理想を殺した者
六人は足を止めた。
誰も息をしない。
赤い絨毯の先を歩く、一人の男。
その背中は、決して振り返らない。
歩調は乱れる様子もなく、足音だけが静かな回廊に響いている。
(……気づいてないのか)
ペプシルは息を潜め、指先へ力を込めた。
今、動くべきか。
(今なら不意打ち出来る)
青い瞳が静かに細くなる。
オサリアは呼吸を整えようと小さく息を吐いた。
夜隠は消えた。
もう隠れる術はない。
誰も動けない。
その沈黙を破ったのは――
「……遅いな」
低く、穏やかな声だった。
歩みは止めない。
振り返りもしない。
それでも、その一言だけで六人の身体が強張る。
「勇者」
短い呼びかけ。
その言葉が、自分へ向けられたものだと理解するまで、一瞬の間があった。
皇帝はなおも歩く。
「いや」
小さく言葉を継ぐ。
「今は、もう違うか」
そこで初めて足が止まった。
静寂が落ちる。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
皇帝が、振り返る。
銀髪が静かに揺れる。
月明かりが、その横顔を照らした。
驚きはない。
怒りもない。
静かな青灰色の瞳が、六人をまっすぐ見つめていた。
回廊から、音が消えた。
「……」
一歩、ペプシルが踏み出す。
「……お前が」
喉が乾く。
「プルーか」
銀髪の皇帝は、静かに目を細めた。
「そう呼ばれている」
沈黙。
ペプシルの後ろを、一歩遅れて五人も踏み出す。
ヨザキの額には、嫌な汗が滲んでいた。
六人に対して、皇帝はただ一人。
それなのに、彼は退かない。
(……何がある)
紫の瞳は、プルーの一挙手一投足を追っていた。
「……地下で」
張り詰めた唾を飲み込んだ。
拳を握りしめる。
「人間が番号で呼ばれていた」
「そうか」
それが普通、とでも言うように、ただ相槌を打つ。
「あれは、何だ」
「……何のためなんだ」
プルーは小さく袖を揺らした。
「お前は、あれを見てどう思った」
質問に質問で返して来た。
ペプシルは眉を一瞬顰め、真っ向から否定する。
「人間じゃなかった」
プルーはほんの少し、目を伏せる。
「そうだな」
「私も、そう思う」
予想外の答えに、六人は一瞬理解が追いつかなかった。
「そう思うって……」
サクヤが思わず声を漏らした。
ヨザキの目が鋭くなる。
「……何のために」
青灰色の瞳が六人を静かに見据える。
「秩序のためだ」
「自由は、人間には過ぎたものだ」
短く、そして静かな断言だった。
「……ふざけんな」
低く漏れた声。
グランヴィアだった。
赤紫の瞳が皇帝を睨みつける。
「だから人間から名前を奪ったのか」
沈黙。
プルーはほんの僅かに目を伏せる。
「人は本来、役割で十分だ。」
「名は執着を生む」
「自由は欲望を生む」
「欲望は争いを生む」
「そして」
青灰色の瞳が六人を静かに見渡す。
「争いは、人を殺す」
ペプシルの拳が握られる。
ぎりり、と音を立てた。
「だから全部消すのか」
「必要の、ないものは」
「ああ」
その返答には、一片の迷いも無かった。
僅かに、青灰色の瞳が動く。
「ッ…!」
その瞳は、黒い外套を纏った少女へ向けられていた。
オサリアの肩がぴくりと震える。
プルーは、ほんの僅かに目を細めた。
「……闇が、表を歩いている」
小さな独り言のように。
「また、同じ過ちを繰り返す気か」
静かな声だった。
「……何だと」
ペプシルの声色に小さな怒気が混じる。
プルーの視線は、なおもオサリアから動かない。
「人は、未知を恐れる」
「だからお前は、表に出ることが許されない」
オサリアは小さく唇を噛む。
サクヤは舌打ちをした。
「……訳分からんことスカしながら喋んなや」
緑の瞳が鋭く細まる。
「さっさと全部洗いざらい吐き出せっちゅーとんねん」
その声だけが、静かな回廊へ響いた。
プルーは眉一つ動かさない。
ただ、サクヤへ静かに視線を向ける。
「……説明したところで」
青灰色の瞳は、感情ではなく事実を述べるようだった。
「理解は出来ないだろう」
「……はぁ?」
サクヤの眉が跳ね上がる。
「人は、自らの価値観の外側を拒絶する」
「それがお前達であり」
ほんの僅かに目を伏せる。
「それが、この世界だ」
ペプシルの拳へ力が入る。
「世界の話をしてるんじゃねぇ」
一歩、さらに踏み出す。
「俺は、お前に聞いてる」
「地下で何をしている」
「何のために、人の名前を消した」
プルーは動かない。
ただ、淡々と。
「管理だ」
そう、一言。
「それ以上も、それ以下も無い」
プルーは目を閉じる。
「それが、人間に最も適した形だ」
六人は何も言わない。ただ、目の前の皇帝を見ている。
誰かが口を開こうと息を吸う音がする。
だが、それは喉の奥に飲み込まれて行った。
「……なら、もう一つ」
ヨザキが声をあげる。
「各地で見つかった黒い結晶」
「貴方は何かを、知っているだろう」
青灰色の視線が、眼鏡の教師へ向けられる。
「知っている」
ヨザキは闘いに来た訳ではない。
ただ、情報が欲しかった。
「……あれは、なんなんだ」
短い沈黙。
プルーは視線を逸らさない。
「あれは、欠片だ」
「欠片?」
イリアスが眉を顰める。
「何のだ」
グランヴィアが低く問う。
だが、プルーは答えない。
しばらく六人を見つめた後、静かに口を開いた。
「この世界は、お前達が思っているほど完成されたものではない」
その一言だけが回廊へ落ちる。
「放っておけば、いずれ世界はそれに呑まれる」
六人の表情は固くなる。
ヨザキが一歩、前へ踏み出した。
「その先には何がある」
プルーは静かに目を閉じた。
「世界の再構築だ」
その言葉だけは、妙に重く響いた。
「……再構築」
オサリアが眉をひそめる。
プルーは再び目を開く。
青灰色の瞳には、狂気も興奮もなかった。
あるのは、ただ揺るぎない確信だけだった。
「私はそれを利用する」
「壊れたものは、作り直せばいい」
「それだけの話だ」
イリアスが片眉を上げた。
「一からって、面倒じゃねえか?」
気だるげに首を回す。
だがその表情に余裕はない。
「壊れた箇所だけ直せば、まだ使えるだろ」
プルーは緑の瞳を持つ青年に目を向ける。
「お前に分かりやすく言おう」
「壊れた箇所は、もう替えの効かない部品が使われていた」
「……なら確かに、一から作るしかねぇか」
イリアスは小さく息をついた。
「……機械なら、な」
「それは世界の話じゃねぇ」
イリアスは腕を組む。
「んじゃ、例えばだ」
「皆で大事にして、思い出の詰まった玩具を」
「どっか壊れたからってお前一人の決断で全部バラしてお前は作り直す」
イリアスは顎を引いた。
「それで皆が『しゃあねぇな』って受け入れると思うか?」
数秒の静寂の後。
プルーは迷いなく答えた。
「受け入れる必要はない」
その一言で空気が凍る。
青灰色の瞳は冷たい。
「理解も、同意も不要だ」
「完成した後に、生きていればそれでいい」
イリアスの表情は固い。
「……お前」
プルーは淡々と続けた。
「思い出は物ではない」
「人間の脳に残った情報だ」
「不要なら、新しく積み重ねればいい」
「世界も同じだ」
「壊れたなら、組み直す」
冷たい声で、そう言い放った。
「……どうして」
オサリアが消え入りそうな声で呟く。
「何があったの……?」
静寂。
プルーは口を閉ざす。
青灰色の瞳が、ただ琥珀色の瞳を見つめ返していた。
回廊に、風が吹く。
赤い絨毯の端が、僅かに揺れた。
「……人は」
低い声が落ちる。
「最も善き者すら、自らの手で殺す」
六人の表情が変わる。
「欲望のために」
「恐怖のために」
「正義のために」
「理由など、何でもいい」
青灰色の瞳に感情はない。
「人は、自分の都合で他者を殺せる」
「それが、この世界の本質だ」
オサリアは息を呑む。
その言葉には、憎しみも怒りも感じられない。
あまりにも静かで。
あまりにも諦めきった声だった。
「だから私は」
プルーはゆっくりと目を伏せる。
「二度と、同じ過ちは繰り返させない」
沈黙。
ペプシルは拳を強く握り締めた。
「……違う」
低い声だった。
プルーが静かに視線を向ける。
「お前は、人を信じることをやめただけだ」
その一言で、空気が張り詰めた。
「……何?」
初めてだった。
プルーの声に、僅かな揺らぎが混じる。
ペプシルは一歩、前へ踏み出した。
「お前は言った」
「人は争う、殺す。だから愚かだ」
青い瞳は、真っ直ぐ皇帝を射抜いている。
「そんなんな、当たり前なんだよ」
拳を握り締める。
「手を取り合うことが出来んなら、誰だって願ってんだよ」
風が回廊を吹き抜ける。
プルーは何も言わない。
ペプシルは続けた。
「最低な人間だって腐るほど居る」
「でも、それだけじゃねぇ」
低い声が響く。
「俺は見てきた」
「命を懸けて誰かを助ける奴を」
「自分より他人を選ぶ奴を」
「どんな絶望でも立ち上がる奴を」
ペプシルは後ろを振り返る。
五人が、小さく目を見開いた。
誰も口を挟まない。
「お前は、人間の悪いところだけ見て」
「それ以外を全部、切り捨てた」
その一言に。
プルーの瞳が、ほんの僅かに細くなった。
「…お前は愚かだ」
「お前は、まだ知らない」
初めて、言葉に感情が滲み出てきた。
その声は小さい。
けれど、今までで一番強かった。
「私は」
呼吸にも似た、小さな息がこぼれる。
「見たのだ」
青灰色の瞳が、どこか遠くを見る。
「最も善き人間が」
「最も醜い人間に殺される瞬間を」
オサリアの瞳が揺れる。
この人は。
「彼は信じていた」
六人ではなく、遠い過去を見ている。
「人は、分かり合えると」
「どれほど時間が掛かっても」
「手を取り合える日が来ると」
一拍。
「だから死んだ」
静かな声だった。
「手を取り合えないと決めつけた者達に」
「恐怖を正義と信じた者達に」
「——彼がなにより愛していた、国民に」
プルーの呼吸が、ほんの僅かだけ乱れる。
「殺された」
その声は、酷く感情的だった。
「死ぬ、その瞬間まで」
「彼は世界を憎まなかった」
「優し過ぎたのだ」
沈黙。
誰も言葉を返せない。
プルーはゆっくりと息を吐く。
「……だから」
その声は、先ほどまでよりも静かだった。
「私が憎む」
青灰色の瞳が、六人へ戻る。
「彼には出来なかったことを、私が引き受ける」
「彼は最後まで、人を信じた」
「ならば私は、人を信じない」
一拍。
「そして」
「二度と、彼のような人間が殺されない世界を創る」
その言葉に、オサリアは何も言えなかった。
それは理想ではない。
祈りでもない。
一人の人間が、自らを犠牲にしてでも貫こうとしている
歪みきった決意だった。
「……そのためなら」
プルーは静かに言う。
「世界一つなど、安い代償だ」
沈黙。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
あまりにも重く、あまりにも狂っている。
その覚悟だけは、誰にも否定出来なかった。
風が吹く。
赤い絨毯を揺らし、銀髪が静かに揺れた。
ペプシルはゆっくりと口を開く。
「……じゃあ」
青い瞳は逸れない。
「その世界に生きてる奴らはどうなる」
プルーは答える。
「生きるさ」
「秩序の中で」
「苦しみも、争いも無く」
「同じ悲劇を繰り返さずに済む」
「……違う」
ペプシルは首を横に振った。
「そういうことじゃねぇ」
息が震える。
「誰がお前に決める権利をやった」
その一言で、空気が止まる。
プルーは僅かに目を細めた。
「権利?」
静かな声だった。
「お前達が、泣いて縋りついたんだろう」
六人は思考が止まる。
――あの日の演説。
『私は誓おう』
『レーネのような優しき犠牲者は、彼を最後に、二度と出さない』
『私は、お前たちを護る』
恐怖と悲しみで震えていた民衆は、その言葉へ歓声を上げた。
誰もが、彼を救世主と呼んだ。
「私は奪ってなどいない」
プルーは淡々と言う。
「求められたから応えた」
「恐怖から救えと叫んだのは、お前達だ」
「秩序を望んだのも、お前達だ」
何一つ、間違いなど犯していないとでも言うように。
「私は、その願いを叶えただけだ」
ヨザキの表情が強張る。
違う。
それは違う。
「……詭弁だ」
低く呟く。
「人は恐怖の中では、正常な判断が出来ない」
「恐怖を与えられた人間は、生き延びるためなら何だって選ぶ」
「人は選んだんじゃない」
紫の瞳が、皇帝を真っ直ぐ射抜く。
「お前が、選ばせたんだ」
プルーは否定しなかった。
青灰色の瞳が、ヨザキを静かに見据える。
「そうだ」
あまりにもあっさりとした肯定だった。
「人は恐怖の中では正常な判断が出来ない」
「だからこそ、本音が出る」
回廊が静まり返る。
「飾り立てた理想など、平穏の上にしか成り立たない」
「命を脅かされた時、人は何を望む」
「自由か」
「尊厳か」
「違う」
一歩。
皇帝がこちら側に歩みを進める。
「生きたい」
「守られたい」
「安心したい」
「それだけだ」
誰も動けない。
「私は、その願いに応えた」
青灰色の瞳が、六人を静かに見渡す。
「私は剣を突き付けて従わせたのではない」
「彼ら自身が、私を選んだ」
ヨザキは歯を食いしばる。
「……それでも」
「恐怖の中で下した選択は、自由意思とは呼べない」
「お前は民を導いたんじゃない」
「追い詰めた先で、一つしか道を残さなかった」
「だから『選ばせた』と言ったんだ」
短い沈黙が流れた。
プルーは小さく息を吐く。
「……理想論だな」
声は低く、静かに流れた。
「選択肢が複数あることを望めるのは、平和な時代だけだ」
「世界が崩れようとしている時に」
「迷っている時間など、人には無い」
その言葉に、ペプシルの瞳が鋭く細まる。
「だからって」
また一歩、前へ出る。
「全部、お前一人が決めていい理由にはならねぇ」
「世界はお前のもんじゃない」
「ここに生きてる、一人一人のもんだ」
その言葉は、真っ直ぐに響いた。
風だけが、二人の間を吹き抜ける。
青灰色の瞳が、ただペプシルを見つめる。
その視線は微かに揺れている。
「……その言葉は」
月明かりに紛れてしまいそうな、ほんの小さな声。
「昔にも、一度聞いた」
六人の表情が変わる。
「世界は誰のものでもない」
「皆のものだ」
「だから皆で守るのだ、と」
一拍。
「……あいつも、そう言っていた」
その声は、酷く遠かった。
ペプシルはプルーの瞳を真っ直ぐ見据える。
「だったら」
「どうして、お前はその言葉を捨てた」
青灰色の瞳が、ゆっくりと閉じられる。
「捨てたのではない」
「証明されたのだ」
言葉はそっと零れ落ちていく。
「その理想では、人は救えないと」
再び瞳が開く。
そこにもう迷いはない。
「だから私は、理想を殺した」
「そして世界を救う」
その言葉は、皇帝の宣言だった。
「その為には、お前が必要だ」
ペプシルは眉をひそめる。
「……何?」
プルーは答えない。
ただ。
青灰色の瞳が、まっすぐペプシルを捉えた。
静かに右手を上げる。
「——捕らえろ」
感情の消えた、冷酷な合図。
「──ッ!?」
刹那。
六人が立つ赤い絨毯が、底知れぬ白銀の光に染まった。
床一面に、緻密な幾何学模様の魔法陣が瞬時に拡大していく。
「ペプシル!!」
グランヴィアが叫ぶ。
だが、遅い。
〈バキィン!!〉
光の鎖が床から噴き上がり、真っ直ぐペプシルへ絡みつく。
「ぐっ……!」
「ペプシル!!」
オサリアが駆け出す。
しかし。
〈ゴォンッ!!〉
透明な結界が二人の間を遮った。
「なっ……!」
即座に各々の武器を抜き、結界を突き破ろうとする。
だが。
「おい、効かへんぞ……ッ!!」
反射的に繰り出したサクヤの槍は激しく弾かれる。
イリアスが放った数発の銃弾は、
空間に固定されたかのようにひしゃげて落ちる。
遅れて叩きつけられたグランヴィアの大剣の直撃すら、
その結界は微塵も揺らがず、ただ冷徹な光を撥ね返すだけだった。
ヨザキの嫌な予感が、現実となる。
「……最初から」
紫の瞳が揺れる。
「僕達を、この場所へ誘い込んでいたのか……!」
プルーは何も否定しない。
ただ、静かにペプシルを見つめた。
「勇者」
その声だけが、静かに響く。
「お前には、サンクチュアリへ来てもらう」
――回廊を満たす空気が、一瞬にして凍り付いた。




