誘われた赤い運命
翌朝。
ヨザキは一人、窓際に立っていた。
朝日が運河の水面を照らしている。
昨夜から一睡もしていない。
眠れなかった。
脳裏に焼き付いた光景が離れなかったからだ。
血。
それだけだった。
誰の血かも、どこで流れるのかも分からない。
本当に一瞬だけ見えた光景。
「……」
ヨザキは小さく息を吐く。
考えても仕方がない…そう分かっていても考えてしまう。
未来は知るほど重い。
だから嫌いだった。
〈ダンッ!!〉
突然、勢いよく扉が開く。
「おはよーございます!!」
元気な声が響いた。
「……」
ヨザキは目を閉じた。
聞き覚えがありすぎる声だった。
「朝だよ!」
オサリアだった。
「そうだね」
「朝ご飯だよ!」
「そうかい」
「起こしに来た!」
「ありがとう」
ヨザキは再び小さくため息を吐く。
するとオサリアが不思議そうに首を傾げた。
「ヨザキさん?」
「なんだい?」
「眠れてない?」
ヨザキの動きが止まる。
オサリアはじっと顔を覗き込んでいた。
「目の下、ちょっと黒い気がする」
「……」
この少女は、妙なところだけ鋭いようで。
「気のせいだよ」
心配をかけさせまいと、隠すように笑う。
「そう?」
オサリアはしばらく疑うように見つめていたが、
やがて笑顔になる。
「じゃあ朝ご飯食べよう!食べれば元気になるよ!」
オサリアが当然のようにヨザキの手を引っ張る。
「そんなに急がなくても…」
「出来立てが一番美味しいんだよ?」
「…そうだね」
ヨザキは、自然と笑みがこぼれた。
オサリアに連れられるまま教室へ連れて行かれる。
朝の光が差し込む室内からは、既に騒がしい声が聞こえていた。
どうやら残りの二人も起きているらしい。
「だーかーら、目玉焼きにはマヨネーズがマストだろ!」
「邪道だな。醤油に決まってる」
朝から何を言い争っているんだろう。
ヨザキは思わず額を押さえた。
「カリカリベーコンを黄身につけて食べるよ!」
「「違う」」
オサリアが口を挟んだ瞬間、二人の声が揃う。
「なんで!?」
「方向性が違う」
「違うな」
「……何でもいいから食べなよ」
ヨザキは卓上のケチャップを取って目玉焼きにかける。
「はぁ?ありえねえ」
「うわでた。ヨザキ、やっぱケチャップは無ぇぜ」
「食の好みぐらい自由だろう!」
朝食を終える頃には、くだらない論争も一段落していた。
ヨザキは食器を片付けると、机の上へ一枚の地図を広げる。
部屋の空気が少しだけ変わる。
「さて」
ヨザキは眼鏡を押し上げる。
「本題に入ろうか」
オサリアが椅子へ座り直した。
ペプシルも本を閉じる。
イリアスは興味深そうに地図を覗き込んだ。
「昨日も言った通り、今回の依頼は魔物討伐だ」
ヨザキの指が地図の一角を指し示す。
そこはレヴァリア中心部から少し外れた場所だった。
「旧下層水路。今は使われていない古い水路だよ」
ヨザキは続ける。
「最近、その内部で魔物の目撃情報が増えている」
「下水道みたいなもんか?」
イリアスが聞く。
「近いね」
ヨザキは頷いた。
「昔のレヴァリアを支えていた巨大な水路網だ」
「依頼内容は単純。魔物の討伐、後は出来る限りでいいから、原因を調べること」
「原因かぁ」
オサリアが顎に手を当てる。
「魔物が住み着いただけじゃないの?」
「それなら討伐だけで終わる話さ」
ヨザキは地図へ視線を落とす。
「問題は増え方なんだよ」
指先が旧下層水路をなぞった。
「目撃情報はここ数ヶ月で急増している」
「繁殖したとか?」
「可能性はある」
イリアスの言葉に、ヨザキは頷いた。
「ただ、レヴァリアの魔物は基本的に地下へ集まる習性がない」
「なら、誰かが集めてるとか?」
ペプシルの一言に、部屋が少しだけ静かになった。
ヨザキは数秒考える。
「…否定は出来ないね」
「物騒だな」
イリアスが眉をひそめる。
「……実は少し気になっていることがある」
三人の視線が集まる。
「レヴァリアだけじゃない、最近は各地で魔物による被害が増えている」
「各地?」
「ルミナスでは巨大な魔物が現れたそうだ。幸い、被害は最小限に済んだようだけど」
ペプシルの表情が僅かに曇る。
「他にも似た報告がいくつか上がっている」
「偶然じゃねえ、ってのか?」
イリアスが聞く。
「そうかもしれない」
ヨザキは頷く。
「ただ、もし違うなら――」
そこで言葉を切った。
自分でも根拠はない、ただの違和感だ。
だから口にはしない。
「まあ、考えても仕方ないね」
ヨザキは地図を軽く叩く。
「僕たちは学者じゃない。まずは依頼を片付けよう。質問は?」
ヨザキが周囲を見回す。
沈黙。
「ないな」
「うちも!」
オサリアが元気よく手を挙げる。
「質問じゃなくて返事だろ」
イリアスが突っ込んだ。
「じゃあ質問!」
「なんだい?」
「お昼ご飯は?」
ヨザキは苦笑しながら地図を畳む。
「依頼が終わったら好きなだけ食べるといい」
「やった!」
「まだ終わってねえよ」
ペプシルが立ち上がった。
椅子が小さく軋む。
「行くぞ」
その一言で空気が変わる。
さっきまでの朝食の空気ではない。
依頼を受ける冒険者の顔だった。
ヨザキはそんな三人を見て、小さく頷く。
「旧下層水路の入り口は西区画だ」
地図の一点を指差す。
「管理局には話を通してある」
「了解」
ペプシルが短く答える。
「じゃあ行ってくる」
「くれぐれも、気を付けて」
ヨザキはそう言って三人を見送った。
扉が閉まる。
教室は急に静かになった。
窓の外では運河の水面が朝日に揺れている。
ヨザキは何気なく、その光景へ視線を向けた。
「……」
ヨザキは小さく頭を振る。
授業の準備をしなければ、と教卓へ教科書を並べ始めた。
旧下層水路の入口は、街の西区画にひっそりと存在していた。
観光客で賑わう運河から離れた場所。
石造りの管理施設の奥に、それはあった。
巨大な鉄格子の先へ続く石階段は、暗闇の中へ沈んでいる。
「うわぁ……」
オサリアが思わず声を漏らした。
「昨日までいたレヴァリアと同じ街とは思えないね」
足元からは冷たい空気が流れてくる。
湿った石の匂い、遠くで滴る水音。
地上の爽やかな風とは別世界だった。
「こういう場所、嫌いじゃねえな」
「俺は嫌いだ」
ペプシルは即答した。
「暗いし湿ってるし臭い」
「勇者なのに?」
「勇者だから大丈夫になる理屈が分からん」
三人は管理局の職員へ依頼書を見せる。
確認を終えた職員が鉄格子の鍵を外すと、重い金属音が響いた。
「最近は魔物の目撃情報が急激に増えています」
「十分注意してください」
職員は真面目な顔で言った。
「了解」
ペプシルが短く答える。
鉄格子が開く。
その向こうには、長い石階段が続いていた。
ペプシルは静かに腰の剣へ手を添える。
そして。
三人は運河都市レヴァリアの地下へ足を踏み入れた。
一歩。
また一歩。
階段を降りるたびに光は遠ざかっていく。
やがて地上の音は完全に消えた。
聞こえるのは、水滴が落ちる音だけ。
階段の先に広がっていたのは、巨大な地下水路だった。
石造りの通路がどこまでも続いている。
天井は高く、両脇には黒い水路が流れていた。
壁面には苔が張り付き、ところどころに設置された魔法灯だけが淡い光を放っている。
「思ったより広いな」
「昔のレヴァリアを支えてたんだろ?」
ペプシルが周囲を見回す。
「これだけ広けりゃ納得だ」
その時、オサリアの足がピタッと止まる。
「……ねえ」
小さな声。
「なんか聞こえない?」
二人が足を止める。
静寂。
そして。
暗闇の奥から、何かを引きずるような音が聞こえた。
〈ギギ……〉
〈ギギギ……〉
濡れた石を擦るような不快な音。
ペプシルが剣の柄へ手を掛ける。
「構えろ」
言葉と同時に暗闇の中から飛び出してきたのは、
人間ほどの大きさを持つ異形だった。
全身を灰色の甲殻で覆われた魔物。
四本の腕。
歪な顎。
赤い目が魔法灯の光を反射する。
「うわっ」
オサリアが思わず後退る。
魔物は甲高い鳴き声を上げると、そのまま一直線に突っ込んできた。
「下がれ!」
ペプシルが前へ出る。
剣が閃く。
一撃。
甲殻ごと胴体が両断された。
魔物が悲鳴を上げながら崩れ落ちる。
「……弱いな」
ペプシルが呟く。
しかし。
ガサガサガサ―――
今度は別方向から音がした。
続いて反対側。
さらに奥。
「おいおい」
イリアスが眉をひそめる。
「一匹じゃねえぞ」
魔法灯の光が届かない闇の中。
赤い光が次々と浮かび上がる。
十。
二十。
それ以上。
オサリアの顔が引き攣った。
「どんどん増えてく…!」
「チッ、面倒だな」
ペプシルが吐き捨てた。
魔物達は三人を捉えると、一斉に襲い掛かる。
「うわああ!?」
オサリアが慌てて後退る。
飛び掛かった魔物の爪が肩を掠めた。
「オサリア!」
ペプシルが魔物を斬り飛ばす。
「ご、ごめん!」
慌てて距離を取る。
その横をイリアスが駆け抜けた。
腰の銃が火を噴く。
〈バンッ!!〉
先頭の魔物の頭部が砕け散った。
「おら!」
さらに二発。
三発。
地下水路へ銃声が反響する。
だが魔物の数は多い。
休む暇もなく次から次へと現れる。
「これ、本当に自然発生か?」
「知らねえ!」
ペプシルの剣が再び閃き、魔物が次々と倒れていく。
だが。
ペプシルは眉をひそめた。
「……確かに妙だな」
倒しているはずなのに、地下水路の奥からは気配だけが増えていく。
オサリアは今のうちに、と二人へ治癒魔法をかける。
柔らかな光が二人を包んだ。
魔物の爪で浅く裂けていた傷が、ゆっくりと塞がっていく。
「サンキュ」
「助かる」
「えへへ、回復なら任せて!」
オサリアは少し嬉しそうに笑った。
イリアスが銃のリロードを終えたのを見て、
「進むぞ」
と、ペプシルを先頭に三人は地下水路の奥へ足を進める。
魔物はまだ現れる。
だが先程ほどの数ではない。
何度か小規模な戦闘を繰り返しながら、三人はさらに深部へと向かう。
「……なんだこれ」
イリアスが足を止める。
通路の中央。
石畳の上に、黒い染みのようなものが広がっていた。
液体ではない、まるで煤のような黒い結晶だった。
「魔物の死骸か?」
ペプシルが剣の先で軽く突くと、結晶は脆く崩れた。
「見たことないな」
イリアスがしゃがみ込む。
オサリアも隣から覗き込んだ。
ぞわり。
背筋を冷たいものが走る。
「……?」
思わずオサリアは肩を震わせる。
嫌な感覚だった。
寒気とも、恐怖とも違う。
何かがいる。
もっと奥。
もっと深い場所に。
「オサリア?どうした」
「う、ううん」
オサリアは首を振った。
だが。
まとわりつく様な黒い闇を、彼女は確かに感じている。
「……」
オサリアは無意識に胸元を押さえる。
気のせい。
そう思いたかった。
「行くぞ」
ペプシルが再び歩き出す。
「…ねえ、気をつけて」
「わぁってるよ」
「お前が一番気をつけろ。生命線なんだからな」
「う、うん…」
三人は地下水路のさらに奥へ進んだ。
やがて。
「……減ったな」
イリアスが呟く。
「何が?」
「魔物だよ」
確かに静かだった。
つい先程まで、あれほど現れていた魔物の姿が見当たらない。
聞こえてくるのは水音だけ。
ぽたり。
ぽたり。
天井から落ちる雫が石畳を叩く。
「全部倒したのかな…?」
オサリアが言う。
「ならいいんだけどな」
イリアスは周囲を見回している。
ペプシルも同じ違和感を覚えていた。
静かすぎる。
まるで何かを避けるように。
魔物達が姿を消している。
その時だった。
ごうっ――――
地下水路の奥から、生暖かい風が吹き抜けた。
「……っ!」
オサリアの肩が震える。
さっきよりも濃い、黒い気配。
まるで深淵の底から吹き上がってくるようだ。
「おい」
ペプシルが足を止める。
前方。
通路の先が大きく開けていた。
地下広場。
かつて水路の分岐点だったのだろう、巨大な円形空間が広がっている。
そして、その中央にあった黒い結晶。
――いや。
結晶などという大きさではない。
まるで木の根のように、黒い鉱石のような何かが地面から無数に生え広がっていた。
「んだよ……これ」
イリアスが息を呑む。
結晶の周囲には、先程見た魔物の死骸が散乱していた。
よく見れば、魔物は干からびている。
何かに生命力を吸い取られたかのように。
「気持ち悪い……」
オサリアが思わず呟く。
その瞬間。
〈パキッ〉
小さな音が響いた。
誰も動いていない。
なのに。
黒い結晶がひび割れた。
〈パキ〉
〈パキパキ〉
嫌な音が広場へ響く。
三人は反射的に武器を構えた。
結晶の奥。
最も巨大な塊の影が―――ゆっくりと動いた。
〈ズル……〉
何かを引きずるような音。
一歩、また一歩。
暗闇の中から、その姿が現れる。
「……うーわ」
イリアスが思わず声を漏らした。
最初は人間に見えた。
二本の足。
二本の腕。
だが近付くにつれ、その認識は崩れていく。
身体を覆う黒い結晶。
皮膚を突き破るように生えた無数の棘。
片腕は異様に肥大化し、地面を引きずっていた。
顔があるべき場所には黒い結晶がびっしりと張り付き、ただ中央だけが口のように裂けている。
「気持ち悪……」
オサリアが息を呑む。
化け物はゆっくりと首のようなものを巡らせる。
"それ"は、確かにこちらを認識した。
〈ギィィィィィィィィ――――ッ!!〉
耳をつんざくような絶叫。
地下広場全体が震えている。
見れば、裂け目が大きく開いていた。
壁の結晶が共鳴するように脈打つ。
「来るぞ!!」
ペプシルが叫ぶ。
叫んだと同時に、眼前から化け物の姿が消えた。
「!?」
見失った。
周囲を見渡す。
――化け物は、天井を這っていた。
「なっ――!?」
イリアスが反応するより早く、黒い腕が振り下ろされる。
石畳が爆発するほどの轟音。
砕けた破片が周囲へ飛び散る。
「伏せろ!!」
ペプシルが咄嗟にオサリアを突き飛ばした。
衝撃が地下広場を揺らし、煙が舞い上がる。
…その中心には、人が数人は入れそうな巨大なクレーターが穿たれていた。
「……おいおい、今の食らったら死ぬぞ」
イリアスの頬を冷や汗が伝う。
化け物はゆっくりと腕を持ち上げる。
黒い結晶が擦れ合い、不快な音を響かせた。
「散れ!!」
ペプシルが叫ぶ。
三人が同時に飛び退く。
それと同時に、黒い腕が横薙ぎに振るわれる。
石柱が一本、いとも容易く根元から吹き飛んだ。
「はぁ!?」
イリアスが目を剥く。
「規格外過ぎるだろ…!」
〈バァンッ!!〉
銃声が響く。
放たれた弾丸が化け物の胴体へ命中した。
――だが。
弾かれる。
黒い結晶を削っただけだった。
「…ハハッ、嘘だろ」
イリアスの顔が引き攣る。
その間にも、化け物は止まらない。
一歩踏み出しただけで床が砕ける。まるで災害だ。
「ペプシル!」
オサリアが叫ぶ。
ペプシルは既に飛び出していた。
剣が閃き、火花が散る。
確かな手応え。
だが、浅い。
恐らく黒い結晶の下にある肉へ届いていない。
「チッ、硬ぇ…!」
額に冷や汗が滲む。
化け物は異常なほど速く、巨大な身体が視界の端と端を行き来する。
「また上だ!」
ペプシルが叫んだ。
黒い影は天井付近まで跳躍していた。
それは隕石のように落ちてくる。
「避けろ!!」
砕けた石畳が、弾丸のように飛んでくる。
衝撃でオサリアが転ぶ。
「うわっ――」
その瞬間、一直線に化け物が飛びかかった。
「オサリア!!」
ペプシルが叫ぶ。
――間に合わない。
〈バンッ!!〉
イリアスの放った弾丸が化け物の肩へ命中する。
黒い結晶が砕け散る。
一瞬、化け物は硬直した。
だがそれもほんの刹那。
化け物は再び動き出す。
「ダメか…ッ!」
イリアスが顔を引き攣らせる。
化け物は一瞬たりとも視線を逸らさない。
オサリアだけを見ている。
「っ……!」
オサリアは慌てて立ち上がる。
――逃げなければ。そう思うのに足が動かない。
「早く動け!!」
ペプシルが飛び込み、剣と黒い腕が激突する。
凄まじい衝撃。
ペプシルの足元の石畳が砕ける。
「ぐっ……!」
押される。
腕一本。ただそれだけなのに止めきれない。
足元の石畳が砕け、踵が地面を削る。
押し負けていた。
次の瞬間――
〈バキッ!!〉
嫌な音が響く。
ペプシルの身体が吹き飛び、そのまま石柱に叩きつけられる。
「ペプシル!!」
オサリアは反射的に駆け出した。
見れば、身体の至る所から出血している。
「今治すから……!」
震える手で治癒魔法を使う。
その前で、二人を護るようにイリアスが攻撃を弾いている。
――だが、それも長くは持たない。
「がっ――」
イリアスは人形のように宙を舞い、鈍い音を立てて石壁へ叩き付けられた。
「イリアス!!」
叫び声が重なる。
ペプシルはその悲鳴を聞くと、歯を食いしばって立ち上がった。
傷は全然治りきっていない。
それでも剣を構える。
「……オサリア」
低い声。
「回復だけやってろ」
頭から流れる血を、乱暴に拭く。
勇者は再び化け物へ向き直った。
「来い」
化け物が咆哮する。黒い腕が唸りを上げた。
ペプシルは踏み込み、化け物の腕へ剣を叩き込む。
火花と共に黒い結晶が砕け散った。
だが化け物は止まらない。
振り下ろされた腕を紙一重で躱す。
背後の石柱が砕け散った。
破片が頬を掠める。
ペプシルはそのまま懐へ潜り込んだ。
横薙ぎ。
返す刃。
さらに一閃。
黒い結晶が剥がれ落ちる。
確かに効いている。
だが浅い。
「チッ……!」
化け物の腕を躱す。だが避け切れない。
肩を掠め、脇腹を抉る。
一撃ごとに傷が増えていく。
まるで終わりが見えなかった。
ペプシルは距離を取り、肩で息をしている。
流れる血が手の甲や顎に伝う。
体力の消耗が激しい。
もう既に、脚が自身を支えきれていない。
「……おい」
イリアスは薄く目を開ける。背中から赤黒い血が滲んでいた。
「どうする」
掠れた声で問いかけた。
ペプシルは答えない。
答えられなかった。
倒せる未来が見えない。
化け物が一歩踏み出す。
ズルリ。
黒い腕が地面を削る。
オサリアの顔色は悪くなっていく。
まとわりつくような黒い気配。
まるで、自分を呼んでいるような――。
化け物の裂けた口から、不快な呼吸音のようなものが漏れている。
〈ギ……〉
〈ギギ……〉
「オサリア!」
ペプシルの声で我に返る。
黒い腕が迫る。
咄嗟に飛び退く。
轟音と共に石畳が砕け散った。
「くそっ!」
ペプシルが横から斬りかかる。
剣が結晶を削る。
火花が散る。
だが化け物は意に介さない。
視線。
いや、顔もないそれが。
ただオサリアだけを追っている。
「なんなんだよお前……!」
歯車の大剣で何度も斬る。
それでも止まらない。
まるで痛みそのものが存在しないようだった。
〈ギィィィィィィィィ――――ッ!!〉
化け物が絶叫する。
地下広場全体が震え、壁を覆う黒い結晶が激しく脈打つ。
次の瞬間――――
〈パキャッ……!!〉
一瞬の破裂音とともに、結晶が爆ぜた。
「な――」
言葉は最後まで続かなかった。
黒い破片が嵐のように広場に降り注いだ。
酷い耳鳴りがする。
視界が黒く染まっていく。
「ぐあっ!!」
勇者の身体が宙を舞った。
石柱へ激突し、柱が砕ける。
「ペプシル!!」
返事はない。
血だけが石畳へ落ちている。
ぽたり
ぽたり
地下広場に響く
気付けば、大きな血溜まり。
その中で立っているのはオサリア一人だった。
「……」
呼吸が上手く出来ない
耳鳴りがする
頭が真っ白だ
「ペプシル……?」
崩れた石柱の向こう。
勇者は動かない。
「イリアス……?」
うるさい声は聞こえない。
壁際に倒れたまま、微動だにしない。
嫌だ
嫌だ嫌だ嫌だ
こんなの
こんなの違う
助ける為に来たのに
役に立てると思ったのに
なのに
〈ギギ……〉
オサリアは顔を上げる。
化け物はこちらを見据える。
顔など無いはずなのに、見られていると分かってしまった。
もう邪魔者は居ない
そう言わんばかりに
ゆっくり
ゆっくりと
こちらへ歩いてくる
足は動かない
身体が震える
怖い
助けて
誰か
頭の中で救いを求める。
化け物はゆっくりと
確実に――
〈ギ……〉
裂けた口が震える。
まるで笑っているようだった。
「……やだ」
声が震える。
涙が滲む。
その瞬間だった。
オサリアの背後で、黒い瘴気が大きく脈打つ。
どろり。
悍ましい闇が溢れた。
石畳を覆い、壁を這い、生き物のように蠢きながら広場全体へ広がっていく。
化け物はそれを見て動きを止めた。
ぴたりと。
裂けた口が震える。
歓喜するように。
求めていたものを見つけたように。
〈ギ……ギィ……〉
ゆっくりと腕が伸びる。
オサリアへ。
いや。
その背後で蠢く闇へ。
肩を包む。
髪を揺らす。
まるで抱きしめるように。
迎え入れるように。
彼女の奥に眠る『何か』へ。
激しい耳鳴りの中、オサリアはただ涙を流し、掠れた声で呟いた。
「ごめん、なさーー」
ーーその瞬間、闇を切り裂くような轟音が鳴り響いた。
〈バァンッ!!!〉
視界を染め上げたのは、化け物の黒とは真逆の、圧倒的な白銀の閃光。
光の障壁が化け物の腕を弾き飛ばし、地下水路に鋭い悲鳴が木霊する。
眩しさに目を細めるオサリアの前に、一人の影が滑り込む。
「ーーそこまでだ」
地下広場へ、冷たい声が響いた。




