第3章:正論と誤解のあいだ
昼休みの終わり際。
教室にはまだ、食後のゆるい空気が残っていた。
誰かが笑い、誰かが机に突っ伏し、誰かがスマホをいじっている。
そんな中で、俺はひとり、ぼんやりと前を見ていた。
――行くか。
もう、迷う必要はない。
この数日で分かったことがある。
理由なんて、後からいくらでも付けられる。
立ち上がろうとした、その時だった。
「神崎」
呼び止められる。
振り返ると、そこにいたのは見慣れない顔だった。
いや、正確には“見たことはある”。
同じ学年で、よく目立つ存在だからだ。
黒髪ロング。
整った顔立ちに、隙のない雰囲気。
そして、どこか冷静で近寄りがたい空気。
二年A組、クラス委員長――相沢凛。
「少し、いいかしら」
落ち着いた声。
断る理由もなく、軽く頷く。
「何か用?」
「単刀直入に聞くわ」
彼女は一歩近づく。
距離は適切。
だが、その視線はまっすぐで逃げ場がない。
「最近、保健室に通ってるって聞いたんだけど」
なるほど。
そういうことか。
「まあ、少し」
「その理由、聞いてもいい?」
問い方は丁寧。
だが、逃がさない意図がはっきりと見える。
「体調崩しただけだよ」
「一回ならそうでしょうね」
即座に返される。
「でも、何度も通う理由にはならないわ」
正論。
否定のしようがない。
「……で?」
あえて続きを促す。
彼女は一瞬だけ間を置いてから、言った。
「桜井桃花と、関わってるの?」
やはりそこに繋がる。
「まあ、保健委員だし」
「そういう意味じゃないわ」
被せるように言われる。
「“どういう関わり方をしてるのか”を聞いてるの」
少しだけ鋭さが増した。
ここまで来ると、さすがに分かる。
彼女は、あの噂を信じている側だ。
「普通だよ」
「普通?」
「普通に話して、普通に対応してもらってるだけ」
昨日と同じ答え。
だが――。
彼女は納得しなかった。
「……本気で言ってるの?」
わずかに眉が寄る。
「どういう意味?」
「そのままの意味よ」
彼女は腕を組む。
「あなた、見る目なさすぎじゃない?」
はっきりと言い切った。
空気が、少しだけ変わる。
「どう見ても、あの子は“そういうタイプ”でしょ」
“そういうタイプ”。
言葉は濁しているが、意味は十分伝わる。
胸の奥に、軽い違和感が生まれる。
そして、それはすぐに――苛立ちに変わった。
「……それ、見たことあって言ってるのか?」
気づけば、口調が少しだけ強くなっていた。
「ないわ」
彼女は即答した。
「でも、あの見た目で、あの立ち位置。噂も多い」
淡々とした説明。
「合理的に考えれば、答えは一つでしょ」
なるほど。
論理としては、一貫している。
だからこそ厄介だ。
「じゃあさ」
俺は一歩踏み込む。
「その“合理的な判断”、間違ってる可能性は考えないのか?」
彼女の目が、わずかに細くなる。
「もちろんあるわ」
意外な答え。
「でも、その場合は証拠が必要」
「証拠?」
「ええ」
彼女はまっすぐこちらを見る。
「感情じゃなくて、事実で否定して」
冷静。
徹底的に冷静だ。
だからこそ、逆に熱くなる。
「じゃあ言うけど」
言葉を選ばずに続ける。
「あの人、普通に優しいぞ」
一瞬、沈黙。
そして――。
「それだけ?」
あまりにもあっさりと返された。
「……は?」
「優しい人なんて、いくらでもいるわ」
確かに、その通りだ。
「それで、その噂を全部否定できる?」
ぐうの音も出ない。
理屈では、完全に負けている。
だが。
「少なくとも」
言葉を絞り出す。
「俺が見た限りでは、あの噂とは違う」
それだけは、譲れない。
彼女は、しばらくこちらを見つめていた。
そして、ふっと息を吐く。
「……なるほどね」
少しだけ、表情が緩んだ。
「意外と頑固なのね」
「悪いかよ」
「いいえ」
首を横に振る。
「むしろ、そういう人は嫌いじゃないわ」
意外な言葉だった。
「ただ」
彼女は一歩下がる。
「それが間違ってた時、ちゃんと認めなさいよ」
最後にそう言い残す。
そして、そのまま背を向けて歩き出した。
黒髪が揺れる。
無駄のない動き。
――やりにくい相手だ。
だが同時に、分かりやすくもある。
感情ではなく、論理で動く人間。
だからこそ。
あの人とは、正反対だ。
気づけば、時間が少し過ぎていた。
――行くか。
再び廊下へ出る。
さっきよりも、少しだけ足取りが重い。
理由は分かっている。
さっきの会話が、頭に残っているからだ。
保健室の前に立つ。
コンコン、とノック。
「どうぞ」
同じ声。
扉を開ける。
「あ、神崎くん」
いつもの笑顔。
それを見た瞬間――。
さっきまでの空気が、嘘のように軽くなった。
「どうしましたか?」
「ちょっと、来たくなって」
正直に言う。
彼女は一瞬だけ驚いて、それから優しく笑った。
「嬉しいです」
その一言で。
さっきの議論が、どうでもよくなる。
理屈じゃない。
証拠でもない。
ただ、この人は――。
ここにいていい人だと思った。
それだけで、十分だった。




