十三年の奇跡と軌跡
会議室を飛び出した瞬間、冷たい外気が頬を打った。
グランヴィアは先頭を走る。
石畳を蹴る足音が、やけに大きく響いた。
「グランヴィア、落ち着きや!」
後ろからサクヤの声が飛ぶ。
返事はない。
ただ、速い。
その背中が、何より焦りを物語っている。
オサリアは必死に足を動かしながら胸を押さえた。
嫌な想像ばかりが浮かぶ。
ソラちゃんにも、あの黒い結晶が。
頭の中に、医務室の光景が蘇る。
皮膚を突き破る黒い鉱石。
苦痛に歪む顔。
そして――笑っていた患者。
「っ……」
無意識に呼吸が震える。
その時。
隣を走っていたペプシルが、小さく声を落とした。
「考えすぎるな」
短い言葉だった。
「まだ何も決まっちゃいねぇ」
諦めの欠けらも無い、心強い声。
不器用なくせに、少しだけ優しい。
この人はいつだって、前を向いている。
オサリアは小さく息を吐いた。
「……うん」
本当は怖い。
でも怖いのは、自分だけじゃない。
前を走るグランヴィアも。
黙り込んだサクヤも。
険しい顔のイリアスも。
そして――。
オサリアはちらりとヨザキを見る。
彼は静かな表情のまま走っていた。
けれど、その紫の瞳だけが、どこか遠くを見ている。
何かを恐れているように。
やがて見慣れた家が視界へ入る。
グランヴィアの家だ。
「ソラ!!」
扉が開くより早く、グランヴィアの叫びが響いた。
それは騎士でも戦士でもない。
ただ一人の兄の声だった。
大きな音を立て、木扉が乱暴に跳ね上げられる。
一行が滑り込んだその家の中は、
ひどく、静まり返っていた。
「ソラ!!」
返事はない。
空気が凍る。
グランヴィアの表情から血の気が引いた。
「ソラ……ソラ…!! 返事しろ!!」
荒々しい足音を立て、寝室へ駆け込む。
一同も慌てて後を追った。
そして。
寝室の扉を開けた瞬間――
「……にい、さん?」
弱々しい声が聞こえた。
ベッドの上。
小柄な少女が、驚いたように目を瞬かせていた。
「……っ!」
グランヴィアの目が見開かれる。
次の瞬間にはベッドの傍へ駆け寄っていた。
「ソラ……!」
震える声。
大きな手が、壊れ物に触れるように妹の頬へ伸びる。
微かに上下する身体。
確かな体温。
生きている。
その事実に、グランヴィアは深く息を吐いた。
張り詰めていたものが、一気に抜け落ちる。
「よかった……」
掠れた声だった。
ソラはきょとんと首を傾げる。
「兄さん……どうしたの?」
「いや……何でもねぇ」
何でもないわけがなかった。
けれど、それ以上の言葉は出てこなかった。
隣でオサリアも胸を撫で下ろす。
よかった。
本当に。
だが。
「……顔色が悪いね」
ぽつりと、ヨザキが呟いた。
確かに。
ソラの顔色は、昨日以上に青白かった。
呼吸も少し浅い。
グランヴィアが眉を寄せる。
「発作は?」
ソラは困ったように笑った。
「最近、ちょっと増えちゃって……」
その言葉に、グランヴィアの表情が曇る。
「誰かの声が……はっきり、聞こえるの。今も……」
ソラはグランヴィアの服の裾をぎゅっと掴む。
「『怖い』って……」
ソラは不安そうに俯く。
「『花が咲けば、僕はいなくなるの?』って」
「ずっと、泣いてるの」
――花。
その単語が落ちた、次の瞬間だった。
〈ガタッ〉
激しい音が寝室に響く。
音のした方を見る。
ヨザキだった。
彼が立ち上がった拍子に、傍らの椅子が大きく揺れていた。
誰よりも、この場の誰よりも冷静だった男が。
初めて、目に見えて動揺していた。
「……ヨザキさん?」
ヨザキは何も答えない。
すう、と血の気が引き、青白くなった顔のまま、
彼はただ、取り憑かれたようにソラを見つめていた。
まるで。
聞いてはいけない言葉を聞いてしまったかのように。
「ヨザキ?」
イリアスが怪訝そうに眉を寄せる。
しばらくの沈黙の後。
ヨザキはゆっくりと目を閉じた。
「……いや」
短く、それだけを告げる。
いつもの声音。
けれど、明らかに何かを隠していた。
オサリアの胸がざわつく。
彼は何かを知っている。
けれど――今は聞ける空気じゃなかった。
「うっ……」
ソラはこめかみを突然抑える。
細い肩が苦しそうに上下していた。
グランヴィアが慌てて背中を支える。
「ソラ!」
「だ、大丈夫……いつものことだから……」
弱々しく笑うその姿に、グランヴィアの顔が歪む。
何年も。
何年も見てきた光景だった。
それでも、兄として慣れることなんてできなかった。
その時。
「……うち、診てもいい?」
オサリアが一歩前へ出る。
ペプシルは目を見開く。
「お前、だから――」
「今回は違う」
オサリアは強く、ペプシルの言葉を遮る。
いつもの柔らかな声じゃなかった。
その瞳には確かな意志が宿っていた。
「さっきの人は、何が起きるか分からなかった」
「でも、ソラちゃんは違う」
オサリアは真っ直ぐグランヴィアを見る。
「ソラちゃんの病気は、結晶じゃない」
「うちは、この子を助けたい」
真っ直ぐな言葉だった。
打算も、見返りもない。
ただ目の前の人を救いたいという、オサリアらしい願い。
ペプシルは言葉を失う。
反論しようとして――できなかった。
確かに、結晶化患者とは状況が違う。
だが。
それでも。
胸の奥に残る嫌な予感が消えない。
「……」
「……無茶だけはすんな」
ぶっきらぼうな声だった。
けれど、それは許可だった。
オサリアの表情が少しだけ和らぐ。
「うん」
短く頷く。
グランヴィアは目を見開いたまま、二人を見ていた。
「診るって……」
困惑した声。
オサリアは少しだけ首を傾げる。
「うち、治癒の魔法使えるんだ」
その言葉を聞いて、グランヴィアの瞳が揺れる。
希望と諦めが入り混じった、複雑な目だった。
ソラの病は、生まれつきのものだ。
医者も。
薬師も。
誰も治せなかった。
だからこそ、期待してはいけない。
期待して、裏切られるのが怖い。
それでも。
「……頼む」
絞り出すような声だった。
兄としての願い。
祈りにも似た言葉だった。
オサリアは静かに頷くと、ベッドの傍へ膝をつき、
そっと、ソラの手を握った。
ひどく冷たい手だった。
「……」
暖かな光が掌に灯る。
優しい光。
人を癒やすための、柔らかな魔力。
部屋が淡く照らされると、ソラが安心したように目を細めた。
そして――
「……?」
オサリアの指先が、僅かに震えた。
いつもと違う。
何かが、いる。
オサリアの脳内に、何かの記憶が流れ込んできた。
――暗闇。
どこまでも、どこまでも続く暗闇。
光がない。
音もない。
ただ、冷たい。
頭の奥で、ソラとは違う幼い声が聞こえた。
『ねえ』
『ぼく、怖いよ』
『花が咲いたら』
『ぼくは、いなくなるの?』
「――っ!」
オサリアが弾かれたように息を呑む。
掌の柔らかな治癒の光が、拒絶反応のように激しく揺らいだ。
「オサリア!?」
異変に気づいたペプシルの鋭い声が、遠くで聞こえる。
だが、応える唇が動かない。
苦しい。
怖い。
助けて。
嫌だ。
死にたくない。
胸を締め付けるような何かが、一気に流れ込んでくる。
知らない。
こんな感情、知らない。
これは自分のものじゃない。
理由も、名前も、顔すらも分からない。
ただ、どうしようもないほどの誰かの恐怖だけが、
濁流となってオサリアの精神を狂わせていく。
まるで。
光の届かない暗闇の底で、たった一人置き去りにされた子供の、泣き叫ぶ魂に直接触れてしまっているかのように。
それでも。
「大丈夫、だよ」
それがソラへ向けた言葉だったのか。
誰か知らない子供へ向けた言葉だったのか。
自分でも分からなかった。
暖かな光が強く輝く。
癒やしている感覚ではなかった。
壊れたものを直すのではなく。
外から吹き込む嵐を遮る壁を作っているような――。
その時。
オサリアはようやく気づく。
ああ。
これは病じゃない。
傷でもない。
誰かの痛みが。
誰かの悲しみが。
まるで洪水のように、ソラちゃんへ直接流れ込んでいる。
だから苦しんでいたんだ。
今自分は、治してるんじゃない。
守ってる。
その瞬間。
激しくざわめいていた部屋の魔力が、嘘のように静かになる。
遠くの暗闇で泣いていた幼い声が、少しだけ安堵したように小さく揺れた。
『……あったかい』
その声は、一体誰のものだったのか。
オサリアには、まだ分からなかった。
「……っ、はぁ……!」
光が収まると同時に、オサリアは深く息を吐いて肩を揺らす。
すかさずペプシルがその身体を支え、グランヴィアがベッドの妹を凝視した。
ソラの荒かった呼吸は完全に穏やかになり、その頬には、見たこともないような健康的な赤みが差している。
「ソ、ラ……?」
兄の掠れた声に、
少女は今まで見たことがないほど穏やかな顔で、微笑んだ。
ただ、その顔を見ただけで。
グランヴィアの目が、大きく見開かれる。
信じられない。
そんな顔だった。
寝室に、静寂が落ちた。
誰も動かない。
誰も、言葉を発せない。
ただ。
穏やかに呼吸をするソラだけが、そこにいた。
発作に苦しむ様子もない。
苦悶に歪んでいた眉間も。
怯えるように揺れていた瞳も。
今は嘘のように静かだった。
「……兄さん」
ソラが小さく微笑む。
「頭が……静か」
その言葉に。
グランヴィアの肩が、びくりと震えた。
「……静か?」
掠れた声だった。
ソラはこくりと頷く。
「ずっと聞こえてた声が……遠いの」
「苦しくない」
苦しくない。
その一言は。
何年も。
何年も願った。
何度も神に祈って。
妹の苦しむ姿を見続けてきた兄にとって。
どんな宝石よりも重い言葉だった。
「……は」
声が出ない。
理解が追いつかない。
目の前で起きていることを、脳が受け入れられない。
医者も。
薬師も。
どんな高価な薬も。
誰一人として成し得なかったことが。
今。
たった今。
起きてしまった。
「……なん、で」
グランヴィアの唇が震える。
「ほんと、か…」
掠れた声だった。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっとずっと複雑な。
長い年月の果てにようやく零れ落ちた感情だった。
ソラは何も知らない。
ただ、安心したように兄の手を握る。
「兄さん」
その小さな手は、いつもより少しだけ温かかった。
グランヴィアは目を見開く。
温かい。
いつも冷たかった妹の手が。
今は自分と同じ温かさだ。
その事実が。
何より雄弁だった。
「……っ」
喉が鳴る。
言葉にならない。
大きな身体が、崩れるようにベッドへ額を押し付けた。
「……よかった」
震える声だった。
誰にも聞こえないほど小さい。
けれど。
そこには騎士も戦士もいなかった。
ただ、妹の無事を願い続けた、一人の兄だけがいた。
オサリアは、その姿を見つめる。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
助けられた。
少しだけ、この人の苦しみを。
そう思った、その時だった。
「……オサリアちゃん」
低い声が部屋に響く。
ヨザキだった。
顔色はまだ青白い。
けれど、その紫の瞳だけは、ひどく真剣だった。
「少し、聞きたいことがある」
その声に。
オサリアの胸が、どくりと鳴る。
窓の外では、夕暮れの空が赤く染まり始めていた。
「……さっき、何を見た?」
静かな問いだった。
だが、その声音には僅かな焦りが滲んでいた。
オサリアは戸惑いながら、自分の胸元を押さえる。
「わ、分からない……」
今もまだ胸の奥がざわついている。
あの暗闇。
あの声。
小さな子供の、どうしようもない恐怖。
「知らない子の声だったの」
ぽつり、と呟く。
「暗くて、顔は見えなくて……でも」
喉が震えた。
思い出すだけで胸が苦しくなる。
「すごく怖がってた」
部屋の空気が止まる。
ヨザキの睫毛が、僅かに揺れた。
「花が咲いたら、いなくなるのかって……」
「ずっと泣いてた」
その瞬間。
ヨザキの指先が、ぎゅっと握られた。
「……ヨザキ?」
サクヤが不安そうに見上げる。
長い沈黙。
やがて。
覚悟を決めるように、ヨザキは静かに息を吐いた。
その瞳には、今まで見せたことのない深い陰が宿っていた。
「僕の予想が正しければ」
低い声。
「ソラちゃんは病気じゃない」
――時間が止まった。
「……は?」
最初に声を漏らしたのは、グランヴィアだった。
理解が追いつかない。
何を言われたのか分からない。
ヨザキは続ける。
「症状は病気に似ている。でも違う」
「これは、おそらく能力だ」
「非常に珍しい、精神感応系の――共感能力」
誰も言葉を発せない。
ソラだけが不安そうに兄の服を握っていた。
「なあ、つまり、どういうことや?」
サクヤは困惑しながらヨザキに聞いた。
「……生まれた時から備わっていた、力だ」
グランヴィアの目が、ゆっくりと見開かれていく。
「……待て」
掠れた声だった。
「じゃあ……今までの治療は」
その言葉に。
ヨザキは苦しそうに目を伏せた。
それだけで、答えは十分だった。
「症状を抑える効果はあったのかもしれない」
「……けれど根本的な原因には届いていなかった」
静かな言葉だった。
だが。
その一言は、剣よりも鋭くグランヴィアを貫いた。
誰かが深く息を吸う音だけが響いた。
グランヴィアは動かない。
まるで、時間から切り離されたみたいに。
脳裏を過る。
薬代。
診察代。
闘技場の歓声。
流した血。
折れた骨。
魔物の牙。
眠れない夜。
全部。
全部。
『投薬を止めれば危険です』
『病状が進行しています』
『治療を続けましょう』
『必ず治ります』
信じていた。
疑わなかった。
だって。
ソラを助けたかったから。
ソラがこの世界で、笑えるなら。
「……なんだよ」
掠れた声だった。
誰へ向けた言葉か、自分でも分からなかった。
「俺は……」
拳が震える。
「俺は、何年――」
最後まで言葉にならなかった。
隣で、ソラが不安そうに兄を見上げる。
「兄さん……?」
その声で。
グランヴィアははっと我に返った。
違う。
違う。
今、見るべきなのは過去じゃない。
目の前だ。
目の前にいる妹だ。
苦しんでいた妹が。
……今、笑っている。
「……ソラ」
震える声で名前を呼ぶ。
心底穏やかな顔で。
「苦しくないよ」
ソラは微笑んだ。
その一言で。
グランヴィアの瞳から、一筋の涙が落ちた。
寝室に、静かな嗚咽だけが響く。
誰も何も言えなかった。
グランヴィアは俯いたまま、妹の手を強く握っている。
その背中は大きいのに。
今だけは、ひどく小さく見えた。
ソラは困ったように兄を見つめる。
「……兄さん?」
幼い指が、そっと兄の髪に触れる。
その瞬間。
グランヴィアの肩が、びくりと震えた。
「悪ぃ」
掠れた声だった。
「こんな顔、見せるつもりじゃなかった」
顔を上げる。
赤くなった目元を隠すように笑う。
けれど、その笑みはひどく歪だった。
ソラは首を横に振る。
「謝らないで」
小さな声。
けれど、はっきりした声だった。
「兄さんは、ずっと頑張ってくれたから」
その言葉に。
グランヴィアの表情が止まる。
「私、知ってるよ」
ソラは微笑む。
「いつも傷だらけで帰ってきてたこと」
「魔物討伐や、闘技場で戦って、
お薬のお金を払ってくれてたこと」
「兄さんが、私のために外の楽しい話をしてくれてたこと」
グランヴィアの瞳が揺れる。
知られていないと思っていた。
隠せていると思っていた。
けれど。
妹は、全部見ていた。
「ごめんなさい」
ソラが小さく俯く。
「私が病気だから――」
「違ぇ」
即答だった。
震えていた声が、初めて強くなる。
グランヴィアは妹の肩をそっと抱く。
「違ぇよ」
掠れた声。
けれど、それだけは譲れなかった。
「ソラは悪くねぇ」
「最初から、一度もだ」
ソラの目が見開かれる。
長い間。
長い間、この兄妹は同じ痛みを抱えていた。
兄は妹を救えない自分を責め。
妹は兄を苦しめる自分を責めた。
誰も悪くないのに。
ずっと。
誰かが悪いと思い続けていた。
静かな時間が流れる。
しばらくして。
グランヴィアはゆっくり立ち上がった。
「……悪ぃ」
掠れた声だった。
「少し、外の空気吸ってくる」
誰も止めなかった。
止める理由もない。
扉が静かに閉まる。
足音が遠ざかる。
寝室には再び穏やかな空気が流れた。
ソラは安心したように兄の背を見送っている。
オサリアは小さく微笑んだ。
「よかったぁ……」
本当に。
よかった。
グランヴィアを待つ間、
五人はソラと他愛もない会話を楽しんでいた。
時間が過ぎる。
夕日が沈み、窓の外は少しずつ藍色へ変わっていく。
十分。
二十分。
三十分。
グランヴィアは戻らない。
サクヤが眉を寄せた。
「……長ない?」
その一言で。
ペプシルの眉がぴくりと動いた。
確かに長い。
ただ外の空気を吸うだけにしては。
ヨザキが静かに目を閉じる。
「……まさか」
イリアスが顔をしかめた。
「どこ行った」
最初に動いたのはペプシルだった。
「探す」
短い言葉だった。
その言葉に続くように、一行は家を飛び出す。
夜風が頬を打つ。
ペプシルは少しだけ考える。
グランヴィアが今、一番会いたい人間。
いや。
一番殴りたい人間は誰だ。
思い浮かぶ顔は、一人しかいなかった。
――担当医。
ペプシルは舌打ちした。
「馬鹿野郎……」
地面を蹴る。
嫌な予感だけが、胸の奥で膨らんでいた。
◇
夜の街を、ゆっくり、ゆっくりと歩く。
石畳を叩く重い足音。
グランヴィアは振り返らない。
ただ前だけを見ていた。
胸の奥が焼けるように熱い。
怒りなのか。
悔しさなのか。
自分でも分からなかった。
ソラが苦しんでいた。
ずっと。
ずっとだ。
眠れない夜も、発作に怯える朝も、薬を飲んで吐いた日も。
全部見てきた。
「……っ」
歯を食いしばる。
気付けば足は見慣れた場所へ向かっていた。
街外れの診療所。
何年も通った場所。
何度頭を下げたか分からない場所。
灯りはまだ消えていない。
窓の向こうで、人影が揺れていた。
担当医だ。
グランヴィアの拳が、ぎりりと音を立てる。
『投薬を止めれば危険です』
『病状が進行しています』
『治療を続けましょう』
『必ず治ります』
脳裏に蘇る言葉。
気付けば。
診療所の扉を乱暴に開いていた。
「――先生」
低い声だった。
机に向かっていた医師が顔を上げる。
「ああ、グランヴィア君。丁度よかった。
次の薬の件で――」
最後まで言わせなかった。
襟首を掴み上げる。
椅子が倒れた。
「ぐっ……!」
医師の顔から血の気が引く。
「な、何の真似だ!?」
グランヴィアは答えない。
「……先生」
掠れた声だった。
「ソラの病気」
沈黙。
「病気じゃなかった」
医師の瞳が僅かに揺れる。
その一瞬。
グランヴィアは見逃さなかった。
「……知ってたな」
空気が凍る。
医師の喉が鳴る。
「な、何を――」
「知ってたんだろ」
初めて怒気が混じる。
「治らねぇって」
「だから薬を飲ませ続けた」
「だから診察を続けた」
「だから俺に金を払わせ続けた」
拳が震える。
医師の顔がみるみる青ざめていく。
だが。
その表情は、奇妙な苛立ちへと変わった。
「……君は誤解している」
低い声だった。
「私は医者だ。出来る限りの治療は施した」
「薬だって高価なものだった。診察にも時間を割いた」
「何より――君の妹は実際に生き延びているじゃないか」
その言葉に。
グランヴィアの瞳から感情が消えた。
「……生き延びてる?」
掠れた声。
医師は気付かない。
いや。
気付いていても、止まれなかった。
「そうだとも」
医師は襟首を掴まれたまま、あっけらかんと続ける。
「あんなの、前例が無さすぎる。誰にも分からん」
「なら症状を抑えるしかないだろう?」
「それに君だって納得していただろう?」
「妹を救いたかったんだろう?」
「薬代も、診察代も、自分で払うと言ったのは君の方だ」
グランヴィアの拳が震える。
ぎり、と骨が軋む。
医師はなおも続けた。
「正直に言えば、助かる見込みは薄いと思っていた」
「だから少しでも長く生きられるよう――」
「黙れ」
低い声だった。
医師が息を呑む。
グランヴィアは俯いている。
表情は見えない。
だが。
その声だけで分かった。
怒っている。
そんな生易しいものじゃない。
壊れていた。
「少しでも長く?」
「……長く?」
掠れた笑い声が漏れる。
「ソラは、生きてたんじゃねぇ」
「ずっと苦しんでたんだよ」
拳が震える。
視界が滲む。
眠れない夜。
小さい泣き声。
苦しそうな呼吸。
薬を飲んで吐いた朝。
全部。
全部。
見てきた。
「お前は一回でも見たのかよ」
声が震える。
「苦しんでるソラを」
「夜中に声を上げて泣くソラを」
「自分が兄の人生を奪ってるって泣くソラを」
医師の顔から血の気が引く。
グランヴィアは気付いていない。
頬から涙が伝っていた。
「俺は……」
喉が詰まる。
「俺は、助けたかっただけなんだ」
その瞬間だった。
拳が動く。
鈍い音。
医師の身体が床へ転がった。
診療所に静寂が落ちる。
荒い息。
震える拳。
なのに。
何も変わらない。
奪われた年月は戻らない。
ソラが味わった苦しみも消えない。
自分が流した血も。
折れた骨も。
全部そのままだ。
グランヴィアは、床に倒れ込んだ医師を見下ろす。
怯えた顔。
命乞いをする唇。
何年も信じ続けた男の姿は、あまりにも醜かった。
「……っ」
拳が震える。
違う。
こんなことをしに来たんじゃない。
分かっている。
分かっているのに。
……再び、拳が振り下ろされた。
鈍い音。
もう一度。
「お前のせいで……!」
掠れた声だった。
「ソラは……!」
振り上げる。
また。
「俺は……!」
何に怒っているのか、自分でも分からない。
医師か。
運命か。
それとも。
妹を救えなかった自分自身か。
「グランヴィア!!」
怒鳴り声が響いた。
振り返るより早く、誰かが腕を掴む。
ペプシルだった。
「離せ!!」
獣のような声。
だがペプシルは離さない。
「もう終わりだ」
低い声だった。
感情を押し殺した声。
「違う……!」
グランヴィアの声が震える。
「終わってねぇんだよ……!」
涙が零れる。
「ソラは苦しんでた……!」
「ずっと……!」
「十三年間、ずっとだぞ……!」
その声は怒号じゃなかった。
ただの、妹を愛した兄の泣き声だった。
ペプシルは何も口を挟まない。
ただ静かに告げる。
「帰るぞ」
短い言葉。
グランヴィアは動けない。
「ソラが待ってる」
――その瞬間。
グランヴィアの身体から力が抜けた。
膝が崩れる。
涙は止まらなかった。




