夜に隠されていたもの
夜花の庭園を後にした頃には、
空の星々が少しだけ位置を変えていた。
ノクスの時間は分かりにくい。
けれど確かに、一日は流れている。
「いっぱい歩いたなぁ……」
サクヤが大きく伸びをする。
「市場も庭園も、思った以上やったわ」
グランヴィアも満足そうに頷いた。
「飯もうまかったしな!」
「結局そこかよ」
ペプシルが呆れる。
「大事だろ飯は!」
即答だった。
笑い声が夜の街へ溶けていく。
その少し前を、オサリアが歩いていた。
足取りは軽い。
まるで、幼い頃へ戻ったみたいだった。
「楽しかった?」
ふいに、オサリアが振り返る。
琥珀色の瞳が、少しだけ不安そうに揺れていた。
ペプシルは目を瞬かせる。
「……何がだ」
「この街」
短い問いだった。
けれどその声の奥には、
言葉にしきれない願いが滲んでいた。
好きになってほしい。
怖い人、怖い場所じゃないと知ってほしい。
恐れないでほしい。
故郷を愛する娘の、小さな願い。
静かな夜風が吹く。
ペプシルは少しだけ目を細めた。
市場。
庭園。
笑う人々。
花冠。
そして――仲間達の笑顔。
思い返せば。
「……ああ」
悪くない一日だった。
「そっか!」
オサリアの顔が、星のようにぱっと明るくなる。
その笑顔を見て、ペプシルは小さく目を細めた。
長老の家へ戻った頃には、星々はさらに巡っていた。
時間の概念が曖昧なノクスであっても、
街の灯りや人々の様子が、一日の終わりを告げている。
食卓には、再び温かな料理が並ぶ。
賑やかな夕食。
各々の食事が一段落した頃。
長老が静かに湯飲みを置いた。
ことり。
小さな音が広間へ響く。
「さて」
穏やかな声だった。
けれど。
その一言で、空気が少しだけ変わる。
サクヤが姿勢を正す。
グランヴィアも笑みを収めた。
ヨザキは静かに目を上げる。
ペプシルは黙って長老を見る。
楽しい時間は終わりだ。
旅人達は、本来の目的を忘れてはいない。
黒い結晶。
サンクチュアリ。
そして――世界の異変。
長老は静かに目を細めた。
「休息は十分かの」
誰も答えない。
答えは、皆同じだった。
長老はゆっくり頷く。
「では――話そう」
老人の瞳から、穏やかな色が消える。
「黒い結晶について」
静かな声だった。
けれど、その一言だけで空気が張り詰める。
蒼い灯りが揺れる。
誰も言葉を発さない。
長老は皺だらけの手で湯飲みを包み込み、
ゆっくりと目を伏せた。
「お主らも見たじゃろう」
老人の視線が、一人一人を見渡す。
「各地に現れ始めた、黒き結晶を」
ヨザキが静かに頷く。
「レヴァリアでも、ラグナでも確認されています」
「うむ」
長老は頷いた。
「ノクスには結晶は現れておらぬ」
「少なくとも、今はな」
その言葉に、一同の表情が僅かに強張る。
「何故ノクスにはないんでしょうか」
ヨザキは手帳を取り出す。
「この地は、古くから災厄に巻き込まれにくい土地じゃ」
「何故なのか。それは、儂にも断言はできぬ。」
「じゃが、古い記録には『夜は災いを遠ざける』とだけ残されておる」
イリアスが腕を組む。
「原因は分かってるのか?」
長老はゆっくりと首を横に振った。
「正確には分からぬ」
「じゃが……古い記録は残っておる」
老人の目が、遠い過去を見る。
「黒い結晶は、世界の均衡が乱れた時に現れる」
サクヤが眉を寄せた。
「均衡?」
「うむ」
長老は頷く。
「光と闇」
「生と死」
「天と地」
「本来、世界を支えるものが歪んだ時――黒き結晶は現れる」
静寂が落ちる。
ぱちり。
灯りが小さく揺れた。
ペプシルは眉をひそめる。
「つまり、世界が壊れ始めてる…ということですか」
長老は否定しなかった。
それが何よりの答えだった。
グランヴィアが拳を握る。
「じゃあ、放っといたらどうなるんだ?」
長い沈黙。
長老は静かに息を吐いた。
「……やがて世界は、大きく姿を変える」
その言葉に、ヨザキの瞳が僅かに細められる。
書庫で聞いた言葉。
天上の門が蒼く応える時――世界は大きく姿を変える。
偶然ではない。
繋がっている。
ヨザキは確信した。
「前にも、あったんですね」
静かな問いだった。
長老はゆっくり目を閉じる。
「うむ」
短い返事。
けれど、その重みは大きかった。
「今の世界が生まれる前にもな」
サクヤが首を傾げる。
「今の世界の前……?」
「……世界は、一度ではない」
老人は静かに語る。
「何度も終わり、何度も生まれ変わってきた」
一瞬。
誰もその意味を飲み込めなかった。
だって、あまりにも大きすぎる話だった。
「そんな話……聞いたことねぇぞ」
イリアスが低く呟く。
「知らされておらぬからじゃ」
長老は穏やかに答えた。
「失われた時代は、多くが忘れ去られた」
ヨザキは目を伏せる。
忘れ去られたのか。
それとも――忘れさせられたのか。
脳裏に、書庫の扉が浮かぶ。
まだ、証拠が足りない。
ヨザキは静かに思考を押し込めた。
その時だった。
「でもさ」
不意に、オサリアが首を傾げる。
皆の視線が集まった。
「世界って、何回もやり直せるものなの?」
オサリアは少し困ったように笑う。
純粋な疑問だった。
誰も答えられない。
長老だけが、ほんの少しだけ、悲しそうに目を細めた。
「……本当は」
「やり直さずに済むのが、一番良いのじゃよ」
その声は。
長い時を生きた老人の、本音のように聞こえた。
広間に静寂が落ちる。
蒼い灯りだけが、静かに揺れていた。
「……うちは」
小さい、祈りのような声。
「結晶とか、街の分断とか、隔離とか」
今まで歩いてきた旅路を思い出すように。
「理不尽に悲しむ人とか、そういうの全部無い」
「皆が笑える世界がいいなあ」
まるで、空が青いと言うみたいに。
誰かを傷付ける願いではなく。
誰かから奪う願いでもなく。
ただ、皆が幸せならいい。
それだけだった。
だからこそその願いは、あまりにも眩しかった。
長老は静かに目を閉じる。
まるで、遠い昔の誰かを思い出すように。
「……そうじゃな」
小さく、呟く。
「誰もがそう願っておった」
一拍置いて。
「……儂も、そう願っておった」
その声には、長い歴史の重みがあった。
「じゃが、人は違う」
穏やかな声だった。
責めるでもなく。
怒るでもなく。
ただ事実を語るように。
「守りたいものが違えば、正しさも違う」
「恐れれば争う」
「失えば憎む」
「愛するからこそ、人は傷付け合う」
広間に静寂が落ちた。
誰も反論できなかった。
旅をしてきた彼らは、知っている。
理不尽を。
悲しみを。
奪われる痛みを。
だからこそ――。
「でも」
オサリアは顔を上げた。
琥珀色の瞳が、真っ直ぐ長老を見る。
「そんな中でも、手を取り合えるようになれたらいいな」
その言葉に、ペプシルの胸が、僅かに揺れた。
「難しいことは分からないけど……」
オサリアは少しだけ照れくさそうに笑う。
「仲良くできる人が増えたら、嬉しいなって思うの」
静かな声だった。
けれど。
その言葉は、誰よりも強かった。
サクヤが小さく笑う。
「……オサリアらしいわ」
グランヴィアも豪快に笑った。
「ガッハッハ!単純でいいじゃねぇか!」
「単純だからこそ難しいんだよ」
珍しく、ヨザキが静かに口を開く。
皆の視線が向く。
ヨザキは蒼い灯りを見つめたまま続けた。
「人は違う」
「価値観も、生き方も、守りたいものも違う」
「だから争う」
「でも――」
そこで一度言葉を切る。
「違うまま、共に生きられたなら」
静かな声だった。
「それはきっと、奇跡なんだろうね」
広間に静寂が落ちる。
違う者同士が手を取り合う。
勇者。
闇の民。
鍛冶師。
教師。
獣人。
騎士。
生まれも、信じるものも、守りたいものも。
誰一人、同じではない。
それでも今、同じ食卓を囲んでいる。
その光景こそが、小さな奇跡だった。
長老は静かに目を細める。
そして、どこか安堵したように微笑んだ。
「……そうじゃな」
「それこそが、人が何度滅びても捨てきれなかった願いなのかもしれぬ」
長老の言葉が静かに広間へ落ちる。
「黒き結晶は、世界の歪みの兆しじゃ」
「じゃが――何が歪みを生んでいるのかまでは、
儂にも分からぬ」
イリアスが眉をひそめた。
「分からねぇのか?」
「うむ」
長老は頷く。
「ただ、一つだけ確かなことがある」
「各地に現れた結晶は、少しずつ天上を目指すように広がっておる」
老人の瞳が、真っ直ぐペプシルを見た。
「……結晶は、サンクチュアリを目指しておる」
広間の空気が張り詰める。
ペプシルの肩が僅かに強張った。
国の中心。
神の地。
誰も足を踏み入れたことのない禁域。
「……答えを求めるなら」
「お主らは、サンクチュアリへ向かうほかあるまい」
蒼い灯りが揺れた。
「……もし、この世界を守りたいと願うのならな」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
世界の命運。
そんなものを背負えるほど、自分達は大きくない。
けれど。
旅を始めた時から、もう引き返せない場所まで来ていた。
「……つってもなあ」
イリアスは頭を搔く。
「サンクチュアリまでどうやって行くんだよ」
「国のど真ん中に建ってんのは分かってっけど…」
グランヴィアは腕を組んだ。
「法律で、サンクチュアリ区域への
侵入禁止を定められてる」
ヨザキは目を細める。
「……そもそも、話の前提が違う」
「サンクチュアリは、行き方を考える以前に境界線を越えられない」
ヨザキの言葉に、長老は静かに頷いた。
「うむ」
「古来より、あの地へ人は立ち入れぬ」
「飛行船も届かず、魔法も届かず、船もまた辿り着けぬ」
「世界そのものを拒んでおるかのようにな」
サクヤが眉をひそめる。
「ほなどうしようもないんか…?」
重い沈黙が落ちた。
蒼い灯りだけが静かに揺れる。
長老は目を閉じる。
「……儂も、方法は知らぬ」
その言葉に、一同の表情が曇る。
「サンクチュアリは、人が辿り着くことを許されぬ地じゃ」
「歴代の王も」
「賢者も」
「学者も」
「誰一人として、その壁を越えられなかった」
世界の中心。
けれど、誰も辿り着けない場所。
その時だった。
「……一人だけ」
静かな声。
全員が振り返る。
ヨザキだった。
紫の瞳が、蒼い灯りを映している。
「可能性がある人物がいる」
広間の空気が張り詰めた。
「サンクチュアリへ行ける、という意味ではない」
「けれど、あの場所について僕たちより知っている可能性がある」
サクヤが息を呑む。
ペプシルは彼が口を開いた時点で、察しが付いたようだ。
「……誰なん?」
ヨザキは一瞬だけ言葉を迷う。
「禁書庫の閲覧制限」
「花や神に関する文献だけが黒塗りにされていたこと」
「そして、その最終閲覧記録」
静かに、その名を告げた。
「――プルー皇帝」
その言葉に、空気が凍った。
ペプシルの目が細められる。
長老もまた、僅かに目を見開く。
「彼はなにか企んでいるのかもしれない」
誰も口を開けない。
「確証はない」
「だけど、もしプルーが記録を読んでいるなら」
紫の瞳が静かに伏せられる。
「彼は、僕達より先に世界の真実へ辿り着いている」
長老が静かに目を閉じた。
「……あり得る話じゃ」
低い肯定だった。
ペプシルは黙って拳を握る。
プルー。
すべての始まりを知るかもしれない男。
そして。
世界の真実へ、最も近い男。
低い声が広間へ落ちた。
「……なら」
蒼い瞳が揺れる。
「会いに行くしかねぇな」
その言葉は。
皇帝への宣戦布告であり。
世界の真実へ向かう決意でもあった。
グランヴィアは目を見開く。
「会いに行くっつったってお前…!」
彼が背負う重みを、改めて感じるように。
「国中が、お前を狙ってんだぞ…!」
相手はプルー皇帝。
世界最大の軍事国家、その頂点。
そしてペプシルは、聖剣を持ち去った国家指名手配犯。
真正面から会いに行ける相手ではない。
イリアスが肩を竦める。
「そもそも皇帝に謁見なんざ、普通は一生できねぇだろ。
…城に近付く前にブタ箱行きだ」
「それで済んだらええくらいや」
サクヤも難しい顔をした。
重い空気が落ちる。
誰も言葉を続けられなかった。
サンクチュアリへ行けない。
プルーに会えない。
真実へ辿り着く道が、どこにも見えなかった。
その時だった。
「……もしかしたら」
鈴が転がるような、小さな声。
琥珀色の瞳が、どこか迷うように揺れている。
「うちの魔法なら……」
言葉が止まる。
長老の目が僅かに見開かれた。
「…オサリア」
その声には、珍しく驚きが混じっていた。
オサリアは少しだけ困ったように笑う。
「小さい頃に、教えてくれたでしょ」
「闇の魔法は、隠す力だって」
ペプシルが眉をひそめる。
「隠す……?」
オサリアは頷いた。
「姿だけじゃないよ」
「気配も、魔力も、認識も」
「闇の中に溶け込ませる魔法」
ヨザキの瞳が僅かに細められる。
聞いたことがある。
だがその記録は、禁書庫でも断片しか残っていない。
オサリアは続ける。
「上手くいくかは分からないけど……」
「ある程度近付ければ、人に見つからず移動できるかもしれない」
広間が静まり返る。
「それって……」
サクヤが息を呑む。
長老は静かに目を閉じた。
まるで、避けられぬ時が来たことを悟ったように。
そして。
ペプシルは僅かに目を見開いていた。
脳裏に蘇る。
あの、聖剣祭の日。
歓声。
押し寄せる視線。
逃げ場のない期待。
そして――
『じゃ、逃げちゃえば?』
耳元で囁かれた声。
冷たい闇。
体中の熱を奪われる感覚。
気付けば、自分はルミナスの外にいた。
あの日、自分の人生は変わった。
ペプシルは静かに息を呑む。
「あの時の……」
低く漏れた声。
蒼い瞳が、オサリアを見つめる。
その力だけが。
皇帝プルーへ辿り着く、唯一の可能性だった。
長老はゆっくりと目を開いた。
その眼差しには、祖父のような優しさと、
夜の街を見守ってきた者の厳しさが宿っていた。
「……確かに、その術なら可能かもしれぬ」
広間に緊張が走る。
希望だった。
初めて見えた道筋だった。
けれど、長老の表情は晴れない。
「じゃが――軽々しく使ってよい術ではない」
オサリアが僅かに目を伏せる。
知っている顔だった。
「……は」
ペプシルは思わず声を漏らす。
「闇王家の秘術『夜隠』」
「己の存在を闇へ沈める術じゃ」
「気配も、魔力も、人の認識さえ欺く」
イリアスは目を見開く。
「んな魔法が……」
長老は静かに頷いた。
「じゃが、闇は等価を求める」
「隠せば隠すほど、自らもまた世界から遠ざかる」
ペプシルの眉がぴくりと動く。
長老は続けた。
「長く使えば、己が何者かを見失う危険もある」
「故に、王家のみが継承してきた禁術なのじゃ」
ペプシルの胸に、嫌な感覚が落ちた。
「お前……」
ペプシルの声が僅かに掠れる。
オサリアがきょとんと目を瞬かせた。
「ん?」
蒼い灯りが揺れる。
ペプシルは言葉を探した。
責めたい訳じゃない。
怒っている訳でもない。
ただ。
胸の奥がざわついていた。
あの日、自分をルミナスから連れ出した闇。
人生を変えた力。
もし、それが。
彼女自身を削るものだったのなら。
「……あの時も」
低い声だった。
「使ったのか」
オサリアは少しだけ視線を泳がせた後、目を伏せる。
そして、小さく頷いた。
「うん」
あまりにも簡単な返事だった。
まるで、大したことではないと言うように。
ペプシルの眉が深く寄る。
「なんでだよ」
反射で漏れた声だった。
「なんでそこまでして――」
「だって」
オサリアは遮るように言葉を紡いだ。
「嫌そうだったから」
たった、それだけだった。
誰も言葉を発せない。
ただ一人、ペプシルだけが。
胸の奥を掴まれたような感覚に、黙って息を詰めていた。
あの日、オサリアがいなければ。
自分は今も、あの眩しすぎる檻の中にいたのだろうか。
勇者として。
国の武力として。
誰かの期待に押し潰されながら。
蒼い瞳が、僅かに伏せられる。
返す言葉が見つからなかった。
「……馬鹿かよ」
掠れた声。責める響きはなかった。
ただ。
どうしようもなく、困ったような声だった。
オサリアはきょとんと目を瞬かせる。
「え?」
「そんな、理由で。……自分を削る奴があるか」
低い声。
怒っているようにも聞こえる。
けれど、サクヤは気付いていた。
その声音が、少しだけ震えていたことに。
オサリアは少し考えるように首を傾げる。
そして。
ふわりと笑った。
「でも」
琥珀色の瞳が真っ直ぐ向けられる。
「あの時より、ずっと楽しそうだよ」
その言葉を聞いて。
――ドクン、と。
ペプシルの心臓が、大きく跳ねた。
あの日、逃げた勇者。
居場所を失った青年。
仲間と出会い。
旅をして。
笑って。
怒って。
今、ここにいる。
ペプシルは目を伏せる。
会話はそこで止まった。
言葉にしたら。
胸の奥の何かが、壊れてしまいそうだったからだ。




