静かな記録
白梟亭に入れば、ぎぃ、と扉が音を立てた。
中は静かで、古時計が時を刻む音だけが響いている。
外の白い街とは違い、木の匂いがする。
床も壁も古い木材で出来ていて、
どこかノクスの宿を思わせた。
オサリアはほっと息を吐く。
知らない街へ来てから初めて、
少しだけ肩の力が抜けた気がした。
宿の主人らしい老人が軽く頭を下げる。
「部屋は二階だ。食事は長い鐘二つ後」
それだけ言って、老人は帳簿へ視線を戻した。
愛想が悪いわけではない。
ただ、長話を避けているように見えた。
荷物を運び終えると、カンナが食堂の席へ腰を下ろした。
「夜まで時間がある」
全員の視線が集まる。
「好きにしていい」
グランヴィアが目を瞬かせる。
「え、自由時間か?」
「ああ」
カンナは頷く。
「ただし三人以上で行動しろ」
「日没前には必ず戻れ」
水色の瞳が一人ずつを見渡す。
「この街では目立つな」
短い言葉。
けれど、その声は少しだけ硬かった。
帝都へ入ってから、カンナはずっと気を張っている。
「好きにしていい、か」
イリアスは着ていた黒い外套を邪魔そうに脱いだ。
「バレたら一巻の終わりってのに、気安く外なんて出歩けっかねえ」
「慎重なのはええことや」
サクヤが尻尾を揺らしながら笑う。
「せやけど、情報集めは必要やろ?」
「工房区も見てぇしな」
グランヴィアが腕を組む。
「帝都の武器屋とか気になる」
イリアスの耳がぴくりと動いた。
「工房区があるなら俺も行く」
職人の血が騒ぐのだろう。
カンナは小さく頷いた。
「なら、イリアス、グランヴィア、サクヤの三人で回れ」
「了解」
即答だった。
水色の瞳が今度はオサリア達へ向く。
「お前達はどうする?」
カンナが尋ねる。
ペプシルは窓の外へ視線を向けた。
「……地理を把握したい」
堅実な答え。
「うん。良さげな潜入ルートを見つけておきたいね」
ヨザキは手帳を手に持つ。
「皇城周辺の地形も確認する」
カンナは小さく頷いた。
「なら、お前達三人で回れ」
オサリアは小さく頷く。
ふと。
青い瞳と目が合った。
黒髪の青年は一瞬だけ視線を逸らす。
「……迷子になるなよ」
ぶっきらぼうな声だった。
オサリアは思わず笑う。
「ならないよ」
少しだけ間を置いて。
「たぶん」
「なるな」
即答だった。
サクヤは思わず吹き出した。
「確かにオサリアは放っといたら消えそうやな!」
「消えないもん!」
賑やかな声が木造の食堂に響いた。
ふと、カンナが声をあげる。
「お前達、これを持っていけ」
カンナから、先程出していた身分証を渡される。
知らない名前が並んでいる。
だが、身分証の写真はどこか自分達に似ていた。
「帝都は公共施設の利用時、身分証を端末へ登録するんだ」
「本や資料を読んだ記録も、宿に泊まった記録も、飛空艇に乗った記録も全て残る」
「本人確認は?」
ヨザキは身分証を見ながら尋ねた。
「検問以外では、ほとんどされない」
「この国の人間は、身分証が偽物かもしれないなんて考えない」
「市民が虚偽登録することを前提としていないから、っつーことか」
イリアスは興味深そうに身分証を光に当てて透かしている。
「……ハハ、俺達、ガチの不法入国みたいな事してんな」
グランヴィアは笑っているが、その笑みは引き攣っている。
「みたいじゃない。不法入国だ」
ペプシルは冷たい声でそう言い放った。
やがて。
それぞれが外套を羽織り直し、二つの組へ分かれる。
工房区へ向かう三人。
帝都の地形を確かめる三人。
カンナだけは宿に残るらしい。
「私は夜の準備をしておく」
誰も、何の準備なのかは聞かない。
聞くべきではないこともあるのだろう。
「ほな、行こか!」
真っ先に扉を開けたのはサクヤだった。
緑の尻尾が楽しそうに揺れている。
グランヴィアとイリアスも後に続き、
三人の姿は人混みへ消えていった。
残されたのは。
オサリア。
ペプシル。
ヨザキ。
そして静かな沈黙だった。
オサリアはぱちぱちと目を瞬かせる。
よく考えれば、この顔ぶれだけで行動するのは初めてかもしれない。
ヨザキは手帳を取り出している。
ペプシルは窓の外を見ていた。
誰も喋らない。
いつもはイリアスが軽口を叩き、
それに自分やペプシルが返すのがセオリーだったから。
……少しだけ、気まずい。
「……どこから行くの?」
耐え切れなくなって、
オサリアは口を開いた。
すると。
「中央区の地図を確認する」
ペプシルは迷いなく立ち上がる。
「皇城周辺の地形も見る」
「水路と外壁の位置を把握したい」
淀みのない声。
まるで最初から予定が決まっていたみたいだった。
「流石だね」
「潜入では退路の確認が基本だ」
黒髪の青年は淡々と答える。
勇者の顔だった。
けれど。
オサリアは少しだけ知っている。
地図を見る時の彼は、少しだけ楽しそうな顔をすることを。
白梟亭を出る。
昼の帝都は明るかった。
白い石畳が陽光を反射し、街全体が輝いて見える。
道行く人々は皆、整った服装だった。
急いで走る者はいない。
怒鳴る者もいない。
笑い声さえ少ない。
ただ。
静かに、規則正しく街が動いている。
遠くで短く鐘が鳴った。
〈カン――〉
その瞬間。
広場の時計塔の針が動く。
露店が一斉に布を下ろし、別の店が看板を掲げる。
オサリアは目を丸くした。
「ほんとに時計みたい……」
「帝都の鐘は生活の基準だからね」
ヨザキが手帳へ何かを書き込む。
「市場の開閉、勤務交代、飛空艇の離発着」
「全部、鐘に合わせて動いてる」
「遅刻したらどうなるの?」
オサリアは何気なく尋ねる。
すると。
近くを歩いていた男が、ほんの一瞬だけこちらを見た。
すぐに視線を逸らし、何事もなかったように歩いていく。
オサリアは小さく息を呑んだ。
ヨザキが静かに答える。
「注意で済むこともある」
「繰り返せば、評価が下がる」
「評価?」
その言葉に、オサリアは首を傾げる。
ヨザキは少しだけ言葉を選んだ。
「アストラは記録の街だ」
「働き方も、納税も、生活態度も」
「様々な形で記録される」
オサリアは無意識に周囲を見回す。
やけに靴音がよく聞こえた。
綺麗に整備された、豊かな街。
だが、常に誰かに監視されているような息苦しさも同時にある。
その時だった。
「……あった」
ぽつり。
前を歩いていたペプシルが足を止める。
視線の先。
そこには、一軒の店があった。
看板には地図と方位盤の紋章。
『帝都中央地誌館』
オサリアは目を瞬かせる。
ヨザキが看板を見上げ、小さく目を細めた。
「セレスティア最大の地誌館だね」
「地図だけじゃない」
ペプシルは即座に答える。
「各街の地誌、河川記録、旧街道、飛空艇航路…歴史資料もある」
淀みのない説明だった。
オサリアは目をぱちぱちさせる。
「……知ってるの?」
「本で読んだ」
黒髪の青年の足取りが、どこか軽く見えた。
白い石造りの階段を上る。
身分証を端末にかざし、
六翼の星と方位盤が刻まれている扉を開けば、中は静かだった。
高い天井。
幾重にも並ぶ本棚。
紙とインクの匂い。
外の整然とした帝都とは少し違う。
そこには、人が積み重ねてきた時間の匂いがあった。
オサリアは小さく息を呑む。
「すごい……」
その時だった。
奥の一角が目に入る。
小さな机が、綺麗に並べられていた。
そこには十人ほどの子供達が座っている。
立ち歩かずに背筋をピンと伸ばし、
ただ静かに本を読んでいた。
ページをめくる音だけが静かに響く。
オサリアは目を丸くする。
「みんな、お利口さんなんだね」
純粋な感想だった。
ノクスの子供達は、もっと自由だったから。
その時。
一人の幼い女の子が、本を閉じる。
ぱたん、と小さな音が鳴る。
すると。
隣の子が、小声で囁いた。
「まだ鐘が鳴ってないよ」
責める声ではない。
優しい声だった。
女の子は、はっと目を見開く。
「あ……ごめんなさい」
本を閉じた子は、周囲を見回してから、
急いで再び本を開いた。
誰も怒らない。
先生もいない。
司書もいない。
ただ、子供達自身がお互いを正していた。
その時。
入口近くで、小さな足音が響く。
幼い男の子が慌てた様子で本を抱え、棚の間を駆けていく。
司書の女性が顔を上げる。
怒られるかも。
オサリアはそう思った。
だが。
「走ると危ないですよ」
司書は優しい声色で告げ、柔らかく微笑んだ。
「ご、ごめんなさい……」
司書は頷く。
怒鳴らず、叱らず、ただ優しく注意する。
どこにでもある光景。
なのに、男の子の顔が青ざめていた。
まるで何かを酷く恐れるみたいに。
オサリアは目を瞬かせる。
そこへ。
隣の棚からヨザキの静かな声がした。
「減点かな」
「え?」
ヨザキは手帳へ何かを書き込みながら答える。
「公共施設での規律違反は、生活評価に影響する場合がある」
「秩序を維持する仕組みとしては、合理的だ」
静かな声だった。
「……ただ」
そこで言葉を切る。
「人間そのものを支えるわけではない」
紫の瞳が、整然と並ぶ本棚を見つめていた。
一方、ペプシルは既に棚の前へ向かっていた。
迷いのない足取り。
「帝都都市計画史……旧水路台帳……初期街道図……」
次々と本を抜き取っていく。
オサリアは目を丸くする。
珍しい顔だった。
勇者の顔でもない。
戦う時の顔でもない。
ただ、本が好きな青年の顔だった。
ペプシルは抱えた本を机へ積み上げる。
どれも、題名で難しそうな本ばかりだった。
「面白い?」
ペプシルが開いた本を見れば、
そこには帝都建設初期の都市図が描かれていた。
現在の街並みとは少し違う。
「まあ」
青い瞳が本にある古い地図を追う。
「街がどう作られたか分かる」
指先が地図の線をなぞる。
「川があって、人が集まって、道ができる」
「街道が繋がれば物が流れる」
「物が流れれば街が栄える」
淡々とした声。
けれど、その声は少しだけ柔らかかった。
「今あるものは、急に出来たわけじゃない」
「昔があって、今がある」
「それが分かるのが好きだ」
オサリアは目を瞬かせる。
この瞬間だけは、ペプシルが年相応の青年に見えた。
ただ、知らない世界を知るのが好きな一人の人間に。
「……そっか」
オサリアは小さく笑う。
「好きだねえ、本」
ペプシルは視線を本へ落としたまま答える。
「……嫌いじゃない」
ヨザキが静かに目を細める。
「そういえば、レヴァリアを出た日の朝も
オサリアちゃんと二人で本を読んでたね」
「うん、なんにも分からなかったけど!」
「だろうな」
即答だった。
オサリアは少し不服そうだ。
ぱらり。
紙をめくる音だけが、静かな地誌館へ溶けていく。
遠くでは古時計が時を刻み、
窓から差し込む陽光が机の上を白く照らしていた。
すると、ペプシルは突然次々と本を抜きだす。
一冊。
さらにもう一冊。
地図を机へ並べる、何度も見比べる。
青い瞳だけが、静かにページを追っていく。
「……おかしい」
ぽつり。
ペプシルが小さく呟く。
ヨザキが顔を上げた。
「何がだい?」
ペプシルは答えず、机の上へ二枚の地図を並べた。
一枚は現在の帝都地図。
もう一枚は、帝都建設初期の都市図。
青い瞳が地図の上を静かに追う。
そして。
皇城の周辺で、その指が止まった。
「ここだ」
オサリアも身を乗り出す。
古い地図には、細い青線が描かれていた。
蜘蛛の巣みたいに街を巡り、
その一部は皇城の下へ伸びている。
「川?」
オサリアが首を傾げる。
ペプシルは首を横に振った。
「違う――旧水路だ」
短い言葉だった。
「帝都建設初期の排水路兼運河」
「物資輸送にも使われてたらしい」
ヨザキが現在の地図を見る。
そこには何もない。
白い街並みだけが描かれていた。
「埋め立てられた……?」
ヨザキが静かに呟く。
ペプシルは僅かに眉をひそめた。
「いや」
指先が古地図の線をなぞる。
「流れが不自然だ」
「水路は消せても、水の流れは消えない」
静かな声だった。
「埋めるなら別の排水路が必要になる」
青い瞳が細められる。
「なのに、記録がない」
「これだけの規模の改修なら、工事記録が残るはずだ」
ヨザキも地図へ目を落とす。
紫の瞳が僅かに細まった。
「本当だ」
現在の地図。
十年前の地図。
二十年前の地図。
どれを見ても、皇城周辺だけが不自然なくらい綺麗だった。
まるで最初から何も存在しなかったみたいに。
ペプシルはページをめくる。
ぱらり。
古びた紙の端。
小さな注釈が目に入った。
──第三次都市再編以降、旧水路は閉鎖。
──関連記録は皇帝府保管資料へ移管。
オサリアが目を瞬かせる。
「皇帝府……?」
ヨザキの紫の瞳が細められる。
「また、か」
低い声だった。
レヴァリアの禁書庫。
黒塗りの文献。
そして、プルーの閲覧記録。
点と点が、少しずつ繋がっていく。
ペプシルは黙ったまま別の資料を開く。
別年代の都市図。
さらに古いもの。
だが、結果は同じだった。
ある時代を境に、水路の記録だけが綺麗に消えている。
「皇帝府が管理している可能性が高い」
「……少なくとも、一般公開はされていない」
ヨザキは静かに目を伏せる。
「偶然とは思えないね」
ペプシルは地図を見つめたまま口を開く。
「……皇城地下に繋がってる可能性がある」
オサリアの背筋に冷たいものが走る。
「じゃあ……潜入路に、なる?」
ペプシルは少しだけ考え込む。
「分からない」
正直な返答だった。
「使えなくなってる可能性も高い」
「崩落してるかもしれないし、警備されてるかもしれない」
青い瞳が、消えた水路を見つめる。
「でも」
短く息を吐く。
「……完全に埋めるのは難しい」
「え?」
オサリアが首を傾げる。
「地下水の流れは簡単には消えない」
「無理に塞げば別の場所に歪みが出る」
指先が皇城の外周をなぞる。
「確か、文献ではこの辺りは白石層だったはずだ」
「排水を失った都市は長く持たない」
ヨザキが小さく目を見開く。
「つまり?」
「残ってる」
短い断言だった。
「形を変えてるだけだ」
ペプシルは地図から目を離さない。
「…よく知っているね」
ヨザキは珍しく感心したようだった。
「……授業で学んだ」
ヨザキが小さく肩を竦めた。
「ルミナスの教育は随分と幅広いみたいだ」
「そういう文化なもんでな」
ペプシルは小さくため息をつき、腕を組む。
「何もない場所の記録を、わざわざ隠したりしない」
ヨザキは小さく頷いた。
「同感だ」
「何かがあるから、隠した」
オサリアは机の上の地図を見つめる。
白い帝都。
白い皇城。
その地下に眠る、誰も知らない道。
その時だった。
「……その地図の閲覧許可は、どなたから?」
背後から、冷たい声が響いた。
三人が振り返る。
そこに立っていたのは、先程カウンターで座っていた
一人の女性だった。
白い制服の胸元には、六翼の星の徽章。
年の頃は二十代後半ほどだろうか。
柔らかな笑みを浮かべている。
だが。
灰色の瞳だけが、どこか冷たかった。
ペプシルは地図を閉じない。
青い瞳が真っ直ぐ司書を見る。
「一般閲覧棚に置いてあった」
短い返答だった。
司書は目を細める。
怒るでもなく、否定するでもなく。
ただ静かに地図へ視線を落とした。
「……確認いたします」
白い手袋の指先が、腰の端末へ触れる。
〈カチリ〉
乾いた音。
オサリアの肩がぴくりと揺れた。
門の兵士が端末へ触れた時と同じ音だった。
淡い光が端末に浮かぶ。
司書は変わらぬ声音で告げる。
「閲覧履歴を確認します」
その言葉で、淡い光が端末へ映し出される。
資料番号。
閲覧日時。
利用者番号。
氏名。
所属。
生活評価。
整然と並ぶ文字列。
オサリアは思わず目を丸くした。
「えっ……閲覧した人の情報まで見えるの?」
「公共資料の利用履歴は管理対象ですので」
当たり前のような返答だった。
その一言が、妙に冷たい。
ヨザキの紫の瞳が細められる。
ペプシルは何も言わない。
ただ、青い瞳だけが静かに端末を見つめていた。
司書の指が履歴を辿る。
「現時点で登録されている閲覧者は、貴方を除き三名です」
「閲覧権限はいずれも適正です」
淡々とした声。
続けて、過去の履歴へ指が滑る。
「前回閲覧者は――」
ぴたり、と動きが止まった。
司書の表情が僅かに揺れる。
灰色の瞳が、端末を見つめたまま細められた。
もう一度。
指先が画面を操作する。
二度。
三度。
沈黙が落ちた。
紙をめくる音だけが、やけに大きく聞こえる。
やがて司書は、小さく息を吐いた。
「……失礼、しました」
静かな声だった。
だが、その声音には僅かな戸惑いが混じっている。
ヨザキが口を開く。
「何か問題でも?」
司書は少しだけ迷うように視線を伏せる。
「前回閲覧者の利用者番号が失効しています」
オサリアは首を傾げた。
「失効?」
司書は頷く。
「死亡や転居後も記録は保存されます」
灰色の瞳が一瞬だけ周囲を確認する。
「…今回は、市民記録そのものが抹消されたと思われます」
空気が止まった。
オサリアは息を呑む。
市民記録の抹消。
それはつまり。
税も、仕事も、戸籍も名前も。
存在した記録そのものが消えるということだ。
……最初から、その人間がいなかったみたいに。
ペプシルは眉間に皺を寄せる。
「……最後の閲覧日時は?」
司書は端末へ視線を落とした。
「一年前です」
「閲覧者名は――」
司書の指が止まった。
〈閲覧権限不足〉
赤い文字が浮かぶ。
司書の顔から、初めて職員としての表情が消えた。
図書館の空気が、少しだけ冷えた気がした。
赤い文字が静かに明滅している。
あり得ない表示だったのだろう。
司書はしばらく画面を見つめた後、静かに頭を下げた。
「失礼いたしました」
だが、その声には微かな硬さが混じっている。
「当館職員の権限では閲覧できない記録です」
「図書館職員でもですか?」
「はい」
司書は短く頷いた。
「国家機密指定、あるいは記録凍結対象です」
国家機密。
その言葉に、オサリアの喉が小さく鳴った。
たかが地図。
なのに、まるで禁書を開いたような空気だった。
ペプシルは黙ったまま地図へ視線を落とす。
青い瞳が細くなる。
「……一年前」
ぽつり、と呟く。
「何か心当たりがあるの?」
オサリアが尋ねる。
ペプシルは僅かに首を振った。
だが、ヨザキだけは何かに気付いたように目を伏せた。
「一年前……」
ヨザキの近くにいる人にしか聞こえない、本当に小さな声。
「レーネ派の役人達が、本格的に姿を消し始めた時期だ」
「……プルーが国を掌握し始めた頃でもある」
空気が止まる。
オサリアは目を瞬かせた。
「消えた……?」
「表向きは異動、辞任、退職」
ヨザキは淡々と告げる。
「でも実際は違う」
紫の瞳が赤い警告表示を見つめる。
遠くでページをめくる音が響く。
ペプシルの指先が地図の消えた線へ触れた。
「ソイツも、これを見つけたのか」
低い声だった。
誰も答えない。
答えは、たぶん分かっていた。
その時だった。
「……お客様」
司書が静かに口を開く。
灰色の瞳が三人を見た。
今度は職員としてではなく。
一人の人間として。
「これは、個人的なお願いです」
小さな声だった。
周囲に聞かれないように。
本当に小さな声。
「その地図は、お忘れになってください」
オサリアの心臓が跳ねた。
「え……?」
司書は微笑む。
最初と同じ、柔らかな笑み。
けれど。
灰色の瞳だけが笑っていなかった。
「記録を消される方は」
ほんの一瞬。
声が震えた。
「決して少なくありませんので」
その言葉を最後に。
司書は何事もなかったように一礼し、カウンターへ戻っていった。
ぱらり。
誰かが本のページをめくる。
ペプシルは、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……だから、消したのか」
青い瞳は地図ではなく。
その向こうにある、見えない誰かを見ていた。
〈ゴーーーン……〉
低く、鐘が鳴った。




