第5章:二人きりの放課後
保健室の空気が、わずかに張り詰める。
「保健委員としての確認よ」
相沢は静かに言った。
声音は落ち着いているが、意図ははっきりしている。
「桜井さん、一部で誤解を招く行動があるって話が出てるの」
言葉を選んでいる。
だが、内容は隠していない。
「具体的には?」
桜井は、普段と変わらない穏やかな表情で問い返した。
「生徒との距離感」
短い言葉。
「特定の男子と頻繁に接触している、って」
その視線が、こちらに向く。
つまり、俺のことだ。
「……それ、問題になるのか?」
思わず口を挟む。
「なるわ」
相沢は即答した。
「立場を考えなさい」
冷静な言い方。
だが、容赦はない。
「保健委員は、生徒全体に対して公平であるべき」
「それは分かるけど」
「なら話は早いわ」
言葉を被せてくる。
「特定の人間にだけ距離が近いのは、誤解を生む」
正論。
完全に正論だ。
だが――。
「私は」
静かに、桜井が口を開いた。
「特定の方だけを特別扱いしているつもりはありません」
その声は、いつも通り穏やかだった。
「来てくれた方に、ちゃんと向き合っているだけです」
言葉は柔らかい。
だが、その奥には確かな芯がある。
相沢は一瞬だけ黙った。
「……それは理解しているわ」
予想外の言葉。
「あなたが真面目にやってることくらい、見れば分かる」
少しだけ、空気が緩む。
だが――。
「でも、それでも“見え方”は変わらない」
すぐに元に戻る。
「結果的に誤解を招いているなら、それは改善すべきよ」
やはり論理。
感情を一切排除した結論。
桜井は、少しだけ目を伏せた。
「……はい」
否定しない。
受け入れている。
その様子に、胸の奥がざわつく。
納得しているわけではない。
それでも、受け入れている。
それが、妙に引っかかった。
「……分かったならいいわ」
相沢は小さく息を吐いた。
「私は忠告しただけ」
それだけ言って、踵を返す。
扉に手をかける。
そして――。
「神崎」
振り返らずに名前を呼んだ。
「あなたも、少しは考えなさいよ」
それだけ言い残して、保健室を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
静寂。
さっきまでの会話が嘘のように、空気が静まる。
「……すみません」
最初に口を開いたのは桜井だった。
「え?」
「私のせいで、変なことに巻き込んでしまって」
申し訳なさそうに微笑む。
違う。
「関係ないだろ」
即座に否定する。
「俺が勝手に来てるだけだし」
「でも」
「それに」
言葉を重ねる。
「間違ってるとは思ってない」
少しだけ強く言った。
彼女は、驚いたように目を見開く。
「来たいから来てるだけだし」
「……神崎くん」
その声は、ほんの少しだけ震えていた。
だが、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「ありがとうございます」
柔らかい言葉。
けれど、どこか無理をしているようにも見えた。
「……大丈夫か?」
思わず聞く。
「はい」
即答。
「大丈夫です」
繰り返す。
だが――。
ほんの一瞬。
その表情に、影が差した。
すぐに消えた。
見間違いかと思うほど一瞬で。
それでも。
確かに見えた。
あの笑顔の奥にある、ほんの少しの“弱さ”。
「……」
何か言おうとして、やめる。
軽々しく踏み込んでいいものじゃない。
だが。
このまま何も言わないのも違う気がした。
「……今日、放課後空いてる?」
気づけば、そんなことを聞いていた。
「え?」
今度は彼女が戸惑う番だった。
「その、用事なければだけど」
言いながら、少しだけ後悔する。
急すぎる。
だが――。
「……はい」
小さく頷いた。
「特に予定はありません」
「じゃあ」
言葉を続ける。
「少しだけ、話さない?」
理由は特にない。
ただ。
あの“影”が気になった。
彼女は、ほんの少しだけ考えてから――。
「はい」
もう一度、頷いた。
「……嬉しいです」
その言葉は、さっきまでとは少し違う響きを持っていた。
そして放課後。
夕日が差し込む保健室。
昼とは違う、少しだけ静かな時間。
二人きりの空間。
そこで――。
きっと、何かが変わる。
そんな予感がしていた。




