第1章:噂と天使(後編)
教室に戻ると、昼休みの空気とは違う、どこか気だるい午後の空気が漂っていた。
黒板の前では教師が何かを書いている。
だが、その内容はほとんど頭に入ってこない。
意識の半分以上が、さっきの出来事に引っ張られている。
桜井桃花。
ピンク髪で、やけに目立つ保健委員。
そして――。
驚くほど、普通に優しい人間。
「おい、大丈夫だったのか?」
隣の席の男子が小声で話しかけてくる。
「まあ、軽い貧血みたいなもん」
「へえ。で、どうだった?」
「何が」
「何がって……保健室だよ」
にやにやとした顔。
どういう意味で聞いているのかは、言われなくても分かる。
「普通だったよ」
「普通?」
「普通に対応してもらっただけ」
あえて感情を抑えて答える。
だが、相手は納得していない様子だった。
「いやいや、あの子だぞ?」
「だから?」
「いや、だからさ……」
言い淀む。
結局、はっきりとは言わない。
言わなくても分かると思っているのだろう。
――なんとなく、分かってしまう。
さっきまでの俺も、きっと同じ側にいた。
直接知らないのに、雰囲気や噂だけで判断する側に。
「別に、普通の人だった」
今度は少しだけ強めに言った。
自分でも意外なくらい、はっきりと。
「……へえ」
相手は少しだけ眉をひそめた。
興味が失せたのか、それ以上は何も言ってこない。
それでいい。
無理に理解させる必要はない。
俺自身、まだ完全に理解しているわけじゃない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
あの場所は、少なくとも噂通りの空間ではなかった。
授業が終わる。
放課後のざわめきが教室に満ちていく。
部活へ向かう者、友人と帰る者、残って雑談を続ける者。
それぞれが、それぞれの時間へ移っていく。
俺は席に座ったまま、ぼんやりと窓の外を見ていた。
夕方にはまだ少し早い。
柔らかな光が校庭を照らしている。
――行く理由なんて、ないはずだ。
体調はもう問題ない。
用事もない。
わざわざ保健室に行く理由は、どこにもない。
それでも。
立ち上がっていた。
気づけば、廊下を歩いている。
足取りは自然で、迷いはなかった。
まるで最初から決まっていたかのように。
保健室の前に立つ。
昼と同じ扉。
同じ場所。
だが、少しだけ違う。
今は、理由がない。
ノックをするか、一瞬迷う。
だが――。
コンコン、と軽く叩いた。
「どうぞ」
やはり同じ声。
変わらない、柔らかな響き。
扉を開ける。
「あ」
彼女は少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
だがすぐに、あの穏やかな笑顔に戻る。
「神崎くん」
名前を呼ばれた。
それだけで、なぜか少しだけ胸が熱くなる。
「どうしましたか?」
「えっと……」
言葉が詰まる。
理由なんてないのだから当然だ。
「その……もう大丈夫なんですけど」
「はい」
「一応、様子を見てもらった方がいいかなって」
我ながら苦しい言い訳。
だが彼女は、まったく疑う様子もなく頷いた。
「そうですね。念のため、確認しておきましょうか」
自然すぎる受け入れ。
その一言で、妙な緊張がほどける。
「こちらへどうぞ」
昼と同じように案内される。
同じベッド。
同じ距離感。
「失礼しますね」
また、手首を取られる。
今度は、少しだけ慣れている。
それでも、やはり意識してしまう。
「うん、もう大丈夫そうですね」
彼女は安心したように微笑む。
「良かったです」
その言葉が、やけに素直に胸に入ってくる。
「……本当に、優しいですね」
気づけば、そんなことを口にしていた。
「え?」
彼女はきょとんとした表情を浮かべる。
「いや、その……」
慌てて言い直そうとする。
だが、うまく言葉がまとまらない。
「普通に対応してもらってるだけなんですけど」
なんとかそう付け加える。
すると彼女は――。
「それが、私の役目ですから」
少しだけ照れたように笑った。
その表情に、一瞬だけ目を奪われる。
――やっぱり違う。
噂で語られていた人物像とは、どうしても結びつかない。
「でも」
彼女が続ける。
「神崎くんは、ちゃんとお礼を言ってくれました」
その一言に、少しだけ驚いた。
「それって、当たり前じゃないですか」
「そうですね」
彼女は頷く。
「でも、当たり前のことを当たり前にできる人って、意外と少ないんですよ」
静かな声。
けれど、どこか実感のこもった響きがあった。
「……そうなんですか」
それ以上、何も言えなかった。
少しだけ沈黙が落ちる。
だが、不思議と居心地は悪くない。
「神崎くん」
再び名前を呼ばれる。
「はい」
「また来てくれて、嬉しいです」
その言葉は、あまりにも自然に紡がれた。
だが、その意味は軽くない。
心臓が、わずかに跳ねる。
「……そう、ですか」
どう返せばいいのか分からない。
曖昧な返事しかできなかった。
「はい」
彼女は穏やかに頷く。
「ここ、あまり人が来ないので」
少しだけ寂しそうな声。
ほんのわずかに影が差す。
――ああ、なるほど。
噂のせいか。
誰も近づかない。
だから、来た人には優しくなる。
そう考えると、色々なことが繋がる気がした。
「……じゃあ、また来ます」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
「はい」
彼女は、少しだけ嬉しそうに微笑む。
「待ってますね」
その一言が、妙に心に残る。
保健室を出る。
廊下の空気は、やはり少し違って感じた。
――誤解、か。
あの人は、きっと誤解されている。
見た目だけで判断されて、勝手にイメージを押し付けられて。
そして――。
それでも、あの笑顔を崩さない。
その事実が、妙に引っかかった。
ただの優しさでは説明できない何か。
だからきっと。
俺はこれからも、あの場所に行く。
理由はまだ、はっきりしない。
だが少なくとも――。
あの人のことを、もっと知りたいと思っている。
それだけは、確かだった。




