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帰りたい人、帰りたい場所

夜は終わらない。


けれど、人は眠る。


宴が終わる頃には、広場に響いていた笑い声も少しずつ遠ざかっていた。

蒼い魔法灯だけが静かに街を照らしている。


「ふぁぁ……」


大きな欠伸をしたのはサクヤだった。


「なんや、急に眠なってきたわ……」

「食いすぎたんだろ」

イリアスが苦笑する。


「まあ、今日は色々ありすぎたからな」


勇者の逃亡。

騎士団との戦闘。

ノクスへの転移。

オサリアの秘密。


そして――帰郷。


一日で経験するには、あまりにも濃すぎる出来事だった。


長老は穏やかに目を細める。


「客間を用意しておる」

「好きに休むとよい」

「ノクスでは、夜は長い」


その言葉に、ペプシルは静かに空を見上げた。

 

変わらない星空。

追手の気配はない。

誰かに見張られている感覚もない。


ただ、静かな夜だけがある。


――眠れるだろうか。


そんなことを考えたのは、いつ以来だったか。



客間は驚くほど静かだった。


黒曜石の壁。

蒼く淡い魔法灯。

窓の外には、変わらない星空。


隣の寝台では、グランヴィアが豪快に寝息を立てている。

少し離れた場所では、ヨザキが本を抱えたまま眠っていた。

イリアスはペプシルの大剣をメンテナンスしているようだ。

 

「……」


ペプシルは目を閉じる。


眠れない。

 

身体は疲れている。

むしろ、今までで一番疲れているはずだった。


なのに、何故か眠れなかった。


今、恐れるべきものは無いはずなのに。


それなのに。


心だけが、まだ戦い続けていた。


静かすぎる。

安心していいと言われるほど、不安になる。


こんな夜を、自分は知らない。


「……寝れねぇ」


小さく呟く。


「散歩でもしてこいよ」


イリアスは視線を落としたまま言った。

手元では、分解された聖剣の外装部品が淡い灯りを反射している。

金属を磨く、小さな音。

しゃり、しゃり、と静かな夜に響いた。


「寝れねぇ時に無理して寝ても余計寝れねぇよ」


慣れた口調だった。

まるで、自分も経験があるみたいに。


「それに」


工具を置く。

緑の瞳が、ちらりと向けられる。


「ここはノクスだろ」


短い言葉だった。

だが、その意味は十分に伝わった。


「……」


ペプシルは少しだけ目を伏せる。

安心しろと言われて安心できるなら、苦労はしない。


けれど、その言葉は、不思議と嫌ではなかった。


「行ってくる」


短く告げる。


「ああ」


イリアスは再び作業へ戻った。


「迷子になるなよ、ペプシル」


からかうような声音。

ペプシルは扉を開きながら、小さく鼻を鳴らす。


「お前じゃあるまいし」

「失礼な。俺は帰巣本能あるぞ」

「鍛冶屋にしか帰らねぇだろ」

「偏見だなぁ」


小さなやり取り。


扉が閉まる。


静寂が戻った。


イリアスは手を止める。

誰も聞いていない部屋で、小さく息を吐いた。


「……少しは休めよ」


それは誰に向けた言葉だったのか。



夜の空気は、少し冷たかった。

客間を出ると、静かな街並みが広がっていた。


蒼い魔法灯。

黒曜石の家々。

星明かりに照らされた石畳。


昼も夜もない街。


けれど、人々は確かに眠っている。


窓から漏れる柔らかな灯り。

遠くから聞こえる穏やかな話し声。

どこかの家から漂う甘い香り。


静かで、平和だった。

驚くほどに。

 

ペプシルはゆっくり歩く。


誰も追ってこない。

誰も見張っていない。


それなのに、

何度も周囲を確認したり、後ろを振り返りそうになる。


癖だった。


聖剣祭の後から染み付いた、生き方そのものだった。


「……馬鹿らしい」


自嘲するように呟く。

ここはノクスだ。

誰も来ない。


そう何度言い聞かせても、身体だけが信じてくれなかった。


その時だった。


風に乗って、歌が聞こえた。


「――――♪」


小さな歌声。


言葉は知らない。

けれど、不思議と耳に残る旋律だった。


優しくて。


どこか懐かしい。

子守歌にも似ていた。


ペプシルは顔を上げる。


歌は森の方から聞こえていた。


街の外れ。

蒼く光る木々が並ぶ夜の森。


吸い寄せられるように足が向く。

 

草を踏む音だけが静かに響いた。


やがて、開けた場所へ出る。


そこには、小さな泉があった。


水面には満天の星が映っている。

まるで空が地上へ落ちてきたみたいだった。


その泉のほとりに。

一人の少女が佇んでいた。


長い茶色の髪が夜風に揺れる。

 

淡い光を受けた横顔は、どこか儚い。

旅の途中で見せる無邪気な笑顔とは違って見えた。


オサリアだった。


目を閉じて。


静かに歌っている。


知らない言葉。


けれど、悲しい歌ではないと、何故か分かった。


帰ってきた者へ捧げるような。

優しい歌だった。


ペプシルは声を掛けなかった。


ただ、少し離れた場所で立ち尽くす。

こんな顔もするのか。

そんなことを思った。


旅のオサリアじゃない。


ノクスのオサリアだった。


歌はやがて終わる。

 

夜風が吹き、静寂が戻る。


その時。


オサリアが、ゆっくりと振り返った。


琥珀の瞳が丸くなる。


「――あれ?」


ぱちぱちと瞬きをする。


「ペプシル?」


驚いた顔。

けれど、すぐに柔らかく笑った。


まるで、ここで会うことを少しも不思議に思っていないみたいに。


「眠れなかったの?」


気負いのない声だった。


まるで、

『今日の晩ご飯は何だったの?』

とでも聞くみたいに。


ペプシルは少し肩を竦める。


「……まあな」


短く返す。


オサリアは「そっかぁ」と小さく笑った。

驚いた様子もない。

呆れた様子もない。

ただ、当たり前みたいに受け入れていた。


夜風が吹く。

 

泉の水面が揺れ、

星空が波紋と共に揺らめいた。


「オサリアは」


ペプシルが口を開く。


「寝なくていいのか」


少女は目を瞬かせる。

そして、少しだけ困ったように笑った。


「寝るよ?」

「でもね」


満天の星空を、琥珀の瞳に映す。

 

「帰ってきた日は、こうしてお散歩する人が多いの」


静かな声だった。


「ちゃんと帰ってきましたって、お星さまに報告するんだよ」


ペプシルは目を細めた。


「星に?」

「うん」


オサリアは頷く。


「ノクスの人はね、死んだ人は星になるって信じてるの」


泉に映る星へ視線を落とす。


「だから嬉しいことがあった時も、悲しいことがあった時も」

「お話するの」


そう言って、オサリアは少しだけ笑った。

優しい笑みだった。


旅の途中で見せる無邪気な笑顔とは少し違う。


故郷の娘の顔だった。


ペプシルは黙って空を見上げる。


無数の星。


そのどれかに、

誰かが居るのだろうか。


そんなことを考えたこともなかった。


「……さっきの歌」


気付けば、口にしていた。


「なんの歌だ」


オサリアはぱちりと目を瞬かせる。

それから、少しだけ照れくさそうに笑った。


「あれはね」


夜風が長い髪を揺らす。


「『おかえり』の歌」


ペプシルの目が僅かに見開かれた。


おかえり。


ただ、それだけの言葉。


けれど、その響きは不思議なくらい胸の奥へ落ちた。


 

ペプシルは、何も言えなかった。


帰る場所。

そんなものが、自分にあっただろうか。

聖剣祭の前なら、あったのかもしれない。


けれど、今は。


思い浮かぶ場所が、どこにもない。


ルミナスには戻れない。


アストラへ行けば捕まる。


旅を続ける先にも、まだ帰る場所なんて無かった。


「……いい歌だな」


ようやく出た言葉は、それだけだった。

オサリアは嬉しそうに笑った。


「えへへ」


少し照れくさそうに頬を掻く。


「うち、この歌好きなんだ」


月明かりが二人を照らす。


「旅に出る前もね」


ぽつり、と。

独り言みたいな声だった。


「帰ってきたら、歌おうって決めてたの」


ペプシルは目を細める。

帰ってくるつもりだったのか。

当たり前みたいに、迷うことなく。


そのことが、少しだけ意外だった。


「……帰るつもりだったんだな」


オサリアはきょとんとした。

まるで、変なことを聞かれたみたいに。


「帰るよ?」


即答だった。

あまりにも自然で。

疑う余地なんて、一つも無いみたいに。


「だって、うちの家だもん」

 

家。


帰る場所。


それを、当たり前に持っている人間の言葉だった。


オサリアは空を見上げる。

星が、静かに瞬いている。


「旅は楽しい」


優しい声だった。


「知らない景色も、知らない人も、いっぱいある」

「みんなにも出会えた」

 

少し笑う。


「でもね」


琥珀の瞳が、故郷の星を映す。


「帰る場所があるから、安心して旅ができるんだよ」

 

その言葉は。


何故か剣よりも、ずっと深く胸に刺さった。


泉の水面が揺れる。

星が、砕けたみたいに瞬いた。


旅は続いている。

けれど、その先に帰る場所があるのかは分からない。


だから。

 

オサリアの言葉は、眩しかった。


「……羨ましいな」

 

気付けば、零れていた。


オサリアが目を丸くする。


「え?」


きょとんとした声。


ペプシルは自分でも驚いていた。


口にするつもりなんて無かった。

けれど、一度零れた言葉は戻らない。


「お前には……あるんだろ」


空を見上げたまま言う。


「帰る場所が」


オサリアは少しだけ目を瞬いた。


そして。


困ったように笑った。


「あるよ」


迷いのない声。


けれど。


次に続いた言葉は、ペプシルの予想とは少し違った。


「でもね」

 

オサリアは、泉に映る星を見つめる。


「帰る場所って、一つじゃないと思うんだ」

「……どういう意味だ?」

「うーん」


オサリアは少し考えて。

それから、いつものように笑った。


「うち、旅してて思ったの」

 

琥珀の瞳が、ゆっくりと三日月の形に変わる。

 

「人ってね」

「一緒に帰りたい人ができるんだよ」

 

琥珀の瞳に、澄んだ青色の瞳が映し出される。

 

静かな夜だった。


けれど。

その言葉だけが、不思議なくらいはっきり聞こえた。


ペプシルは息を止める。

それは恋の言葉じゃない。


もっと広く、もっと優しい言葉だった。


帰る場所。

それは街のことだと思っていた。

生まれ育った家。

故郷。

帰るべき土地。


けれど。


人もまた、帰る場所になる。


そんな考え方を、ペプシルは知らなかった。


木々が擦れる音がする。

泉の水面に映る星が揺れる。


その隣で、オサリアは変わらず笑っていた。


何か特別なことを言ったつもりなんて、

きっと無いのだろう。


この少女はいつだってそうだ。

当たり前みたいに手を差し伸べる。

当たり前みたいに隣へ座る。


ペプシルは空を見上げる。


無数の星。

静かな夜。

遠くで聞こえる水の音。


追手はいない。


恐れるものも、今は無い。


なのに。


胸の奥だけが、少し熱かった。


――もし。


もし、この旅が終わった時。


帰る場所を選べるのなら。


その時、自分は。




そこまで考えて。

ペプシルは小さく首を振った。


「……馬鹿らしい」


まだ早い。

 

まだ、何も終わっていない。

何も決まっていない。


それなのに、何故だろう。


この終わらない夜が。

少しだけ、終わってほしくないと。

こんな夜が続けばいいと、思ってしまった。

 

「……ペプシル?」


不思議そうな声。


ペプシルは目を逸らす。


「なんでもねぇ」

 

その言葉を聞き、オサリアはいつものように笑った。

その笑顔を見て、ペプシルは初めて思った。


――帰る場所ってのは。

案外、こういうものなのかもしれない、と。

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