帰るための旅
広間に静寂が落ちる。
蒼い灯りだけが、静かに揺れていた。
誰も口を開かない。
言葉にできない何かが、そこには確かにあった。
「……で?」
だからこそ、その空気を破ったのはイリアスだった。
頭を掻きながら、いつもの調子で口を開く。
「感動してるとこ悪ぃけどよ」
「結局、どうすんだ?」
現実的な問いだった。
その一言で、しんみりとしていた空気が緩んだ。
サクヤが苦笑する。
「そうやな……」
グランヴィアも腕を組む。
「結局、プルーに会うしかねぇんだろ?」
ヨザキが静かに頷いた。
「問題は方法だ」
紫の瞳が地図へ落ちる。
「アストラの警備網を抜ける方法」
「皇城へ近付く方法」
そこで一度言葉を切る。
「……夜隠の限界距離は、分かるかい?」
全員の視線が、オサリアへ向いた。
「うーん……」
少し考え込んだ。
「近いなら、数人くらいは隠せると思う」
「ガルディアの騎士団の施設くらいの広さなら……」
サクヤが目を丸くした。
「数人って……何人や?」
オサリアは指を折る。
「うちを入れて……六人くらい?」
「全員じゃねえか」
イリアスが即答した。
「でも、遠いと難しい」
琥珀色の瞳が少しだけ揺れる。
「長い時間使うと疲れちゃうし……」
「人が多いほど魔力も使うの」
長老が静かに頷いた。
「夜隠は万能ではない」
皺だらけの手が湯飲みを包む。
「人を隠すほど、己を削る術じゃ」
ペプシルの眉がぴくりと動いた。
「六人を隠し続けるなら、一度が限界じゃろうな」
オサリアは何も言わなかった。
つまり。
失敗できない。
誰もが同じ結論へ辿り着いた。
ヨザキが静かに口を開く。
「なら、まずは皇都へ近付く手段が必要だ」
地図へ視線を落とす。
「正面突破は論外」
「飛行船も監視されている」
「街道も検問が敷かれている可能性が高い」
イリアスが腕を組む。
「密輸屋でも使うか?」
グランヴィアが顔をしかめる。
「犯罪者みてぇだな」
ペプシルがぼそりと呟く。
「……もう、一回やってるけどな」
数秒の沈黙。
そして。
「そうだった……」
ヨザキはお腹を押さえた。
「忘れてたわ」
イリアスは頭を搔く。
「お前な……」
ペプシルの眉間に皺が寄る。
少しだけ笑いが生まれる。
重かった空気が、ほんの僅かに和らいだ。
その時だった。
長老が、ふと目を細める。
「……一つ、心当たりはある」
広間の空気が変わる。
ヨザキが顔を上げた。
「心当たり?」
長老は静かに頷く。
夜のように深い瞳が揺れる。
「新星アストラへ、定期的に出入りする者がおる」
その言葉に、オサリア達が目を見開いた。
「……え?」
長老は複雑な表情で告げる。
「カンナじゃ」
蒼の魔法灯が強く揺らいだ。
サクヤが目を瞬かせる。
「カンナが……?」
長老は静かに頷く。
「表向きは行商人」
「その身一つで、闇を隠し各地を渡り歩く者じゃ」
皺だらけの指が地図をなぞる。
ノクス。
レヴァリア。
アイゼル。
そして――アストラ。
「皇都への物流は厳しく管理されておる」
「じゃが人が生きる以上、物の流れを完全には止められぬ」
ヨザキの瞳が細められる。
「裏の流通網……」
長老は否定も肯定もしなかった。
ただ、静かに目を閉じる。
「正規の道だけが、道ではない」
イリアスが低く口笛を吹く。
「面白い」
グランヴィアが腕を組む。
「つまり、カンナに頼めば、アストラの近くまで潜り込めるかもしれねぇってことか?」
「可能性はある」
長老は静かに答えた。
「じゃが――」
その声が、少しだけ重くなる。
「カンナもまた、命を懸けることになる」
広間に沈黙が落ちた。
皇帝への接触。
失敗すれば国家反逆罪。
巻き込まれる者も、ただでは済まない。
オサリアが不安そうに目を伏せる。
「……迷惑、かけちゃうかな」
誰もすぐには答えられなかった。
その時だった。
――バンッ!!
勢いよく扉が開く。
夜風が吹き込み、蒼い灯りが大きく揺れた。
「大迷惑だ!!」
聞き覚えのある声だった。
全員が振り返る。
翡翠色の長髪。
片目の眼帯。
透き通るような水色の瞳。
黒い手袋。
カンナだった。
オサリアの肩がびくりと跳ねる。
「カ、カンナ!?」
カンナはずかずかと広間へ入り込む。
そして。
びしっ、と指を突きつけた。
「突然いなくなるわ!!」
「里中ひっくり返るわ!!」
「帰ってきたと思ったら国家反逆計画立ててるわ!!」
めいっぱい息を吸う。
「――お前はもう少し加減を覚えろーっ!!」
「ご、ごめんなさぁぁぁい!!」
響き渡る声に、オサリアが反射的に頭を下げた。
完全に怒られ慣れている。
サクヤが思わず吹き出す。
「体が覚えとんのや」
グランヴィアは苦笑した。
「本当に家族だなぁ……」
カンナは大きく息を吐く。
それから。
少しだけ真面目な顔になった。
水色の瞳が、一人一人を見渡す。
最後に、ペプシルを見る。
背中の大剣。
金色の髪。
そして。
オサリアの隣に立つ姿。
カンナは何も言わなかった。
ただ、その立ち位置だけで十分だった。
静かな沈黙。
やがて、カンナは目を細めた。
どこか安心したような声だった。
「良い仲間だ」
オサリアの目が丸くなる。
そして。
「うん」
少し照れくさそうに笑い、短く返す。
けれど、その一言だけで十分だった。
その言葉を聞いたカンナは、
覚悟を決めたように長老へ向き直る。
「長老様」
静かな声だった。
「話は外で聞いていました」
長老は驚かない。
最初から気付いていたのだろう。
カンナは真っ直ぐ前を見る。
「アストラ行きなら、私が案内いたします」
空気が張りつめる。
オサリアが目を見開いた。
「えっ……」
カンナは笑う。
昔から変わらない。
優しくて、少し無茶をする笑い方だった。
「だって、家族が行くんだろ?」
その言葉に。
オサリアの瞳が、大きく揺れた。
カンナは困ったように笑う。
「それに――」
水色の瞳が、静かに細められる。
「お前が望んだ世界、私は見てみたい」
広間が静まり返る。
辿り着けぬ神の地。
黒い結晶。
世界の終わり。
それらが本当なら。
この旅は、もう誰か一人の問題じゃない。
カンナは肩を竦め、少しだけ悪戯っぽく笑う。
「行商人はな」
「世界中を見て回る生き物なんだ」
オサリアは目を見開いたまま、何も言えなかった。
「カンナ……」
掠れた声だった。
カンナは苦笑する。
「そんな顔するな」
昔と変わらない声。
幼い頃。
転んで泣いた時も。
夜が怖くて眠れなかった時も。
いつだって、隣にあった声だった。
「お前が外へ行きたいって言った時」
カンナは静かに目を細める。
「本当は反対だった」
オサリアが息を呑む。
「危ないし」
「寂しかった」
「帰ってこなかったらどうしようって、ずっと思ってた」
水色の瞳が揺れる。
「でも」
小さく笑う。
「嬉しかったんだ」
カンナはオサリアの手を握る。
「だって、お前は」
「……外の世界まで好きになれる子に育ったんだから」
長老が静かに目を伏せる。
誰も言葉を挟まない。
カンナは少しだけ肩を竦めた。
「だから、今更止めない」
一歩、オサリアへ近付く。
そして、昔と同じように。
ぽん、と頭へ手を置いた。
「ちゃんと帰ってこい」
その一言には、測りきれない程の愛情が詰まっていた。
オサリアの瞳が滲む。
「……うん」
小さく。
本当に小さく頷く。
「うち、帰ってくる」
「――皆と!」
その返事に。
「待ってる」
カンナは安心したように笑った。
長老は静かに目を細める。
皺だらけの手が湯飲みを包んだ。
そして。
穏やかな声で告げる。
「では、決まりじゃな」
広間の空気が変わる。
旅人達の顔から、僅かな迷いが消える。
向かう先は決まった。
新星アストラ。
皇帝プルー。
そして――サンクチュアリ。
世界の中心で、誰も辿り着けなかった場所。
ヨザキが静かに地図を畳む。
「準備が必要だ」
紫の瞳が細められる。
「潜入経路の確認」
「皇都内部の情報収集」
「やることは山ほどある」
イリアスが肩を竦めた。
「忙しくなりそうだな」
グランヴィアが笑う。
「今更だろ」
サクヤが槍を担ぐ。
「ほな、世界救いに行こか」
軽い調子だった。
けれど、その言葉に嘘はなかった。
誰かに命じられた訳じゃない。
世界のためだけでもない。
それぞれ、守りたいものがあるから。
帰ってきたい場所があるから。
彼らはこの道を選んだ。
オサリアは皆を見回す。
家族。
仲間。
帰る場所。
守りたいものは、もう一つじゃなかった。
だから、大丈夫。
不思議と、そう思えた。
夜風が吹く。
窓の外では、星々が静かに巡っている。
終わらない夜。
けれど。
世界は、確かに動き始めていた。
翌日。
蒼い灯りが、静かに揺れていた。
変わらない夜空。
変わらない星々。
終わらない夜の街、ノクス。
けれど。
その夜は終わりを迎えようとしていた。
長老の家では、出発の準備が進められている。
荷物をまとめる者。
武器を確かめる者。
朝食を頬張る者。
そして――
「忘れ物ない?」
オサリアはどこか寂しそうに言う。
「ないで!」
サクヤが元気よく手を挙げる。
「飯も食った!」
グランヴィアが胸を張る。
「二回な」
ペプシルが即座に突っ込む。
「旅人に食料は大事だろ!」
「朝飯を三杯食う理由にはならねぇよ」
呆れたように息を吐くペプシル。
そのやり取りを見て、オサリアはくすりと笑った。
玄関の方からは、何かの物音が聞こえる。
振り返れば、黒い外套を羽織ったカンナが
荷車の最終確認をしていた。
荷車は、大きな荷物を入れても大人が数人潜めるほど
大きかった。
縄の緩み。
積み荷の固定。
車輪の軋み。
慣れた手つきだった。
何百回。
何千回と繰り返してきた仕事なのだろう。
イリアスが目を細める。
「随分でかい荷車だな」
「長旅だからな」
カンナは手綱を確かめながら答えた。
「表向きは薬草商だ」
「荷が少ない方が怪しまれる」
ヨザキが静かに頷く。
「なるほど。偽装としては自然だね」
「自然が一番だ」
カンナは苦笑する。
「人は不自然なものを疑う」
その言葉には、
長年各地を渡り歩いてきた者の重みがあった。
ペプシルは黙って荷車を見る。
頑丈な木材。
目立たない塗装。
どこにでもありそうな行商の荷車。
だが。
その荷台は今から、
国家反逆者と世界の命運を運ぶことになる。
なんとも妙な話だった。
「緊張してる?」
不意に声がした。
オサリアだった。
ペプシルは目を瞬かせる。
「……別に」
短く返す。
いつものように。
けれど。
オサリアは少しだけ笑った。
「そっか」
見抜かれていたようだ。
ペプシルは小さく眉を寄せる。
誤魔化そうと思ったが、結局何も言わなかった。
その代わり。
視線だけが、窓の外へ向く。
蒼い灯り。
夜空。
星々。
終わらない夜の街。
不思議な場所だった。
短い滞在だったはずなのに。
少しだけ――名残惜しいと思ってしまう。
「……行くのか」
気付けば、そんな言葉が漏れていた。
誰に向けた言葉だったのか、
自分でも分からない。
オサリアは静かに窓の外を見る。
「うん」
小さな返事だった。
「でも」
夜花をそっと胸元で抱く。
「帰ってくるよ」
その声に迷いはなかった。
故郷だから。
家族がいるから。
帰る場所だから。
ペプシルは目を細める。
帰る場所。
その言葉は、まだ少しだけ遠い。
けれど。
悪くないものなのかもしれない。
そんなふうに思えた。
その時だった。
「ペプシル」
イリアスが口を開いた。
荷物の中をがさごそと漁る。
「昨日の夜、ちょっと弄ってたやつがある」
ペプシルが眉をひそめた。
「……何だ」
イリアスは悪びれもせず答える。
「お前の聖剣」
懐から、小さな青い結晶を取り出した。
夜鉱石だった。
淡い蒼色の光が、静かに脈打っている。
「ノクスの夜鉱石、ヨザキと調べてたんだよ」
緑の瞳が、僅かに細められる。
職人の目だった。
「魔力の流れをぼかす性質がある」
ヨザキが告げた。
「……隠蔽特性か?」
「闇魔法ほどではない。けれど、似た性質を持ってる」
「だとよ」
そう言って、イリアスはペプシルの機械大剣へ
小さな黒い部品を取り付ける。
かちり。
乾いた音が響いた。
「追跡妨害機構の強化版だ」
ペプシルが目を瞬かせる。
「強化?」
「アストラの探知魔法を、今までより誤認させやすくなる」
イリアスは肩を竦めた。
「絶対じゃねぇ」
「でも、生き残る確率は上がる」
その言葉は、あまりにもイリアスらしかった。
強くするためじゃない。
勝つためでもない。
生き残るため。
ペプシルはしばらく無言だった。
やがて。
「……受け取っておく」
ぶっきらぼうに呟く。
イリアスは鼻で笑った。
「壊すなよ。修理面倒だからな」
職人らしい返事だった。
その時。
「あっ」
オサリアが小さく声を上げた。
見れば、昨日より萎れた夜花の花冠を両手に抱えている。
「……ここから先、魔力とかあまり使えないもんね」
終わらない夜に咲く花。
ノクスの夜鉱水に育まれた、小さな命。
自分たちがこれから向かうのは、それとは程遠い場所。
魔力は、一滴でも残しておいた方がいい。
オサリアは花冠を胸へ抱き寄せた。
少しだけ寂しそうに笑う。
その様子を、黙って見ていたイリアスが近付く。
「貸せ」
「え?」
オサリアが目を丸くする。
イリアスは夜花を受け取ると、
腰の工具袋から小さな金属細工を取り出した。
黒い金属の輪。
中心には、小さな夜鉱石が嵌め込まれている。
器用な手つきで花を固定すると。
夜鉱石が、淡く光った。
花弁の光が戻る。
まるで夜空の欠片みたいに。
オサリアが目を見開いた。
「わぁ……」
イリアスは素っ気なく答える。
「簡易保存器だ」
「魔力を少し循環させる」
「長くは保たねぇが、何もしないよりマシだ」
オサリアの顔が、ぱっと明るくなった。
「すごい!」
嬉しそうな声だった。
イリアスは少しだけ目を逸らす。
オサリアは胸元で夜花の冠を抱きしめた。
まるで、大切な宝物みたいに。
そして。
「はい!」
オサリアは花冠をペプシルへ差し出した。
夜鉱石の淡い蒼が、花弁の隙間で静かに揺れている。
まるで、小さな夜空みたいだった。
ペプシルは目を瞬かせる。
「……なんで俺に渡す」
ぶっきらぼうな声。
オサリアはきょとんと首を傾げた。
「だって、ペプシルのだよ?」
あまりにも当たり前のような声だった。
ペプシルは言葉を失う。
確かにこれは元々、自分の頭に乗せられていたものだ。
ただの花冠。
ほんの遊びの延長。
それだけのはずだった。
なのに、何故だろう。
今は妙に重く感じる。
ペプシルは黙って花冠を見る。
終わらない夜の街で、蒼く光る夜花。
ノクスの夜が、手の中に残っているみたいだった。
「……」
しばらく無言のまま。
やがて。
ペプシルは小さく息を吐いた。
何も言わず、花冠を受け取る。
割れ物を扱うように、丁寧に鞄にしまった。
オサリアの顔が、ぱっと明るくなる。
「えへへ」
嬉しそうな笑顔だった。
サクヤがにやにやと口元を緩める。
「おっ、持ってくんや?」
「うるせぇ」
即答だった。
グランヴィアが豪快に笑う。
「気に入ってんじゃねぇか!」
「違ぇよ」
反射みたいな否定だった。
けれど、誰も信じていなかった。
イリアスは肩を竦める。
「失くすなよ」
短い言葉。
それは花へ向けた言葉だったのか。
あるいは――別の何かだったのか。
ペプシルは一瞬だけ目を細める。
追跡を欺くための部品。
故郷を残すための花。
どちらも、同じ職人の手で作られたものだった。
「……分かってる」
小さく返す。
その返事は、妙に優しかった。
窓の外では、終わらない夜が静かに瞬いている。
別れは寂しい。
けれど、旅は終わらない。
だからきっと。
これは別れではなく――また帰るための旅なのだ。
「準備できたぜ!」
グランヴィアが豪快に荷袋を背負う。
「いつでも出られる!」
「元気やなぁ……」
サクヤが苦笑する。
イリアスも荷物を肩へ掛けた。
「行けるぜ」
ヨザキは手帳を閉じる。
「では、行こうか」
旅人達が立ち上がる。
長老は静かに目を細めた。
皺だらけの顔に浮かぶのは、穏やかな笑み。
「良い旅を」
短い言葉。
けれど。
そこには数え切れない祈りが込められていた。
オサリアは深く頭を下げる。
「行ってきます」
長老は頷く。
「うむ」
「――帰ってくるのじゃぞ」
その言葉に。
オサリアは少しだけ目を潤ませながら、力強く頷いた。
「うん!」
旅人達は歩き出す。
終わらない夜の街を背に。
新たな旅路へ。
その先に待つのは、絶望か。救いか。
あるいは、世界の終わりなのか。
まだ、誰も知らない。
――次なる目的地、新星アストラ。
星が、静かに回り始める。
彼らはまだ知らない。
新星アストラの皇城で。
既に別の誰かもまた、動き始めていたことを。
蒼い夜空の遥か彼方。
国を見下ろす城の上で。
一人の皇帝が、静かに目を開く。
「――来るか」
低い呟きだけが、
誰にも届かぬ空へ溶けた。




