見据える瞳
気づけば、夕暮れの光が運河を赤く染めていた。
市場の喧騒も昼ほどではない。
行き交うゴンドラの数も少しずつ減り始めている。
「そろそろ戻るか」
ペプシルがそう言うと、オサリアは少しだけ名残惜しそうに運河を振り返った。
「レヴァリアって綺麗だね」
「だから観光に来たわけじゃねえんだよ」
「でも綺麗だった!」
「聞いてねえな」
イリアスが苦笑する。
三人は運河沿いの道を辿り、ヨザキの塾へと戻っていった。
「ただいまー!」
勢いよく扉を開けた瞬間だった。
「ねえ!!」
「おとなのひと!!」
小さな影が飛びついてくる。
塾の生徒だろうか。
十歳にも満たない少年が、泣きそうな顔でイリアスの服を掴んだ。
「ヨザキ先生が……!」
三人の表情が変わる。
「何があった」
イリアスが低く問う。
少年は震える声で答えた。
「急に倒れて……!」
三人はその言葉に弾かれるように、教室へ駆け込んだ。
夕陽が差し込む室内。
授業は中断されたままらしく、机には教材が開きっぱなしになっていた。
その教壇の前。
ヨザキがその場で片膝をつき、額を押さえていた。
「……っ」
額には薄く汗が浮かんでいる。
呼吸も少し荒い。
だが三人に気付くと、すぐに眼鏡を押し上げた。
「……帰ってきたのか」
「帰ってきたのか、じゃねえよ」
イリアスが呆れたように言う。
「どうした」
「少し頭痛がしただけだ」
「嘘つけ」
ヨザキは小さくため息を吐く。
「子供たちの前で騒ぐな」
「原因作ったのはそっちだろ」
「……」
ヨザキは気まずそうに目をそらした。
ペプシルは腕を組む。
「持病か?」
「違う」
「じゃあ何だ」
ヨザキは答える前に眼鏡の位置を直した。
ほんの僅かな沈黙。
「偏頭痛」
なんて事ないように答える。だが、どこか機械的だった。
イリアスが眉をひそめる。
「またか」
その一言だけが落ちる。
ヨザキは視線を逸らした。
「……大したことじゃない」
「毎回そう言うよなお前」
教室の隅では、生徒たちがまだ不安そうに様子を窺っていた。
ヨザキはそれに気付くと、優しい笑みを浮かべ小さく手を振る。
「今日はここまでだ」
「先生……」
「大丈夫」
穏やかな声だった。
「宿題は忘れないように」
その言葉に、ようやく子供たちも少し安心したらしい。
ひとり、またひとりと教室を後にしていく。
静かになった教室で。
オサリアはヨザキを見つめていた。
まだ顔色が悪い。
本人は平然としているつもりなのだろうが、隠しきれていなかった。
「……ヨザキさん」
「…なんだい?」
「じっとして」
ヨザキが首を傾げる。
次の瞬間。
オサリアの掌から柔らかな光が溢れた。
ぽう、と。
暖かな光がヨザキを包む。
冷たい夕暮れの教室に、春の日差しのような温もりが広がった。
ヨザキの肩から少しだけ力が抜ける。
呼吸が楽になる。
こめかみを刺す鈍い痛みも、幾分か和らいでいった。
「……」
ヨザキが目を瞬く。
オサリアは心配そうに覗き込んだ。
「どう?」
「……少し」
ヨザキは正直に答えた。
「楽になった」
その言葉にオサリアはほっと息を吐く。
「よかったぁ……」
だがヨザキは、自分の手のひらを見つめたまま黙っていた。
苦しさは薄れた。
だが、その表情から陰りは消えない。
「……どうした?」
沈黙が長かったのか、ペプシルが眉をひそめる。
ヨザキはゆっくりと顔を上げた。
「いや」
短く答える。
「改めて思っただけだよ」
彼の視線がオサリアへ向く。
「君、本当にとんでもないね」
「なにが?」
オサリアはきょとんと首を傾げた。
「全部だよ」
ヨザキは額を押さえながら小さく息を吐く。
「治癒魔法なんて存在自体が非常識なのに、その上これだけの効果がある」
「そうなの?」
「少なくとも僕は見たことがない」
ヨザキは苦笑する。
「だから余計に胃が痛い」
「治ったばっかじゃねえか」
イリアスが呆れたように言った。
「それとこれとは別問題だよ」
「難儀だな」
ヨザキは椅子へ腰を下ろした。
ようやく呼吸も落ち着いてきたらしい。
「……とりあえず」
イリアスが教室を見回す。
「病人はそのまま座ってな」
「ただの偏頭痛だと言ったはずだけど」
「病人じゃねえか」
「…そうだね」
ヨザキは素直に認めた。
その様子にオサリアは少しだけ安心したように笑う。
窓の外では、夕陽がゆっくりと運河の向こうへ沈み始めていた。
「そういえば」
ヨザキがふと思い出したように口を開く。
「夕飯の準備を――」
「座れ」
ペプシルが言った。
「僕の家だから――」
「座ってて」
オサリアも続く。
「君たち料理は――」
「座ってろ」
イリアスも言った。
「……」
三方向から言われた。
「君たち、ここぞとばかりに遠慮がないね」
「食材は使っていいな?」
「…お好きに」
「で、どうする?」
イリアスが腕を組む。
「何があるかによる」
ペプシルは棚を開けた。
乾燥パスタ、トマト、香草、玉ねぎ、保存肉…
「……なんとかなるな」
そう呟くと、慣れた手つきで野菜を洗い始める。
イリアスが目を丸くした。
「お前料理できんの?」
「人並みには」
洗い終わったトマトをまな板の上に置いた。
鍋を取り出し、水を入れてそのまま火にかける。
「うち何したらいい!?」
オサリアは何故か自信満々だった。
「玉ねぎ剥け」
「任せて!」
「「…」」
その声に二人は何故か不安を覚える。
数分後。
「できた!」
机の上には粉々になった玉ねぎがあった。
皮はところどころ残っているし、玉ねぎの層がバラバラになっている。
「「何があった」」
「頑張った」
「そうか」
ペプシルは諦めた。
「で俺は?」
「皿でも出しとけ」
「雑!」
「仕事を振ってるだけありがたく思え」
「天才技術者である俺を、コケにしおって……」
ぶつくさと文句を言いながら、イリアスは皿の準備をし始める。
そんな技術者を置いて、ペプシルは無惨な姿の玉ねぎを見下ろした。
「……まあ、使えるか」
そう言って沸騰していたお湯に乾燥パスタを放り込むと、
包丁を手に取る。
トントントン、と小気味よい音が響いた。
保存肉を切り分け、トマトを刻み、香草をまとめていく。
「お」
イリアスが振り返る。
手際が良い。
迷いがない。
「思ったより随分慣れてんな」
「だから人並みだって言っただろ」
「効率がいい」
イリアスは素直に感心した。
オサリアもまな板の向こうから覗き込む。
「すごい!」
「切ってるだけだろ」
「うちは指切りそう」
「触るな」
ヨザキは教室の隅から、静かにその様子を眺めている。
アストラの手から逃げている勇者。
正体不明の治癒魔法使い。
友人であるイカれた技術者。
関わるはずもなかった面々が、自分の台所を占領している。
「……不思議な日だ」
小さく呟く。
誰に向けた言葉でもなかった。
やがて、食卓へ並べられたのは香草とトマトのパスタ、野菜スープ、それに軽く炙った保存肉だった。
見た目は少々雑だが、香りは悪くない。
「いただきます!」
オサリアが真っ先にフォークを伸ばした。
一口。
二口。
三口。
「おいひい!!」
「早い」
ペプシルが呆れる。
「食べながら喋んなよ」
「ん!」
オサリアは満面の笑みでパスタを頬張っていた。
イリアスも一口、パスタを口に入れる。
「…おお、勇者くん、料理上手じゃねえか」
「普通だ」
ヨザキも一口食べる。
少し考える。
そして。
「……美味しいね」
「だろ」
フン、と鼻を鳴らす。どこか誇らしげだ。
「褒めてない」
「褒めてただろ」
「褒めてない」
「なんだそれ」
ヨザキとペプシルは微妙な距離感を保っている。
だが、険悪という訳でも無さそうだ。
食事を終えた頃には、すっかり夜になっていた。
オサリアは皿洗いを買って出て、今は台所で格闘している。
ペプシルは椅子へ深く腰掛け、本棚から適当に引き抜いた歴史書を眺めつつ、チラチラと台所の様子も見ている。
そして。
イリアスはふと窓際へ目を向けた。
ヨザキが一人、夜の運河を眺めている。
「……で」
イリアスはコーヒーを片手に近付く。
「今度は何だったんだ?」
ヨザキの肩が僅かに止まる。
観念したように、ヨザキはペプシルとオサリアの方を見る。
「……二人とも。買い物に行くから少し外出する。直ぐに戻るから、皿洗いが終わったら好きに過ごしていてくれ」
「イリアス、君も手伝って」
「はいよ」
イリアスは頭をポリポリと搔く。
いってらっしゃい、と響く声を背に、二人は外に出た。
夜の運河沿いは昼間とは別の顔を見せていた。
街灯の役割を果たす魔法灯は水面へ揺れており、遠くで鐘が鳴っている。
ヨザキは手すりへ軽く身体を預けた。
「……で」
イリアスが口を開く。
「何だった」
イリアスの問いに、ヨザキはすぐには答えなかった。
運河の水面へ視線を落とす。
冷たい夜風が吹いた。
「……短かった」
ぽつりと呟く。
「一瞬だけだ」
「何が見えた」
沈黙。
ヨザキは眉を寄せた。
「血だよ」
イリアスの表情が曇る。
「…誰のだ」
「分からない」
即答だった。
「場所も」
「……」
「本当に一瞬だったんだ」
ヨザキは口をつぐむ。
「外れりゃいいけどな」
イリアスが呟く。
「そうだね」
だが、その声はどこか弱々しい。
「今まで外れたことがないから困ってるんだ」
紫の瞳が、夜の運河を映したまま揺れていた。
「勇者くん達には話さないんだな」
「話さないよ」
ヨザキは自嘲気味に笑った。
「僕の見たものなんて、外れてくれるのが一番だからね」
「……」
「そんなものを他人へ背負わせる気はないよ」
夜風が吹く。
しばらく沈黙が落ちた。
やがてイリアスが大きくため息を吐く。
「はぁー……」
わざとらしい声だった。
「ぶっきらぼうなツンデレ勇者に」
指を一本立てる。
「ちょっとアホな治癒魔法使い」
二本目。
「挙句の果てにイカれた技術者」
三本目。
「胃痛の原因が三人に増えたっつーのに」
「自覚はあるんだね」
ヨザキは嫌そうに顔をしかめた。
「ヨザキはそう思ってんだろ」
ハハッ、と乾いた笑いが溢れる。
「その上で面倒見てくれてんだから、お前も大概お人好しだよ」
「……」
ヨザキは何も答えない。
運河の水面へ映る灯りが静かに揺れていた。
「君にだけは言われたくないな」
ぽつりと。
ヨザキが呟く。
「ん?」
「聖剣を改造したのは君だろ。大変な事に巻き込まれるなんて想像ついてたはずさ」
「……」
「彼からの依頼を引き受けたんだろう?」
今度はイリアスが黙った。
「お互い様だよ」
「ま、そういう事にしといてやる」
「ありがとう」
「感謝するところか?」
夜風が吹く。
遠くでゴンドラの鐘が鳴った。
二人はそれ以上言葉を交わさなかった。
言う必要がなかった。
協力者だからではない。
勇者を匿う仲間だからでもない。
幼い頃から続く腐れ縁だ。
言いたくない事は深く聞かない。
それでも、本当に必要な時だけは隣に立つ。
そんな関係だ。
運河の水面へ映る灯りが静かに揺れる。
今だけは。
誰にも聞かせられない内緒話を共有するような、ただの悪友だった。
塾へ戻ると、真っ先に水音が聞こえてきた。
「だから違うって!」
「違わねえ!」
教室の奥から騒がしい声が響いている。
ヨザキとイリアスは顔を見合わせた。
「…何をやってるんだろうね」
「どうせ痴話喧嘩だろうよ」
台所を覗く。
そこには泡だらけになったオサリアと、頭を抱えるペプシルの姿があった。
「うちはちゃんと洗った!」
「洗剤でびしょ濡れにしただけだろ!」
「綺麗になったもん!」
「床もな!」
「それはごめん!!」
「さっさと拭くぞ!」
ヨザキは静かに扉を閉めた。
「現実逃避するな」
イリアスが言った。
「いつもああなのかい」
「おう、賑やかだよな」
「…今まで見てきたなら君も止めなよ」
「面白いじゃん」
「……」




