記憶の書庫
一行は長老の家へと案内されていた。
木の香りがする広間。
中央には大きな卓が置かれ、その上には様々な料理が並んでいる。
月鱒のムニエルに、夜光茸のスープ。
見たこともない黒い穀物のパン。
星花の花弁を散らした彩り豊かなサラダ。
どれも見たことが無い料理や食材。
だが、蒼い灯りに照らされた食卓は不思議なほど温かかった。
「おお……すげぇな……!!!」
「好きなだけ食べるとよい」
グランヴィアが目を輝かせたのを見て、長老が穏やかに笑っている。
「旅人をもてなすのは、ノクスの習わしじゃ」
その言葉と同時に。
「いただきまーーす!!」
サクヤが真っ先に飛び出した。
「あっ、おい待て!」
グランヴィアも慌てて続く。
「うまっ!? なにこれ!?」
「魚やのに甘い!?」
「いや、こっちのスープやばいぞ!」
朝から騒がしい。
イリアスは呆れたように息を吐きながら席に着く。
「落ち着いて食えよ……」
そう苦笑しながらも、興味深そうに料理を手に取っていた。
ヨザキは静かにスープを口に運ぶ。
「……美味しいですね」
短い言葉だった。
だが、十分な賛辞だった。
オサリアは嬉しそうに笑う。
「でしょ?」
どこか誇らしげだった。
故郷の料理なのだろう。
ペプシルの方を見れば、昨夜より少しだけ顔色がいい。
無言のままスープを口へ運ぶ。
一口。
そして。
僅かに目を見開いた。
「……うまい」
ぽつりと漏れた本音。
オサリアの顔がぱっと明るくなる。
「ほんと!?」
「ああ」
オサリアは嬉しそうに笑った。
まるで、自分のことのように。
ペプシルは小さく目を逸らす。
「……お前が作った訳じゃねぇだろ」
ぶっきらぼうな声だった。
けれど、昨日までの棘は、少しだけ柔らかい。
オサリアはにこにこと笑っていた。
「でも、故郷の料理だもん」
その言葉に、ペプシルは何も返さなかった。
ただ、もう一口スープを飲む。
温かかった。
胃の奥へ落ちる熱が、不思議と心まで温める。
長老は静かに席へ着く。
老人の周囲だけ、どこか時間の流れが穏やかだった。
「さて」
白い髭を撫でながら、一行を見渡す。
「今日はどうするかの」
サクヤが魚を頬張りながら首を傾げる。
「どうするって?」
「旅人は急ぎがちじゃ」
長老は穏やかに笑う。
「じゃが、時に休息は必要」
蒼い灯りが静かに揺れる。
「ノクスは逃げぬ」
「今日一日は、好きに過ごすとよい」
その言葉に、一同は顔を見合わせた。
休む。
たったそれだけのことが、今の彼らには妙に新鮮だった。
グランヴィアが腕を組む。
「言われてみりゃ、まともにゆっくり休んでねぇな」
「ラグナ出てからずっと移動やったしなぁ」
サクヤも頷く。
イリアスはパンを齧りながら肩を竦めた。
「俺は工房があれば休めるけどな」
「鍛冶屋中毒やん」
「職人と言え」
ヨザキは静かにスープを置く。
その紫の瞳が、一瞬だけ長老へ向いた。
昨夜の話が脳裏に過ぎる。
頭の中には、まだ整理しきれない情報が残っていた。
けれど。
「久々のおさんぽだね!」
「お前はいつも勝手にどっか行って散歩してんだろ」
「おさんぽじゃない!調査!」
「どうだか」
はしゃいでいる少女を見て。
今、ここで語るべきではないと、そんな気がした。
「……休息もまた、旅の一部ですね」
ヨザキは目を伏せる。
長老は満足そうに頷いた。
「うむ」
そして、オサリアがぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、案内する!」
勢いよく立ち上がる。
「みんなにノクス見てほしい!」
その笑顔は、昨日よりもずっと無邪気だった。
旅人の少女ではなく。
故郷へ帰ってきた娘の顔だった。
「ええやん! 行こ行こ!」
「市場とかあるのか!?」
「あるよ! 夜花の庭園も綺麗なんだよ!」
サクヤとグランヴィアは楽しそうだ。
「庭園か」
ヨザキが小さく呟く。
「資料館みたいな場所は?」
「あるよ!」
「行こうか」
即答だった。
「切り替え早っ!」
サクヤが突っ込む。
笑い声が広間に広がる。
平和な朝だった。
食事を終え、一行はオサリアの案内でノクスの街を歩いていた。
蒼い魔法灯と、時々道端に現れる夜花。
夜空の下を流れる透明な水路。
どこを見ても、外の世界とは違う景色だった。
「ほんまに不思議な街やなぁ……」
サクヤが感嘆の息を漏らす。
見上げれば、変わらない満天の星。
見下ろせば、青く光る草花。
まるで夜空の中を歩いているみたいだった。
「ここは夜花通りだよ!」
オサリアが楽しそうに先を歩く。
昨日まで旅人として隣を歩いていた少女は、今や立派な案内人だった。
「この辺はね、お祭りの日になるとすっごく綺麗なんだよ!」
「祭りかぁ」
グランヴィアが周囲を見回す。
「見てみてぇな」
「うん! 星迎え祭っていうの!」
オサリアが笑う。
「みんなで、お星さまにありがとうってする日なの」
「へぇー。なんやノクスらしい祭りやな」
サクヤが目を丸くする。
その時。
ふと、一人分の足音が止まる。
見れば後ろで、道端に置かれた一つの街灯にイリアスが釘付けになっている。
黒い金属で作られたそれは、内部で青白い光を灯していた。
「……これ」
イリアスが目を細める。
「魔導具か?」
「うん!」
オサリアが頷く。
「ノクスでしか取れない、夜鉱石を使ってるんだよ」
イリアスの目が輝いた。
職人の目だった。
「分解してぇ……」
「やめろ」
ペプシルが即答する。
「街の設備壊すな」
「んな事しねえよ!」
そう言いつつも、イリアスは心底残念そうな顔をした。
サクヤが呆れる。
「ほんまに鍛冶屋やなぁ……」
そのやり取りに、小さな笑いが零れた。
ペプシルは少し後ろを歩き、賑やかな仲間達の背中を見る。
サクヤが尻尾を振りながら騒いで。
グランヴィアが草むらから出てきた蝶に驚いて。
イリアスが色んなもんに目を輝かせて。
ヨザキが静かに周りを観察して。
オサリアが、それを見て笑う。
いつもの光景だった。
なのに、何故だろう。
昨夜より、少しだけ近く感じた。
ペプシルは目を細める。
『帰る場所って、一つじゃないと思うんだ』
昨夜の言葉が、ふと蘇る。
「……」
まだよく分かっていない。
だが、悪くない。
そんな風に思った。
しばらくすれば、ヨザキが突然足を止めた。
紫の瞳が、街の奥のある一点を見つめている。
石造りの大きな建物。
入口の上には、星の紋章が刻まれていた。
「……あれは?」
オサリアが振り返る。
「あっ、星見の書庫だよ!」
「書庫?」
ヨザキの目が僅かに細められる。
「昔の記録とかがいっぱい置いてあるの」
その瞬間、ヨザキと長老の視線がほんの一瞬だけ交わった。
誰にも気付かれないほど短く。
長老は静かに目を閉じた。
「……行ってみたい」
ヨザキが静かに呟いた。
「ヨザキはああいう、情報が詰まった場所が好きだな」
グランヴィアは星見の書庫を見ながら呟いた。
ヨザキは小さく肩を竦める。
「知識は裏切らないからね」
「人は裏切るみたいな言い方やな」
サクヤが苦笑する。
ヨザキは少しだけ考えて。
「……まあ、時々ね」
穏やかな声だった。
けれど、その言葉には妙な重みがあった。
サクヤは一瞬だけ口を閉ざす。
そして。
「まあ、オレらは裏切らへんけどな」
軽い調子で笑った。
ヨザキは目を瞬かせる。
何も言わない。
ただ、小さく目を細めた。
「入ろう!」
オサリアが書庫の入口を指差す。
黒い石造りの大扉。
星の紋章が淡く蒼く光っている。
「字読むの苦手だな」
グランヴィアが呟く。
「オレは絵本ならいけるで」
「胸張ることか?」
サクヤの言葉にイリアスが呆れた。
オサリアはくすくすと笑う。
「大丈夫だよ!難しい本ばっかりじゃないから」
そう言って、大扉へ手を添える。
すると、星の紋章が淡く輝いた。
ごぅ……と低い音を立てて、重い扉がゆっくりと開いていく。
その先に広がっていたのは――無数の本棚。
天井まで届く黒い書架。
青白い魔法灯。
宙を漂う小さな光の粒。
流れ出る冷気。
そして、積み重ねられた、何百年もの記録。
ヨザキの紫の瞳が、僅かに見開かれる。
珍しく、その表情には少年のような好奇心が浮かんでいた。
「……これは」
小さく息を呑む。
長老は静かに笑う。
「ノクスの記憶じゃよ」
「死者の記録も、生者の記録も、歴史も」
「忘れぬために、ここへ残す」
夜の街は、星だけでなく。
記憶もまた、失わぬ街だった。
静寂の中を、一行はゆっくり歩く。
本棚は迷路のように連なっていた。
革張りの古い書物や、黒い石板に星図。
見たこともない文字で書かれた巻物。
どれも長い年月を経てきたものばかりだった。
「すっげぇ……」
グランヴィアが思わず見上げる。
「街一つ分くらい本ありそうだな」
「実際、それくらいあるかも」
オサリアが笑う。
「ノクスはね、人が亡くなると記録が残るの」
サクヤが目を丸くした。
「記録?」
「うん。どんな人だったとか、好きだったものとか」
オサリアは近くの棚を撫でる。
「忘れないために」
その言葉に、ペプシルは小さく目を細めた。
忘れないため。
それは、どこかノクスらしい考え方だった。
死者は星になる。
だから、消えない。
記憶もまた、夜空に残り続ける。
ヨザキは静かに本棚を眺める。
その指が、一冊の古い本で止まった。
黒い表紙に、星の紋章。
題名には古代文字が刻まれている。
「……サンクチュアリ建国史」
小さく呟く。
長老の目が、僅かに細められた。
「古い本じゃ」
「外の者には少々難しいかもしれぬな」
ヨザキは本を開く。
古い羊皮紙の匂いがした。
頁をめくる。
六つの街。
その中央で、空高く聳え立つ塔。
天の都、サンクチュアリ。
『光より生まれし民は、穢れを遠ざける』
その一文で、ヨザキの指が止まる。
さらに頁をめくる。
『境界を越えた混血は、災いを招く』
ヨザキの瞳が、僅かに細められる。
その隣で、オサリアは何も知らず、本棚を眺めていた。
楽しそうに、無邪気に。
長老は静かに目を伏せる。
何も言わない。……言えない。
ただ。
老人の皺だらけの手だけが、僅かに握られていた。
ヨザキは静かに頁を閉じる。
乾いた音が書庫へ小さく響いた。
「……」
紫の瞳が、何も知らず本棚を見上げる少女へ向く。
オサリアは一冊の絵本を手に取っていた。
「わぁ、これ懐かしい……」
嬉しそうな声。
故郷へ帰ってきた娘の顔だった。
ヨザキは目を伏せる。
証拠が足りない。
まだ、点と点に過ぎない。
サンクチュアリ。
混血。
光と闇。
そして――治癒魔法。
偶然で片付けるには、あまりにも出来過ぎている。
だが、推測だけでそれを語ることは重すぎた。
「ヨザキさん?」
不意に声を掛けられる。
顔を上げると、オサリアが不思議そうに首を傾げていた。
「どうしたの?」
ヨザキは一瞬だけ目を細める。
そして。
「いや」
いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「少し、興味深い本を見つけただけだよ」
嘘ではない。
けれど、本当の全てでもなかった。
オサリアは安心したように笑う。
「そっか!」
その笑顔を見て、ヨザキは静かに本を棚へ戻した。
その時。
書庫の奥。
立入禁止の札が掛けられた区画が、ふと目に入る。
同じく固く閉ざされた黒い扉に、星の紋章。
ひとつ違うのは、扉には古い文字が刻まれていること。
『天上記録庫』
ヨザキの瞳が、僅かに細められる。
長老は静かに目を伏せた。
「そこは、閉ざされた書庫じゃ」
穏やかな声だった。
けれどどこか、触れてはならないものを前にした声にも聴こえた。
「閉ざされた?」
「うむ」
サクヤが首を傾げる。
「ノクスの中でも、特に古い記録を保管しておる場所。そう言い伝えられておる」
白い髭が揺れる。
「世界が今とは違う形をしておった頃の記録」
「そして、失われた時代の記録じゃな」
「失われた時代……?」
グランヴィアが小さく呟く。
ヨザキの視線は扉から離れない。
黒い石の扉は、まるで誰かを待ち続けているような、
静かな存在感があった。
「入れないんですか?」
ヨザキが尋ねる。
長老は少しだけ寂しそうに笑った。
「入れぬ」
「鍵が失われておる」
「数百年……いや、もっと前かもしれぬな」
イリアスが眉を上げる。
「そんな昔から閉じたままなのか?」
「うむ。…わしも入れん。じゃから、中に何があるのかは言い伝え以上のものは誰にも分からぬ。」
「最後に開いた者が誰だったのかもな」
静寂が落ちる。
宙を漂う光だけが、ゆっくりと揺れていた。
その時だった。
「わっ」
小さな声が響く。
皆の視線が向く。
本を抱えたオサリアが、足元の段差につまずいていた。
「っとと……」
倒れそうになった身体を支えるように、咄嗟に手を伸ばす。
その手が、黒い扉へ触れた。
――かちり。
小さな音だった。
まるで、長い眠りの中で何かが軋んだような。
次の瞬間、扉に刻まれた星の紋章が。
淡く、蒼く輝いた。
ヨザキの瞳が見開かれる。
ペプシルが目を細める。
サクヤが呆然と口を開けた。
長老だけが。
信じられないものを見るように目を見開いていた。
「……そんな」
震える声だった。
オサリアだけが、きょとんとしている。
「あれ?」
自分の手を見る。
そして、扉を見る。
何も分かっていない顔だった。
蒼い光は数秒だけ揺らぎ――何事もなかったように消えた。
再び、静寂。
動かない扉。
何も変わらない書庫。
けれど。
確実に、何かが変わってしまったものがあった。
ヨザキは静かに目を細める。
その隣で、長老は皺だらけの手を強く握り締めていた。
まるで。
ずっと恐れていた未来が、ついに動き始めたかのように。
オサリアは困ったように瞬きをする。
「え、えっと……ごめんなさい?」
何か悪いことをしたと思ったのだろう。
しゅんと肩を落としている。
その姿を見て、長老ははっと我に返った。
「……いや」
老人は小さく首を振る。
「お前が謝ることではない」
皺だらけの手をゆっくり開く。
まるで、自分を落ち着かせるように。
ペプシルは黙って扉を見つめていた。
ほんの数秒の、蒼い光。
鍵が開いた様子はない。だが、なにかに反応していた。
「長老」
静かに口を開いたのはヨザキだった。
穏やかな声音。
だが、その瞳は鋭い。
「何か、ご存知なのでは?」
書庫の空気が少しだけ重くなる。
長老は目を閉じた。
長い沈黙。
宙を漂う光だけが、静かに揺れている。
やがて老人は、小さく息を吐いた。
誰に語るでもない。
まるで、自分自身へ言い聞かせるような声だった。
「天上の門が蒼く応える時――」
ほんの僅かな逡巡。
「世界は大きく姿を変える、と」
それだけだった。
ヨザキの目が細められる。
「それだけ、ですか」
「それだけじゃ」
即答だった。
だが、その声は少しだけ硬かった。
ヨザキはそれ以上追及しなかった。
「世界の姿が変わる……」
オサリアがゆっくりと扉を見上げる。
「昔のすごい魔導具だったのかな?」
無邪気な声だった。
長老は、痛ましいものを見るように目を細める。
「……そうかもしれぬな」
優しい嘘だった。
ペプシルはその横顔を見ていた。
老人は隠している。
ヨザキも気付いている。
だが、誰も口にしない。
それはきっと、知らない方が幸せなことなのだ。
少なくとも、今は。
「……行くぞ」
不意にペプシルが背を向けた。
皆が目を向ける。
「ずっとここにいても仕方ねぇだろ」
ぶっきらぼうな声だった。
けれどその言葉は、どこか空気を変えるためのものにも聞こえた。
サクヤがぱっと顔を上げる。
「せやな! 字ばっかで目が疲れるわ!」
「俺!庭園気になってるんだが!」
グランヴィアが腕を上げる。
「オレ市場! 市場行きたい!」
「工房行きてえ!!」
サクヤとイリアスも声をあげる。
「まとまりが無さすぎる……」
ヨザキの嘆きが書庫へ響いた。
その声に、オサリアが吹き出した。
ころころと、鈴のような笑い声。
長老はその笑顔を見つめる。
何よりも大切な、夜の街の宝物。
老人は誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「……どうか」
震える声だった。
「せめて、この子に幸福な時間を」
その願いは。
星々だけが聞いていた。




