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ほんまアホや

少女の言葉を聞いた途端、少年の顔色が変わった。


「リナ!」


鋭い声が飛ぶ。

少女はびくりと肩を震わせた。


「ご、ごめん……」

小さく俯く。

その反応に、オサリアは目を瞬かせた。

謝るようなことだろうか。

ただ、お腹が空いたと言っただけなのに。


「謝らなくていいよ」

オサリアは優しく言う。

だが少年は苦しそうな顔をした。


「……余計なこと言うな」

その声には怒りよりも焦りが滲んでいた。

 

後ろにいた子供達も黙り込んでしまう。


その時だった。


〈ぐぅぅぅ……〉


妙に大きな音が響いた。


全員が固まる。


「……」


音の主は少年だった。


その直後。


〈ぐぅ……〉

〈ぐるるる……〉


今度は別の方向から音が鳴った。


一人。


また一人。


気付けば子供達のあちこちから腹の虫が鳴り始めていた。


誰も何も言えなくなる。


オサリアは思わず唇を噛んだ。


昨夜、自分達は温かいスープを囲んで笑っていた。

今朝もパンを食べた。

 

けれどこの子達は。


どれくらい、まともに食べていないのだろう。



「……アホやなあ」


呆れたような声。


全員の視線が向く。

サクヤは頭を掻きながらため息を吐いた。

「腹減っとるなら最初から言えや」


そして。


背負っていた袋を地面へ降ろした。


「サクヤ姉ちゃん?」


少年が警戒した声を出す。

だがサクヤは気にしない。

袋の口を開けると、中から布に包まれたパンが現れた。


続いて干し肉。


果物。


それから小さな水筒。


子供達の目が一斉にそちらへ向く。


「……」


誰も動かない。


動けない。


サクヤは大きくため息を吐いた。


「オマエらなぁ……」


パンを一つ取り出す。


自分で一口かじり、もぐもぐと咀嚼する。

 

何事も起こらない。


「ほれ」


残りを差し出した。


しかし子供達は動かない。

少年だけが前へ出る。


「……何でだよ」

低い声だった。


「何でいつも、サクヤ姉ちゃんは俺達に食わせるの」

 

サクヤはきょとんとした。

「何でって」

「腹減っとるんやろ?」

当たり前のことを言うように答える。

 

少年が言葉を失う。

 

「それとも何や」

サクヤは腕を組んだ。


「腹減っとるのに意地張るんか?」

ぐうぅぅぅ……


最悪のタイミングで少年の腹が鳴った。

ペプシルは歩みを止め、振り返る。

 

「……たべたい」


オサリアの隣で、小さな声がした。


リナだった。

少女はオサリアの服の裾を握ったまま、パンを見つめている。


「リナ」

少年が呼ぶ。

少女はびくりとした。


それでも。


「……おなか、すいたよ」

震える声で言った。


沈黙。


長い沈黙。


やがて少年は拳を握り締めたまま俯く。


そして。


「……食え」


搾り出すような声だった。


その瞬間。


子供達が一斉にパンへ飛びついた。


誰も遠慮はしなかった。

小さな手が伸び、干し肉を掴む。

果物を抱える。

パンを千切る。


「おいゆっくり食え、喉詰まるで!」

サクヤが慌てて叫ぶ。

だが止まらない。

まるで誰かに取り上げられるとでも思っているように、

子供達は必死だった。


干し肉を取った少年の一人は、最初に口へ運ばなかった。

胸元へ隠すように抱え込む。

後で食べるためなのか、それとも奪われることを恐れたのか。


パンを噛むたびに、子供達の頬が震える。

味わっているわけではない。

飲み込むことだけに必死だった。


「水!ほら水飲め!」

イリアスが慌てて水筒を差し出す。

一番小さな子はパンを口いっぱいに詰め込み、苦しそうに咳き込んだ。


ヨザキがしゃがみ込む。

「落ち着いて。誰も取らないから」

その言葉さえ届いているのか分からない。


オサリアは胸が痛くなった。


あまりにも必死だった。


皆で分け合ったり、味を楽しむような食事ではない。

ただ、生きるための行為だった。


サクヤはもう何も言わなかった。


この光景を、何度も見てきたのだろう。

ただ黙って、追加の食料を子供達へ配っていた。

 

「……」


ペプシルは口が開いたまま、何も言えなかった。


教本で見たことはあった。

飢餓。戦災孤児。貧困。

だが紙の上の文字と、目の前で震えながらパンを抱き締める子供は、まるで別物だった。


遠い国の話。

歴史の話。


自分には関係の無い話。


どこかでそう思っていた。


だが――目の前にいる。


実在している。


パン一つに群がる子供達が。


誰かに取られることを恐れながら食べる子供達が。


震える手で食べ物を抱き締める子供達が。


「……」


言葉が出ない。


胸の奥がざわつく。


怒りなのか、悲しみなのか、悔しさなのか。

自分でも分からなかった。


ただ一つだけ。


信じられなかった。

 

同じ世界で生きているのに。

こんなことが、本当にあってしまうのかと。



「あれ?」

オサリアはふと、一人足りない事に気付く。

視線を巡らせると、少し離れた木のそばに。

食えと言ったあの少年だけが、食べていなかった。


「……」


ただ黙って立っている。

他の子供達を見守るように。


オサリアはゆっくり近付いた。

少年は気付いていたが、何も言わない。


「食べないの?」


問い掛ける。


少年はしばらく黙っていた。

やがて小さく視線を逸らす。


「……別に」


その瞬間。


〈ぐぅ……〉


腹の虫が鳴いた。


少年の肩がぴくりと震える。

オサリアは思わず苦笑した。


「お腹空いてるじゃん」

「うるさい」

すぐに返す。だが、先程のような強気な声ではない。


どこか力が無かった。


オサリアは少し考えてから、サクヤからパンを受け取り

少年に差し出す。


「はい」


少年は見ない。


「いらない」

「どうして?」

「……」


返事は無い。

オサリアは諦めずに待った。


やがて。


少年はぽつりと呟く。


「……残しておきたい」


オサリアは目を瞬いた。


「残す?」

「また明日食えるか分かんねぇから」


風が吹く。


少年の声は静かだった。


痩せた腕の先に、握り締められた拳。

その言葉に、オサリアは何も返せなくなる。


明日食べられるか分からない。

そんなことを考えながら生きたことが無かった。


食事は毎日あるものだった。


明日も、その次の日も。


当然のように。


けれどこの子達には、その当然が無い。


だから、この子は自分の分を後回しにしている。


自分が我慢すれば、誰かが食べられるから。


「……」


オサリアはそっと少年を見る。


この子も、きっと本当は誰よりもお腹が空いている。


なのに食べない。


食べられない。


自分より小さな子達を、守ろうとしているから。


 

その時。


「はぁ……」


大きなため息。

サクヤだった。


「何やねんもう」

頭を掻く。

「だから来い言うとるやろ」

少年が顔を上げる。


「……」

「確かに、毎日五人分も六人分も出せるほど金持ちちゃうぞオレは」

ぶっきらぼうに言う。

「でも腹減ったなら言え」

少年は黙る。


サクヤは続けた。


「隠れて盗むよりマシや」


その言葉に、少年の肩がびくりと震えた。


俯いたまま動かない。


サクヤは続ける。

「オマエらが盗ったことくらいなんとなく分かっとる」


静かな声だった。

責めるような言い方ではない。

からこそだろう。少年の拳がぎゅっと握られる。


「……」

「財布もや」

 

オサリアや村の人々の財布。

村の食料。

市場の果物。

小さな盗みの数々。


全部。


「分かっとる」


少年は唇を噛んだ。

血が滲みそうなほど強く。


「……じゃあ」


掠れた声。


「じゃあ何で村に言わねぇんだよ」


オサリアが顔を上げる。


サクヤは少しだけ眉を下げた。


「言うてどうすんねん」


少年が息を呑む。


「オマエら捕まえて終わりか?」


「……」


少年は何も言えない。


「腹減っとる子供捕まえても飯は増えへんやろ」

サクヤは肩を竦めた。


「根本的に解決しとらん」


その言葉は、

誰よりも自分自身へ向けられているようだった。


「でもな、オレ一人でどうにか出来る問題でもないんや」


少年の目が揺れる。


それは初めて聞く言葉だった。

大人はいつも二種類だった。


見捨てるか。


無責任に全部どうにかすると言うか。


けれどサクヤは違う。


助けてくれる。


でも万能ではない。


「だから前から言うとるやろ」


サクヤは指を突き付けた。


「腹減ったら来い」

「……」

「盗むなとは言わん」


全員が固まった。


「え?」


オサリアが変な声を出す。


「いや言えや!」

イリアスが即座に突っ込んだ。


サクヤは顔をしかめる。

「ちゃうわ!」


そして少年を見る。

「盗まんで済むなら盗むな」


真っ直ぐな声だった。

「でもどうしても無理なら来い」


「……」


「オレ一人じゃ無理でも、考えるくらいは出来る」


少年は黙ったままだった。

ふと、後ろから一回り小さい男の子の声がした。

 

「……サクヤ姉ちゃんは、いつも、ぼくたちの為に食料を持ってきてくれる」

「もう迷惑かけたくないんだ」

泣きそうな声で子供は言った。

「迷惑て――」

「ボロボロになって帰ってきてるときがあった」

子供は言葉を遮るように続けた。

 

「僕たちを気にして、お金のためにとうぎじょうで、たたかって……」


少年の声が震える。


「サクヤ姉ちゃんが傷ついちゃう」


静まり返る。


オサリアは思わずサクヤを見る。


サクヤは目を丸くしていた。


「……は?」

間の抜けた声だった。


「この前だってそう」

別の子供が言う。


「腕、怪我してた」

「その前は足」

「血だらけだった」

「わたし、見た」


口々に声が上がる。


サクヤは完全に固まっていた。


「いや、あれは――」

「僕たちのせいだ」


小さな子が俯く。


「だから」

「もう迷惑かけたくない」


風が吹いた。

誰もすぐには口を開けなかった。

少年も俯いている。

盗みを働いた理由。

サクヤを避けた理由。

全部そこにあった。

 

助けてもらえば、サクヤが無理をする。


だから頼れなかった。


だから盗んだ。


「……」

サクヤは頭を掻いた。


一度。


二度。


そして大きく息を吐く。


「アホ」


いつもの言葉だった。


けれど今度は少し掠れていた。


「ほんまアホや」


子供達が顔を上げる。

サクヤは困ったように笑った。


「オマエらなぁ」

「何でそんな発想になんねん」

「だって……」

「オレが勝手にやっとるだけやろ」


一番上の少年は息を呑む。

サクヤは肩を竦めた。


「闘技場行くんもオレが決めた」

「怪我するんもオレが下手やっただけや」

「オマエらが気にすることちゃう」


「でも!」


少年が叫ぶ。


「でも、俺たちのせいで――」

「違う!」

サクヤが強く遮った。


少年が言葉を失う。


サクヤは真っ直ぐ見返した。


「オマエらのせいにすんな」


低い声だった。


怒鳴った訳じゃない。


けれど、その場の誰もが息を呑んだ。

 

「勝手に責任感じんな…」


少年は唇を震わせる。


「でも……」

「でももクソもあるか」

「……何でそんな大人みたいなこと考えとんねん」

サクヤは頭を掻いた。


誰も答えられない。


「腹減った」

「寒い」

「怖い」

「助けて」


サクヤは指を折りながら並べる。


「本来子供っちゅうのは思った事口に出せばええねん」


少年は俯いた。

拳を握り締める。


「……そんなこと」


掠れた声。


「そんなこと言える訳ないだろ」


風が吹く。


木々が揺れる。


「父ちゃんも母ちゃんもいねぇのに」


その言葉に、空気が凍った。

 

「俺がやらなきゃ、俺が守らなきゃ」

少年は俯いたまま続ける。


「こいつらを、誰も守ってくれねぇじゃねぇか……」

「助けて、くれないんだから」

 

声が震えていた。


怒っているようにも、泣いているようにも聞こえる。


きっと両方だった。


「……」

オサリアは胸が締め付けられる。


この子はずっと。


ずっと一人で抱えてきたのだ。


本当は子供なのに。


誰よりも子供でいていいはずなのに。


弟や妹達の前では泣くことも出来なかった。


弱音も吐けなかった。


お腹が空いたとすら言えなかった。


「……っ」

 

少年は顔を逸らした。

目元を隠すように。

必死に何かを堪えるように。


その時だった。


ぽん。


大きな手が頭に乗る。


「え……」


少年が顔を上げる。


サクヤだった。


「守っとるやん」

少年が目を見開く。


「オマエ」

サクヤは少しだけ笑った。


「ちゃんと守っとる」

優しい声だった。


「盗みなんか褒められたことちゃう」

「せやけど」

サクヤは周囲の子供達を見る。


パンを抱えたままの小さな子達。

不安そうに見上げる子達。

そして再び少年を見る。


「ここまで全員生きとる」


静かな言葉だった。


「それはオマエが守ってきたからやろ」

 

少年の瞳が揺れる。


「……」

 

「よう頑張ったな」


「……頑張ってなんか、ない」

「守れてない」

「みんな腹減らせて」

「盗みまでさせて」


「俺は――」

 

「っ……」


少年は唇を噛む。…だが堪えきれない。


ぽろり、と。


一粒の涙が零れ落ちる。


「ごめん……」

「ごめん……みんな……」

掠れた声だった。


今まで張り詰めていたものが、

少しずつ崩れていく。


「俺、兄ちゃんじゃないのに」


誰に向けた言葉だったのか。


自分自身か、神様か、居なくなってしまった親か。


「怖かった……」


その一言で、周囲の子供達の顔も歪む。


「夜になると怖かった」

「お腹空くのも怖かった」

「誰かに見つかるのも怖かった」


「みんな病気になったらどうしようって」


「……っ死んだら、どうしようって」


とめどなく、涙が落ちていく。


「でも俺しか居なかったから……」


サクヤは何も言わなかった。

ただ頭の上に置いた手を離さない。


「……そっか」


ようやく出た言葉はそれだけだった。

 

「怖かったんやな」


責めない。


慰めすぎずに、ただ認める。


それだけだった。


少年は顔を覆う。


「っ……」


声にならない嗚咽が漏れる。


すると、リナが恐る恐る少年に近付いた。


小さな手が少年の服を掴む。


「お兄ちゃん」


少年が顔を上げる。

リナは半分残していたパンを差し出した。


「はんぶんこ」


ぐしゃぐしゃの顔のまま。


少年は目を見開く。


その隣からも。


「ぼくのも」

「わたしのも」

「ちょっとだけなら」


小さな手が次々伸びる。


決して多くない。


ほんの一口ずつ。


それでも。


少年がずっと守ろうとしてきた子供達が、

今度は少年に差し出している。


「……」


ペプシルは思わず目を伏せた。


オサリアは涙を拭う。


イリアスは何も言えず頭を掻く。


ヨザキだけが静かに目を閉じた。


そしてサクヤは。


困ったように笑った。


「ほら見ろ」


少年の頭を軽く小突く。


「ちゃんと守れてるやん」


少年はただ、差し出されたパンを見つめる。


震える手でそれを受け取り――


ぽろり、と再び涙が零れ落ちた。


山のぬるい風が吹く。


ただその日初めて、

少年は自分の分のパンを口にした。

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