仲間
翌朝。
朝日が窓から差し込んでいた。
柔らかな光が木の床を照らす、静かな朝だった。
グランヴィアはゆっくりと目を開く。
ぼんやりと天井を見上げる。
昨日のことを思い出す。
結晶。
花。
サンクチュアリ。
そして――ソラ。
夢じゃなかっただろうか。
そんな不安が、一瞬だけ胸を過った。
耳を澄ませば、台所から小さな物音が聞こえた。
包丁がまな板を叩く音。
鍋の蓋が触れ合う音。
誰かの笑い声。
「だから火は危ないって言ってるだろ」
ペプシルの呆れた声。
「大丈夫だってばー!」
オサリアの慌てた声。
「アッッツ!尻尾焼けてまうわアホ!!!」
サクヤのツッコミが飛ぶ。
賑やかな台所だった。
その時。
「兄さん! 起きてる?」
グランヴィアはその声を聴いて、ばっと身体を起こす。
扉の向こうの、少女の声。
「朝ご飯できるよー!」
グランヴィアの呼吸が止まる。
元気な声だった。
苦しそうな息遣いはない。
ただ。
ただ、朝自分を起こしに来る妹の声だった。
「分かった!」
グランヴィアは返事をした後、しばらく動けなかった。
やがて。
大きな手で顔を覆う。
「……反則だろ」
掠れた笑いが漏れた。
涙は、もう出なかった。
代わりに胸の奥が熱かった。
妹が。
元気に、生きている。
それだけで、世界はこんなにも違って見えた。
居間へ降りる。
そこには、賑やかな朝があった。
イリアスは慣れた手つきでコーヒーを淹れている。
ヨザキは既に起きていて、昨夜の資料を読み返していた。
サクヤはエプロン姿でフライパンを振っている。
オサリアは野菜を切ろうとしていたが、
上手く切れずにゴロンと転がる。
「危なっ!?」
「うわっ、指! 指!!」
「だから言っただろ」
ペプシルが深いため息を吐く。
そして。
台所の中央で、ソラが笑っていた。
普通に立って。
普通に料理をして、普通に笑っていた。
グランヴィアの足が止まる。
十三年間。
一度だって見られなかった光景だった。
ソラが気づく。
「兄さん! おはよう!」
その笑顔は、あまりにも眩しかった。
グランヴィアは言葉を失う。
何を言えばいいのか分からなかった。
だから。
ただ一言だけ。
「っ、おはよう……!」
それだけだった。
それだけしか言えなかった。
けれど。
ソラは嬉しそうに笑った。
それだけで十分だと言うように。
朝食は騒がしかった。
オサリアがパンを焦がし。
サクヤが笑い。
イリアスが呆れ。
ヨザキが静かに紅茶を飲み。
ペプシルが淡々と皿を並べる。
そして。
ソラが笑う。
グランヴィアは、その光景を黙って見ていた。
胸の奥が熱い。
苦しいほど、幸せだった。
その時だった。
〈ゴォン――〉
遠くで鐘の音が鳴った。
低く、重い音。
町全体に響く警鐘。
全員の動きが止まる。
サクヤが顔を上げた。
「……なんや」
鐘が鳴り響いた、静寂の後。
外からざわめきが聞こえはじめた。
人々の声。
足音。
慌ただしい空気。
「勘弁してくれよ……また結晶騒ぎか?」
イリアスはうんざりした表情で立ち上がる。
ペプシルは僅かに眉を寄せる。
理由は分からない。
けれど、本能が警鐘を鳴らしていた。
彼は静かに立ち上がる。
「見てくる」
「俺も」
短く言って、イリアスと共に扉へ向かった。
扉が開ければ、朝の光が差し込む。
その先に広がっていたのは――ざわめく街だった。
朝の空気は冷たい。
けれど。
街の空気は妙に熱を帯びていた。
広場の方へ、砂糖菓子に集るように人々がひしめき合っていた。
ざわめき。
興奮。
不安。
様々な感情が入り混じった声が風に乗る。
イリアスが眉をひそめた。
「なんだ、ありゃ」
いつもの結晶騒ぎとは違う。
恐怖だけじゃない。
熱狂が混じっていた。
兵士まで動いている。
ガルディアの衛兵が広場へ向かって駆けていく。
ペプシルの胸騒ぎが強くなる。
嫌な予感がした。
理由は分からない。
だが。
本能が告げていた。
――関わるな。
そう叫んでいた。
それでも、足は止まらなかった。
広場へ近づき、人混みを掻き分ける。
掻き分けた先で、巨大な掲示板が見えた。
新しい張り紙が何枚も貼られている。
その前に、人だかりができていた。
「本当なのか?」
「勇者様が行方不明?!」
ざわり。
ペプシルの心臓が嫌な音を立てた。
イリアスは目を細める。
掲示板。
そこに貼られていたのは、一枚の布告。
白地に黒い文字。
下部には、アストラ皇帝府の紋章が刻まれている。
『皇帝府通達』
その文字を視界に映した途端、ペプシルの表情が僅かに強張った。
人々は口々に噂している。
「勇者様の話だろ?」
「まだ見つかってねぇのか」
「皇帝陛下もお困りだろうなぁ」
善意だった。
誰も疑っていない。
誰も悪意を持っていない。
だからこそ、嫌だった。
イリアスが布告へ視線を走らせる。
そこには、こう書かれていた。
『聖剣祭において選定された勇者が、現在所在不明となっている』
『勇者は国家の重要保護対象であり、発見した者は速やかに最寄りの衛兵、または中央管理局へ報告されたし』
『情報提供者には相応の謝礼を支給する』
『勇者の安全確保のため、市民諸君の協力を求む』
――アストラ皇帝府
ペプシルの指先が、僅かに震えた。
保護対象。
その文字が、目に焼き付く。
知っている。
それが何を意味するのか。
自由を失い、行き先を決められる。
会う人間を決められる。
生き方を決められる。
勇者として生きることを、強制される。
あの日。
聖剣を抜いた瞬間から。
自分はもう、自分のものではなくなった。
だから、逃げた。
隣で、イリアスが息を呑む。
「……おい」
低い声だった。
「これ」
イリアスの視線が、布告の下へ落ちる。
そこには、一枚の似顔絵が添えられていた。
癖のある金髪。
鋭い目つきの青い瞳。
驚くほど精巧だった。
イリアスの顔から血の気が引く。
「お前……」
ペプシルは言葉が出ない。
その時だった。
「……ん?」
人混みの中の誰かが、ぽつりと呟く。
視線が、一つ。
ペプシルへ向く。
続いて、もう一つ。
掲示板。
ペプシル。
掲示板。
ペプシル。
見比べる目。
ざわめきが、少しだけ質を変えた。
嫌な汗が背中を伝う。
――まずい。
「あれ……?」
若い男が目を見開く。
その口が、ゆっくり開く。
「もしかして……」
世界が、息を止めた。
若い男の視線が、ペプシルの顔に釘付けになる。
「ゆ、勇者様……?」
震える声が漏れた。
その声と共に、空気が変わった。
周囲の人間が一斉に振り返る。
「え?」
「どこだ?」
「勇者様って……」
視線。
視線。
視線。
何十もの目が、ペプシルへ向けられる。
逃げ場がない。
ペプシルの喉が僅かに鳴った。
まずい。
本能が叫ぶ。
――逃げろ。
だが、足が動かなかった。
人々の顔には敵意がない。
純粋な驚き。
そして、善意。
「勇者様!」
中年の男が声を上げ、肩に掴みかかる。
「ご無事だったんですね!」
「よかった……!」
「皇帝府も心配してますよ!」
悪意はない。
本当に、ない。
だからこそ恐ろしかった。
ペプシルの顔から血の気が引く。
保護。
安全確保。
その言葉の意味を知らない者達が、
善意で自分を差し出そうとしている。
イリアスが低く舌打ちした。
「……チッ」
遅い。
もう遅い。
群衆の向こうで、騎士団の姿が見えた。
ざわめきを聞きつけたのだろう。
一人。
二人。
赤い鎧を身にまとった騎士がこちらへ向かってくる。
騎士の一人が目を見開いた。
そして叫ぶ。
「いたぞ!!」
空気が凍った。
「勇者だ!!」
その声は、広場全体へ響く。
ざわめきが爆発した。
「本物か!?」
「勇者様だ!!」
「捕まえろ、じゃない! 保護しろ!!」
「中央管理局へ連絡を!!」
人波が揺れる。
保護。
その言葉が、鎖のように聞こえた。
ペプシルの呼吸が止まる。
脳裏に蘇る。
民衆の期待に満ち溢れた視線。
政府の監視の目。
危険時には最前線に駆り出される駒。
「勇者様のためです」
笑顔で告げる人達。
勇者の自由など、最初から存在しない。
ペプシルの瞳が揺れる。
――嫌だ。
嫌だ。
そんな運命から逃げるために、ここまで――
その時だった。
ガシッ、と強く腕を掴まれる。
イリアスだった。
「何突っ立ってんだ、馬鹿!!」
怒鳴り声。
その一言で、止まっていた思考が動き出す。
イリアスの顔には焦りが浮かんでいた。
「逃げるぞ!!」
その瞬間。
ペプシルは、ようやく息を吸った。
そして――。
反射的に、地面を蹴った。
人混みが揺れる。
「待ってください、勇者様!」
「保護します!」
「皇帝府へ連絡を――」
声が飛び交う。
全部、善意だった。
全部、正義だった。
だからこそ、息が苦しかった。
ペプシルは歯を食いしばる。
違う。
俺は――。
人混みを掻き分ける。
肩がぶつかり、誰かの驚いた声が上がる。
「わっ!?」
「ま、待ってくれ!」
「勇者様!!」
その呼び方が嫌だった。
勇者。
勇者。
勇者。
まるで名前を奪う呪いみたいに。
隣を走るイリアスが舌打ちする。
「クソッ、もう広まってやがる!」
広場の入口。
赤鎧の騎士が二人、道を塞ぐ。
「勇者様!」
「ご安心ください! 我々が――」
最後まで聞かなかった。
イリアスが片腕を掴む。
「こっちだ!」
脇道へ飛び込む。
石畳を蹴り、裏路地へ。
洗濯物が揺れる細い路地を、全力で駆け抜ける。
背後から怒号が飛ぶ。
「追え!」
「決して危害を加えるな!」
「勇者様を保護しろ!!」
保護。
また、その言葉だった。
ペプシルの呼吸が乱れる。
胸が痛い。
苦しい。
怖い。
……鬱陶しい。
あの日と同じだ。
聖剣祭り。
数万人の歓声。
祝福の声。
期待の視線。
逃げ場なんて、どこにもなかった。
「……ッ」
足が鈍る。
その瞬間。
「止まるな!!」
イリアスの怒声が飛んだ。
強く背中を押される。
前へ。
無理矢理にでも。
その熱で、ようやく意識が戻った。
そうだ。
止まったら終わる。
捕まれば終わる。
自由も。
旅も。
仲間も。
全部、終わる。
ペプシルは奥歯を噛み締めた。
そして。
初めて、自分の意思で地面を蹴る。
逃げるためじゃない。
自分の人生を、奪われないために。
その時だった。
遠くから、別の鐘の音が響く。
〈ゴォン――〉
嫌な予感がした。
イリアスも顔を顰める。
広場の上空。
ガルディア中へ放送が響いていた。
『アストラ皇帝府より通達』
冷たい声だった。
感情のない、事務的な声。
『勇者発見の報告を確認』
『安全確保のため、当該区域を封鎖する』
ペプシルの顔から血の気が引く。
区域封鎖。
つまり。
――ガルディア全体が、ペプシルを捕らえる檻になった。
◇
鳴り響いた放送を聞いて、家に残っていた四人は荷物を持って慌てて外へ飛び出した。
通りには既に人が溢れている。
ざわめき。
兵士の足音。
結晶の時とは違う、慌ただしい空気。
明らかにただ事ではない。
「……まずいな」
ヨザキは苦虫を噛み潰したような表情で呟く。
その視線は、人混みの向こう――広場へ向けられていた。
サクヤが眉をひそめる。
「勇者発見て……どういうことや。居なくなっとったんか?」
オサリアは不安そうに、
ペプシルが置いていった大剣を握る。
「……っ」
その時だった。
「……ん?」
グランヴィアが足元に落ちていた紙を拾い上げる。
人混みに踏まれ、端の折れた布告。
そこには、見覚えのある金髪の青年の似顔絵が描かれていた。
グランヴィアの目が見開く。
『聖剣祭において選定された勇者が、現在所在不明となっている』
「……は?」
低い声が漏れた。
目が、文字を追う。
何度も。
何度も。
まるで、意味を理解することを拒むように。
『ペプシル・ツウィンズ』
世界が止まった。
「……ペプシル?」
掠れた声だった。
サクヤが目を見開く。
「は……?」
オサリアの顔から血の気が引く。
ヨザキだけが静かに目を閉じる。
隠していたわけじゃない。
聞かれなかった。
だから言わなかった。
ただ、それだけだった。
だが今、その事実は最悪の形で暴かれた。
グランヴィアの手が震える。
サクヤも口が開いたまま閉じない。
脳裏に浮かぶ。
洞窟で背中を預けた戦い。
不器用な優しさ。
ぶっきらぼうな言葉。
自身を闇から救い出した光。
全部。
全部、同じ男だった。
勇者。
世界を救う英雄。
そして。
自分達の仲間。
「……あいつが」
グランヴィアは呆然と呟く。
「勇者……やったんか」
サクヤも息を吸うので精一杯だ。
その瞬間。
遠くの通りから、誰かの叫び声が響いた。
「いたぞ!!」
全員が振り返る。
広場の向こう。
人波を掻き分けるように、二つの影がこちらへ駆けてきていた。
金髪の青年と。
茶髪の男。
ペプシルとイリアスだった。
そして、その後ろには――赤い鎧の騎士団が迫っていた。
赤い鎧が陽光を反射する。
十人。
いや、それ以上。
騎士達は広場を封鎖しながら、真っ直ぐこちらへ向かっていた。
「ペプシル!」
オサリアが声を上げる。
走ってくる二人もこちらに気付く。
イリアスの顔は険しかった。
「見りゃわかると思うが追われてる!」
怒鳴り声。
ペプシルは振り返る余裕すらない。
その顔は青ざめていた。
昨日までの不遜な態度が嘘みたいに。
怯えていた。
グランヴィアは目を見開く。
勇者。
世界を救う英雄。
そのはずの男が。
今、誰よりも追い詰められた顔をしていた。
「――ッ」
グランヴィアは思わず家の窓を見る。
窓の向こう。
ソラが、不安そうな顔でこちらを見ていた。
昨日までなら。
兄が戦う姿を見るたびに、別れを覚悟していた少女だった。
けれど今は違う。
生きたいと願った。
明日を見たいと願った。
だから――。
考えるより先に、グランヴィアの足が動いていた。
「こっちだ!!」
彼のよく通る大声が響く。
ペプシルが目を見開いた。
「グランヴィア……!?」
大きな手が、ペプシルの腕を掴む。
迷いはなかった。
昨日。
救われたのはソラだけじゃない。
自分もだ。
十三年間抱えていた絶望を、この男は終わらせてくれた。
なら。
今度は――。
「恩返しだ、馬鹿野郎」
短く吐き捨てる。
その言葉だけで十分だった。
サクヤがニヤリと笑う。
「ほな、逃走劇開始やな!」
「笑い事じゃねぇ!!」
イリアスが怒鳴る。
ヨザキは既に周囲を見回していた。
「裏路地を使う。西区へ抜けるぞ」
「分かった!」
オサリアはペプシルに大剣を渡す。
ペプシルは目を見開く。
受け取る。
何も言わない。
言えなかった。
その瞬間。
背後から怒声が響いた。
「勇者を保護せよ!!」
騎士達が駆け出す。
石畳を蹴る音が重なった。
グランヴィアは走りながら、振り返る。
窓辺の少女へ向かって。
腹の底から叫んだ。
「ソラ!!!!」
少女が目を見開く。
そして。
兄は笑った。
十三年ぶりに、心の底から。
「帰ったら――」
息を吸う。
未来へ向かって。
初めての約束を口にする。
「俺と海を見に行こう!!!!」
風が吹いた。
窓辺で、ソラの目から涙が零れ落ちる。
けれど、その顔は笑っていた。
「……うん!!」
その返事を背中で聞きながら。
六人は、街を駆け抜ける。
世界に追われながら。
それでも、自分たちの未来へ向かって。
石畳を蹴る音が、狭い路地に反響する。
息が上がる。
肺が焼ける。
それでも、誰も足を止めなかった。
「右だ!」
ヨザキの声が飛ぶ。
六人は細い路地へ飛び込む。
洗濯物が揺れ、猫が驚いて塀を飛び越えた。
背後では、まだ騎士達の怒声が響いている。
「西区を封鎖しろ!」「勇者を見失うな!」「危害は加えるな! 保護対象だ!」
保護。
その言葉が、嫌に耳に残る。
ペプシルは奥歯を噛み締めた。
まるで人間じゃない。
物みたいだ。
守られるべき道具。
使われるべき剣。
それが勇者だった。
「クソ……!」
イリアスが角から広場を覗く。
その表情が険しくなった。
「駄目だ。正門側も塞がれてる」
街の出口には騎士達が並んでいた。
通行人の荷物を確認し、一人一人顔を見ている。
逃げ道がない。
サクヤが舌打ちする。
「本気やんけ……」
ヨザキが静かに周囲を見渡す。
「予想以上に動きが早い」
「アストラの騎士だけじゃねぇ」
イリアスが低く言う。
「ガルディアんとこまで動いてやがる」
当然だった。
公式には勇者の保護。
誰も悪いことをしているつもりがない。
だから厄介だった。
正義は止まらない。
街を出る。ただそれだけが、こんなにも遠い。
「次の通りへ行くぞ」
ヨザキが言う。
六人は再び駆け出した。
東門。
駄目だった。
南門。
既に封鎖されていた。
運河沿い。
騎士が巡回している。
屋根伝い。
人数が多すぎて現実的ではない。
逃げ道が、一つずつ潰れていく。
時間だけが過ぎ、体力も削られていく。
そして。
とうとう、行き止まりの路地へ飛び込んだ時だった。
「見つけたぞ!!」
背後に赤い鎧が現れる。
目の前には騎士、背後には巨大な岩の壁。
完全に挟まれた。
逃げ場がない。
騎士達が剣を抜く。だが刃は下げられたままだ。
殺す気はないのだろう。その代わり、逃がす気もなかった。
隊長格らしき男が一歩前へ出る。
そして。
その目が、グランヴィアを捉えた。
「……グランヴィア・ゴート」
低い声だった。
見覚えのある顔。
同じ騎士団の男だった。
何度も任務を共にした先輩騎士。
男の顔に驚愕が走る。
「何をしている」
空気が張り詰めた。
視線が集まる。
騎士。
仲間。
同僚。
それら全てが、今は敵と味方の境界に立っていた。
男は厳しい顔で叫ぶ。
「グランヴィア!」
声が路地に響く。
「そいつを確保しろ!」
ペプシルの目が揺れた。
だが、グランヴィアは動かない。
「命令だ!」
「勇者様は国家の保護対象だ!」
「お前も騎士なら理解できるだろう!」
騎士。
その言葉に。
グランヴィアの脳裏へ、十三年間が蘇る。
金が必要だった。
薬が必要だった。
強さが必要だった。
妹を生かすために、何度も剣を振った。
誇りだってあった。
守るための剣だった。
だが、その守るべきものは、誰だった?
騎士団か。
国家か。
それとも――。
グランヴィアはゆっくりと前へ出る。
騎士達の表情が僅かに和らぐ。
彼は戻ってきた。
そう思ったのだろう。
だが。
次の瞬間。
グランヴィアは、ペプシルの前へ立った。
庇うように。
守るように。
そして、グランヴィアは静かに剣へ手をかけた。
真っ直ぐ、かつての同僚を見据える。
「……悪いな」
低い声だった。
けれど、そこに迷いはない。
「今の俺が守りてぇのは」
一度だけ、家の窓を見た。
遠く。
ソラのいる家の方角を。
そして笑う。
「国じゃねぇ」
昨日までの騎士の笑みではない。
一人の兄の笑みだった。
「仲間だ」
鋼が抜かれる音が路地へ響いた。
騎士達の顔色が変わる。
「……グランヴィア」
先輩騎士の声が低くなる。
失望。
怒り。
そして、僅かな悲しみ。
「本気か」
グランヴィアは答えない。
ただ剣を真っ直ぐ構えた。
その姿勢だけで十分だった。
答えは、もう出ている。
空気が張り詰める。
誰も動かない。
動けば始まる。
騎士同士の戦いが。
やがて。
先輩騎士は静かに目を閉じた。
「……そうか」
そして。
剣を抜いた。
「総員――確保しろ」
次の瞬間。
赤い鎧が一斉に動いた。
「来るで!!」
サクヤが槍を振るう。
金属音が弾けた。
隙を縫うようにグランヴィアが前へ出る。
剣と剣がぶつかり、火花が散った。
「グランヴィア!! 正気に戻れ!!」
「残念だが正気だ!!」
咆哮が響き、押し返す。
だが。
多い。
多すぎる。
横から回り込もうとした騎士をヨザキの魔法が牽制する。
イリアスの銃声が響く。
だが殺傷はできない。
相手も同じだった。
誰も殺す気はない。
だからこそ終わらない。
数だけがこちらを削っていく。
ペプシルは剣を握る。
震えていた。
勇者だからじゃない。
怖かった。
自分のせいで、仲間が追われている。
「くっ……!」
騎士が迫る。
ペプシルは反射的に大剣を振るう。
弾かれる。
衝撃で身体がよろめいた。
闘志の街で訓練された騎士だ。伊達ではない。
その時。
背後から別の声が響いた。
「グランヴィア・ゴートォォォッ!!!」
息が止まる。
路地の入口。
そこには、さらに増援の騎士達。
数十。
いや、それ以上。
先頭に立つ騎士が叫ぶ。
「お前はガルディア騎士団所属だ!!」
「命令を思い出せ!!」
「勇者を確保しろ!!」
グランヴィアの手が僅かに止まる。
騎士。
その肩書きは、確かに自分の誇りだった。
だが――
脳裏に浮かぶ。
病床のソラ。
昨日の笑顔。
『おはよう、兄さん!』
グランヴィアはゆっくりと息を吐いた。
そして。
剣を握り直し、笑った。
「俺はもう」
視線を仲間へ向ける。
ペプシル。
サクヤ。
ヨザキ。
イリアス。
オサリア。
そして。
遠くの家で自分を待つ妹。
「他に守りてぇもん、見つけちまった」
その瞬間。
〈ドゴォン!!〉
騎士の盾がぶつかる。
数の暴力だった。
グランヴィアが膝をつく。
サクヤが弾き飛ばされる。
イリアスの銃が叩き落とされる。
ヨザキが舌打ちした。
「……駄目だ」
低い声だった。
「包囲が完成している」
前には騎士。後ろは壁。
空を見上げればこちらに矢の雨を降らせようと待機する弓兵。
逃げ場がない。
ペプシルの顔から血の気が引く。
今度こそ終わったのか。
――いや。
聖剣を抜いた時から、もう既に――
その時だった。
「……ごめん」
ぎゅっ、とペプシルの袖が引かれる。
オサリアだった。
小さな手と、琥珀色の瞳が揺れていた。
「うち……使いたくなかった」
ヨザキの目が見開く。
「オサリアちゃん……君は」
少女は震えながら一歩前へ出た。
オサリアの足元から溢れ出した闇が、
石畳を這うように広がっていく。
冷たい。
ただ暗いだけではない。
まるで夜そのものが形を持ったような魔力。
空気が凍る。
騎士達の顔色が変わった。
「な……闇属性……!?」
騎士達にざわめきが広がる。
恐怖。
嫌悪。
警戒。
その視線を浴びたオサリアは、肩が小さく震えていた。
知っている。
ずっと知っていた。
この力が嫌われることを。
怖がられることを。
だから隠していた。
皆に嫌われたくなくて。
「オサリア……」
ペプシルが息を呑む。
少女は振り返らない。
振り返ったら、きっと使えなくなる気がした。
「……ごめんね」
震える声だった。
いつもの明るい声じゃない。
泣きそうな、小さな声。
「うち、嘘ついてた」
黒い魔法陣が幾重にも展開する。
ヨザキの目が見開かれる。
こんなもの、見たことがない。
理論だけが伝わる禁術。
空間転移。
それも、街の境目すら軽々と越える大規模術式。
「まさか……ノクスの……」
ヨザキの顔から血の気が引いた。
ノクス。
闇の民が暮らす、世界から隔離され、閉ざされた国。
オサリアは唇を噛む。ほのかに血の味がした。
「嫌われちゃうかもだけどさ……っ」
「何も出来ないで…みんなが、居なくなる方が嫌……!」
ぎゅっと胸元を握る。
涙が零れていた。
黒い魔力が空へ昇った途端、空間が歪み、景色が軋む。
騎士達が目を見開いた。
「っ、止めろ!!」
「術式を破壊しろ!!」
「撃て――!!」
弓兵が一斉に矢を放つ。
その瞬間。
「妹の命を救った奴を嫌うほど、俺は腐ってねぇよ!」
グランヴィアが前へ出た。
「……ドアホ。家族同然のヤツを見捨てるか」
サクヤが槍を振るう。
「お、本領発揮か?オサリア」
イリアスが銃を構える。
「……進む道は見つけれたかい」
ヨザキが結界を展開する。
そして。
ペプシルが、ようやくオサリアの前へ立った。
「最後まで任せる」
短い言葉だった。
オサリアの目が見開かれる。
勇者。
仲間。
大切な人達。
誰一人、闇を見る目をしていなかった。
ただ、仲間を見る目をしていた。
その瞬間。
張り詰めていたものが切れた。
オサリアは泣きながら笑った。
「――うん!」
明るい声とともに、黒が世界を呑み込む。
視界が塗り潰され、音が消え、重力が消える。
身体が落ちるような嫌な感覚。
深い、深い夜の底へ。
どこまでも。
――そして。
ふわり、と。
足裏に柔らかな感触が返った。
風が吹く。
冷たい。
けれど、どこか心地よい風だった。
ゆっくりと瞼を開く。
最初に見えたのは――世界を覆い尽くすような、星空だった。
昼のはずだった。
だが、空には無数の星が瞬いている。
空は深い紫に染まり、月が静かに浮かんでいる。
見たことのない植物が淡い青い光を放ち、遠くには黒曜石のような塔が幾つも聳え立っていた。
世界そのものが息を潜めているような静寂。
「……ここ、は……」
サクヤが呆然と呟く。
イリアスは銃を握ったまま周囲を見回す。
グランヴィアも言葉を失っていた。
ペプシルは、ただ空を見上げる。
昼が存在しない、夜だけの街。
恐怖され、国から隔離された忘却の地。
「……ノクス」
誰かが呟いたその名は、静かな夜へ溶けていく。
6/28、123pvありがとうございます。




