く。
「自分で歩くか」
一拍。
「私に運ばれるか」
自身の呼吸音がよく聞こえる。
ペプシルは拳を握り締めた。
この男は、脅しているんじゃない。
もう。
実行するつもりでいる。
ペプシルはゆっくりと拳を解いた。
「……」
俯いたまま、小さく息を吐く。
プルーは何も言わない。
ただ静かに見つめている。
やがてペプシルは、一歩だけ前へ踏み出した。
無数の剣が、音もなくその動きに合わせて距離を保つ。
「……そうだ」
プルーが呟く。
「それでいい」
ペプシルの足が止まる。
「勘違いすんな」
苛立った低い声だった。
振り返らず、門だけを見つめたまま言う。
「従ったわけじゃねぇ」
拳を強く握る。
「俺がここで死んだら、あいつらはまともにお前を止められなくなる」
静寂。
「だから生きる。それだけだ」
短く吐き捨てる。
プルーはわずかに目を細めた。
「理解が早くて助かる」
皮肉とも賞賛とも取れない声音。
ペプシルは返事をしない。
巨大な白い門の前へ立つ。
近付けば近付くほど、その大きさが現実離れしていた。
見上げても、終わりが見えない。
白亜の扉一面へ刻まれた神聖文字が、静かに淡い光を放っている。
まるで。
勇者が来るのを、何千年も待ち続けていたかのように。
「触れろ」
背後から、プルーの声。
ペプシルは動かない。
ゆっくりと右手を見下ろす。
この手で、門を開けば。
この先に待つ何かを、自分の手で解き放つことになるかもしれない。
「……クソ」
吐き捨てるように呟く。
そして。
覚悟を決めるように息を吸い、
震える右手を、ゆっくりと白い門へ伸ばした。
その指先が扉へ触れた瞬間――
〈ゴォォォォ……〉
大地が鳴動した。
白亜の門全体へ黄金の紋様が一斉に駆け巡る。
幾重にも刻まれた神聖文字が、眩い光を放ちながら浮かび上がった。
「……!」
ペプシルは目を見開く。
門が——応えた。
勇者の魔力を認識したように、巨大な魔法陣がゆっくりと回転を始める。
その光景を見上げながら、プルーは静かに口元を緩めた。
「ようやくだ」
その一言だけが、静寂のサンクチュアリへ溶けていった。
〈ゴゴゴゴゴ……〉
重く。
あまりにも重い音が、大地そのものを震わせた。
白亜の門が、ゆっくりと中央から開いていく。
眩い光。
――違う。
光ではない。
向こう側から溢れているのは、白く澄んだ霧だった。
静かに流れ出した霧が二人の足元を撫でる。
冷たくも、暖かくもない。
ただ、触れた感覚だけが曖昧に消えていく。
「……」
ペプシルは思わず息を呑んだ。
門の向こうには、果てしなく続く白い石段。
左右へ立ち並ぶ巨大な柱。
空へ届くほど高い天井は見えず、白い霧だけが遥か彼方まで漂っている。
静かだった。
鳥の声も。
風も。
虫一匹の気配さえない。
世界そのものが、呼吸を止めているようだった。
「……天国……」
掠れた声が思わず漏れる。
その呟きは、霧へ吸い込まれるように消えた。
音が返ってこない。
足音すら反響しない。
耳が痛くなるほどの沈黙だけが、この場所を支配していた。
プルーは何も言わずに、迷いなく石段を登り始める。
ペプシルは舌打ちしながら、その背中を睨んだ。
ちらりと背後を見る。
あの無数の剣は消えていた。
「……」
門は、まだ開いている。
だが、その向こうは白い霧だけだった。
アストラも、空も。
世界そのものが切り離されてしまったように、何も見えない。
「無駄だ」
プルーは振り返らない。
「その門は、一度認証を終えれば外界とは完全に隔絶される」
「……読心術でも使えんのか」
「空気の淀みと、音で分かる」
淡々と返されると、ペプシルは小さく舌打ちした。
一段、また一段と登るたび、霧が静かに足元で揺れる。
どれだけ歩いても景色は変わらない。
中央に佇む泉。
生活感のない、白い空間。
民家は、一軒も見当たらない。
代わりに壁際には、等間隔に人一人が立てるだけの細長い窪みが無数に並んでいた。
その中で。
純白の法衣を纏った信徒たちが、壁へ背を預けたまま目を閉じている。
眠っていた。
それも、立ったまま。
誰一人身動ぎひとつせず。
まるで壁へ立て掛けられた人形のようだった。
「……寝てんのか」
返事はない。
近くを通り過ぎながら、ペプシルはふと目を留めた。
法衣の袖から覗く手首は、枝のように細い。
頬は削げ、瞼の下には深い影が落ちている。
眠っているというより、力尽きて立ったまま倒れられずにいる――そんな痩せ方だった。
その中に、まだ幼さの残る子供の顔もある。
腕にも足にも肉がついていない。
祈るための場所に、遊ぶための子供の姿はどこにもなかった。
「……なんで、こんな子供まで」
思わず漏れた呟きに、プルーは振り返らない。
「役目に、年齢は関係ない」
短い答えだけが返ってきた。
「……チッ」
何も出来ない苛立たしさに思わず舌打ちがでる。
白い霧。
白い階段。
祈り。
そして、立ったまま眠る人々。
人が暮らしているはずなのに、人間らしい営みだけが、この場所には存在しなかった。
時間の感覚さえ曖昧になっていく。
しばらく歩けば、
白い霧の向こうから、一列になった信徒達が降りてくる。
全員俯いたまま、誰一人として二人を見ない。
「……」
ペプシルは思わず振り返る。
「おい」
「今、俺達見えてなかったのか?」
「見えている」
プルーは歩みを止めない。
「見る必要が無いだけだ」
当たり前のように、そう呟いた。
今こうして歩いている間にも。
「────」
言葉にならない祈りが、遠くから聞こえてくる。
霧の向こうを見ると、
何百人もの人間が膝をつき祈っている。
「……なんだよこれ」
ペプシルは今まで感じたことの無い気味の悪さを覚えた。
「おい……」
堪らずペプシルが口を開く。
「ここには何がある」
プルーは視線を前へ向けたまま答えた。
「世界の始まりだ」
「そして」
数歩先で足を止める。
「世界を書き換える場所」
ペプシルの眉間にしわが寄る。
プルーは、白い霧を掻き分けるように再び歩き出す。
ペプシルも距離を空けて後を追う。
後ろを斬り掛かろうと何度も思った。
しかし、先程の無数の剣が音もなく再び現れたらと思うと。
……迂闊な行動はできなかった。
「……」
どれほどの時間が経っただろう。
霧の向こうから、巨大な白い柱が姿を現した。
一本ではない。
十本。
二十本。
いや、数え切れない。
天まで届く柱が、円を描くように立ち並んでいる。
その中心には――
「……なんだ、あれ」
巨大な祭壇があった。
床一面には神聖文字が刻まれ、淡い光を放っている。
祭壇の中央には、何かがあった。
だが、濃い霧に覆われておりその輪郭までは見えない。
思わず足が止まる。
胸騒ぎがした。
理由は分からない。
それでも、近付いてはいけない。
本能だけが、警鐘を鳴らしていた。
「……」
プルーは祭壇を見上げる。
その横顔には、今まで見せたことのない静かな熱が宿っていた。
「勇者」
「……?」
「役目は終わりだ」
ペプシルが眉をひそめる。
「何――」
最後まで言葉は続かなかった。
〈トン〉
プルーの指先が。
ペプシルの額へ、軽く触れる。
「――ッ」
一瞬だった。
頭の奥を、冷たい何かが駆け抜ける。
「な……」
膝から力が抜けた。
立っていられない。視界が大きく揺れる。
白い柱が。
白い霧が。
祭壇が。
すべて滲み、輪郭を失っていく。
「お、ま……」
声にならない。
身体は言うことを聞かなかった。
目の前で、扉が閉じていく。
倒れ込む寸前。
遠くから、幾人もの声が聞こえた気がした。
透き通るような、揃った祈りの声。
夢か、現実かも分からない。
「安心しろ」
プルーの声だけが、妙に鮮明に耳へ届く。
扉が、重い音を立てて閉まっていく。
「起きた時には、すべて終わっている」
その一言を最後に。
ペプシルの意識は、深い闇へ沈んだ。




