奪われた光
「クソッ!!」
ペプシルが全身の力で鎖を引き千切ろうとする。
「ふざけんな……ッ!!」
〈ギギギギ……〉
光の鎖は軋むだけで、一本たりとも外れない。
「ペプシル!!」
オサリアは結界へ飛びついた。
〈ゴォンッ!!〉
透明な壁が容赦なく彼女を弾き返す。
「うわっ……!」
「オサリア!」
サクヤがその身体を支え、すぐさま槍を構え直した。
「どけやァ!!」
渾身の一撃と共に、轟音が響く。
それでも結界は揺らぎもしない。
「クソッ!」
イリアスの銃声が連続して響く。
〈パンッ! パンッ! パンッ!〉
弾丸は結界へ触れた瞬間、力を失って床へ転がっていく。
グランヴィアも迷わず、炎を纏わせた大剣を叩きつける。
石床が砕けた。
それでも、透明な壁には傷一つ付かない。
「……術式が違う」
ヨザキの顔から血の気が引いていく。
「これは普通の結界じゃない……!」
魔法陣の輝きが、さらに強くなる。
ペプシルの身体がゆっくりと宙へ浮いた。
「やめろッ!」
青い瞳がプルーを睨み付ける。
「俺はまだ……!」
プルーは静かに見上げた。
「安心しろ。殺しはしない」
感情の見えない声。
「――必要だからだ」
その一言に、六人の表情が凍り付く。
「もう数十秒すれば、すぐに着くさ」
淡々と告げられた言葉。
その瞬間だった。
「……返して」
誰も気付かないほどの囁き。
オサリアは結界へ両手をついたまま、俯いていた。
肩が、小刻みに震えている。
「返して……」
雫が一つ、白い床へ落ちた。
プルーの青灰色の瞳が、ゆっくりと彼女へ向く。
「返してッ!!」
叫びだった。
今まで誰も聞いたことのない、悲鳴にも似た声。
――ドクン。
空気が、脈打った。
それは黒い靄ではない、一筋の闇が。
まるで刃のようにオサリアの足元から一直線に奔る。
透明だった結界へ触れた瞬間。
〈ジュゥゥゥゥ……〉
白銀の結界が、黒く染まった。
「……ッ!?」
ヨザキの目が見開かれた。
焼き切るのではない。
穢し、喰らい、術式そのものを書き換えるように。
黒い亀裂が蜘蛛の巣のように広がっていく。
〈ビキ……ッ〉
結界が、初めて悲鳴を上げた。
「何やこれ……!」
サクヤが息を呑む。
イリアスの銃弾でも。
グランヴィアの剣でも。
微動だにしなかった結界が、黒く蝕まれている。
「侵食してる……!」
ヨザキの声が震えた。
「闇魔法が……神聖術式を……!」
オサリアは止まらない。
「返してッ!!」
声が裏返る。
叫ぶたびに黒い闇はさらに鋭さを増し、
何本もの槍となって結界へ突き刺さる。
〈ジュゥッ!!〉
〈バキ……ッ〉
亀裂が増える。
床を覆う魔法陣まで黒く染まり始めた。
「オサリアッ!」
イリアスが駆け寄る。
「止めろ!」
返事はない。
琥珀色の瞳は涙で滲み、ただペプシルだけを見つめていた。
「返して……!」
ぽたり。
赤い雫が床へ落ちる。
「……ッ!」
イリアスの顔色が変わる。
「おい、血が……!」
鼻先から流れ落ちた血が、白い床へ点々と散った。
「まずい!」
ヨザキは声を荒らげ、オサリアへ駆け寄る。
「生命力まで使ってる!」
サクヤがオサリアの震える肩を掴む。
「オサリア!!」
グランヴィアも反対側から身体を支えるように腕を掴む。
「もうやめろ!!」
だが、その腕は黒い衝撃波によって振り払われた。
「返してよッ!!」
再び闇が爆ぜる。
〈バキィィン!!〉
結界の一角へ、大きな亀裂が走った。
プルーは静かにその光景を見つめる。
青灰色の瞳が、初めてオサリアだけを映した。
黒い闇。
神聖術式を侵す、穢れ。
その事実だけを静かに見届ける。
「……そうか」
小さく呟く。
「やはり、お前か」
その声に焦りはない。
だが、何かの予定が狂ったことだけは理解できた。
プルーは静かに右手を掲げる。
床一面の魔法陣が、一斉に眩く輝いた。
「待てッ!!」
ペプシルが叫ぶ。
「オサリア!!」
伸ばした手。
オサリアも必死に手を伸ばす。
「ペプシルッ!!」
指先が震える。
あと、ほんの少し。
届く。
――刹那、白い閃光がすべてを飲み込んだ。
◇
(……?)
夜風が、静かに庭を渡る。
月明かりの下。
ソラが小さな花壇へしゃがみ込み、
一輪ずつ丁寧に花の手入れをしていた。
ざわり。
頭の奥で、何かが微かに響く。
指先が止まる。
「……今のは」
息を呑む。
背筋が凍るような、冷たい何か。
そして、悲しみとも怒りともつかない感情が、
遠いどこかから一瞬だけ流れ込んできて、すぐに消える。
「……何が、起きたの」
ソラはゆっくりと立ち上がり、夜空を見上げる。
星は変わらず瞬いている。
風も穏やかだった。
それでも。
胸の奥だけが、不自然に騒いでいる。
「……兄さん」
胸の上で、ぎゅっと。
何かを祈るように拳を握った。
◇
静寂。
さっきまで回廊を満たしていた眩い光。
今はもう、跡形もなく消えていた。
「……っ」
誰も、すぐには動けない。
目の前には、静まり返った回廊だけがあった。
透明な結界も、白銀の魔法陣も。
そこに立っていた銀髪の皇帝も。
そして――
「……ペプシル?」
オサリアの声だけが、小さく響く。
返事はない。
震える足で、一歩。
また一歩。
さっきまでペプシルがいた場所へ歩み寄る。
「……うそ」
そこには、何も残っていなかった。
「ペプシル……?」
力なく名前を呼ぶ。
返事はない。
「ペプシル……!」
息が震える。
「そんな……」
その場へ膝から崩れ落ちる。
そのまま縋るように指先で床を探った。
だが。
温もりは、もうどこにもない。
「……ごめん」
かすれた声が漏れる。
「ごめ、っなさい……」
ぽたり、と。
涙が血と混じり、そのまま床へ落ちた。
赤い絨毯に染みが広がっていく。
オサリアは絨毯をくしゃりと握った。
白く染まっていた魔法陣も。
侵食されていた結界も。
まるで最初から存在しなかったかのように、
静かな回廊だけが広がっていた。
「……連れていかれた」
ヨザキが歯を食いしばる。
床へ残る魔力の残滓を見つめ、震える声で呟く。
「……どうすんだよ、これ」
イリアスは呆然としている。
なにも、解決策が思いつかない。
「ッ……!」
グランヴィアは皇室の壁を殴る。
鈍い音がした。
「やっぱあん時、斬っときゃよかったんだ……ッ!!」
その拳は、ゆらり、と力なく垂れ下がった。
サクヤは口を開こうとして、何度も閉じた。
何も言えなかった。
ただ、震えるオサリアの背中を静かにさすり続ける。
誰も動けない。
回廊へ響くのは、オサリアの小さな嗚咽だけだった。
「……っ」
ヨザキはゆっくりと息を吐く。
諦めるな。
そう自分へ言い聞かせるように、床へ膝をついた。
指先を石床へ触れさせる。
「……ヨザキ?」
イリアスが顔を向ける。
返事はない。
紫の瞳は床だけを見つめていた。
「…………」
静かに目を閉じる。
魔力を巡らせる。
残留魔力。
術式の流れ。
転移座標。
僅かな痕跡でも拾い上げようと、神経を研ぎ澄ませる。
「……!」
はっと目を見開く。
「残ってる」
小さく漏れた声。
「え?」
サクヤが振り返る。
ヨザキは顔を上げない。
「まだ……消えてない」
その一言で、全員の視線が集まる。
「本来なら」
ヨザキは床へ触れたまま続ける。
「あの規模の転移術式は発動した瞬間に閉じる」
「座標も、魔力も、痕跡も全部消える」
「だから追跡なんて出来ない」
一拍。
震える指先が、黒く変色した石床をなぞる。
「……でも」
なぞった先の、ほんの爪先ほどの範囲だけ。
白い石へ黒い筋が焼き付いたように残っていた。
「闇に侵食された部分だけ……術式が壊れ切ってない」
イリアスが目を見開く。
「それって……」
「道が、閉じ切ってない」
ヨザキはゆっくり立ち上がった。
「オサリアちゃんの闇魔法が転移術式そのものを書き換えたんだ」
「完全には消えてない。まだ……微かに繋がってる」
グランヴィアが息を呑む。
「追えるのか?」
期待が四人の目へ宿る。
「……いや」
ヨザキはゆっくり首を横へ振った。
その一言だけで空気が沈む。
「分かったのは」
黒く焼けた床へ視線を落とす。
「この転移術式が、まだ完全には閉じていないこと」
「そして」
一拍。
「行き先が――サンクチュアリだということだけ」
静寂。
ヨザキはゆっくりと床へ手を置く。
「今、唯一残っている手掛かりだ」
誰も、その言葉へ返事を出来なかった。
「……サンクチュアリ」
イリアスが小さく呟く。
「行先は分かってる。でも結局行けねぇ」
ヨザキは苦く頷いた。
「プルーに聞きそびれた。……だけど」
ヨザキはプルーの言っていた言葉を思い出す。
ペプシルだけを。
必要だからと、サンクチュアリへ連れていった。
「多分」
その理由は。
「勇者そのものが、鍵なのかもしれない」
回廊へ重い沈黙が落ちる。
「……じゃあ」
イリアスが乾いた声を漏らす。
「勇者がいねぇ俺らは、終わりってことか」
誰も答えない。
答えられない。
「……ふざけんな」
グランヴィアが拳を握る。
「場所まで分かってんのに、助けに行けねぇのかよ」
ヨザキは静かに目を閉じた。
「サンクチュアリは、恐らく勇者が持つ特異な魔力を持ってようやく辿り着ける聖域だ」
「勇者の資質を鍵として認証している限り、僕達には突破する方法が――」
そこで言葉が止まる。
視線が、床へ残る黒い侵食痕へ落ちた。
「……いや」
小さく呟く。
「一つだけ、理屈に合わない」
全員が顔を上げる。
「オサリアちゃん」
ヨザキは静かに彼女を見る。
「君の闇魔法は、プルーが使った神聖術式そのものを書き換えた」
「もしサンクチュアリの門も同じ神聖術式なら……」
息を呑む音。
「壊すことは出来ない」
「でも」
黒く焼けた床を見つめる。
「侵食して、無理やり道を開ける可能性はある」
静寂。
誰も言葉を発しない。
その沈黙を破ったのは、オサリアだった。
ゆっくりと立ち上がる。
足元がふらついていた。
鼻血はまだ止まっていない。
涙も乾いていない。
それでも。
琥珀色の瞳だけは、もう泣いていなかった。
怒りとも、覚悟ともつかない光が宿っている。
「……やる」
かすれた声。
サクヤがはっと目を見開く。
「オサリア……」
「行く」
袖で鼻血を乱暴に拭う。
「うちが、道を開ける」
「ッ……何言ってんねん」
一番最初に動いたのはサクヤだった。
オサリアの肩を強く掴む。
「さっき見たやろ……!」
「その身体で、まだ闇魔法使う気なんか?!」
オサリアは目を逸らさない。
「使う」
「アホ!」
サクヤの声が震える。
「死んでまうがな……!!」
「……それでも」
短い返事だった。
今度はイリアスが前へ出る。
「やめろ」
低い声。
「ペプシルの元に行く前に死ぬぞ」
グランヴィアも歯を食いしばる。
「そうだ……」
「お前を待ってる奴も居んだぞ……!」
「——ッ!!」
オサリアは大きく息を吸った。
「じゃあどうやって行くの!!」
いつも笑顔だった少女の。
誰も、聞いたことが無い声。
「また一から調べろって言うの!?」
「方法を探せって言うの!?」
ぎり、と手のひらに爪が食い込んでいる。
薄く血が指に滲んだ。
「そんなことしてる間に……!」
叫び声が裏返る。
「ペプシルが死んじゃったら、どうするの!!」
オサリアの声が回廊に響き渡る。
誰も、言葉を返せなかった。
オサリアの問いに答えられる者は、
この場に一人もいない。
オサリアの肩が、小さく上下する。
荒い呼吸。
涙で濡れた頬をそのままに、真っ直ぐ前だけを見据えている。
「……成功する保証はない」
口を開いたのは、ヨザキだった。
その声は静かだった。
「この侵食は、一度も前例がない」
「サンクチュアリの門が同じ術式だという保証もない」
黒く焼けた床へ視線を落とす。
「開けられるかも分からない」
「途中で術式が崩壊するかもしれない」
ヨザキは小さく息を吸った。
「……君の命が先に尽きる可能性の方が、高い」
誰も否定しない。
それが事実だった。
オサリアは静かに息を吐く。
「……それでも」
袖で鼻先の血を拭う。
赤黒く染まった袖を見つめることもなく、そのまま握り締めた。
「保証なんて、いらない」
琥珀色の瞳が、ヨザキを見据える。
「ペプシルが居なくなる世界なんて選ばない」
「うちは行く」
その一言に。
サクヤが苦しそうに目を閉じた。
「……あかん」
絞り出すような声。
「頼むから……無茶せんといてや……」
オサリアは首を振る。
「ペプシルが、一人でいる方が嫌」
その言葉に、全員の胸が締め付けられた。
グランヴィアは拳を震わせる。
イリアスは親指で銃のシリンダーを回し、小さく舌打ちした。
「……クソッ」
どうしても、止める言葉が見つからない。
ヨザキは長い沈黙の末、ゆっくりと目を閉じた。
そして、小さく息を吐く。
「……分かった」
全員が顔を上げる。
「ただし、一つ条件がある」
ヨザキは真っ直ぐオサリアを見た。
「無理に門をこじ開けるのは最後の手段だ」
「まずは、この残っている術式を解析する」
黒く侵食された床へ視線を落とす。
「少しでも成功させる可能性を上げる」
「……そのための準備だけは、させてくれ」
オサリアはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……分かった」
その返事を聞いたヨザキも頷く。
「急ごう」
黒い筋が、ほんの僅かに薄れていく。
ヨザキの声で全員が覚悟を決めた。
「この道が閉じる前に」




