第1章:噂と天使(前編)
――あの子、絶対ヤバいって。
「いや、だってさ、あの見た目で保健委員って逆に怪しくない?」
「分かる。なんか男に媚びてそうな感じするよね」
昼休みの教室。
弁当の蓋を開けるよりも先に、そんな声が耳に入ってきた。
話題の中心は、言うまでもない。
ピンク色の髪。
やけに目立つ色なのに、手入れは行き届いていて不思議と下品さがない。
そして、制服越しでも分かるほどの豊かな胸元。
この学校で彼女を知らない者はいない。
二年生の保健委員――桜井桃花。
「どう思う、あれ」
向かいの席の男子が、興味本位と軽い悪意を混ぜた視線をこちらに向けてくる。
俺は箸を持つ手を止め、少しだけ考えてから答えた。
「別に。見たことないし、よく知らない」
「えー、マジかよ。あんな目立つのに?」
「目立つのと中身は別だろ」
自分でも、随分と曖昧な返答だと思う。
だがそれ以上の言葉は出てこなかった。
実際、俺は彼女のことをほとんど知らない。
廊下ですれ違ったことがあるくらいで、話したことすらない。
それでも――。
どこか違和感があった。
彼らの語る「桜井桃花」と、俺が遠目に見た彼女の印象が、微妙に噛み合わない。
そのズレが、気になって仕方がない。
午後の授業が始まってから、しばらく経った頃だった。
板書の文字を追っていた視界が、ふっと揺れる。
軽い立ちくらみ。
大したことはないと思ったが、どうにも集中できない。
教師の声も、どこか遠くに聞こえる。
体調を崩すほどのことはしていないはずだが――。
ふと、朝から何も食べていなかったことを思い出した。
どうやらそれが原因らしい。
情けない話だ。
仕方なく手を挙げる。
「先生、少し気分が悪いので保健室に行ってもいいですか」
「顔色悪いな。行ってこい」
あっさりと許可が下りた。
教室を出て、廊下を歩く。
昼の喧騒が嘘のように静かで、足音だけがやけに響く。
保健室の扉の前で、ほんの一瞬だけ躊躇した。
理由は分かっている。
あの噂が、頭の片隅に残っているからだ。
――馬鹿らしい。
そう思い直し、ノックをする。
「どうぞ」
柔らかい声が返ってきた。
その一言だけで、なぜか少しだけ緊張が解ける。
扉を開けた。
そこにいたのは、噂の中心にいる少女だった。
窓から差し込む光を背にして、白衣姿で立っている。
ピンク色の髪は肩のあたりで揺れ、柔らかく光を反射していた。
そして――。
目が合った瞬間、彼女はふわりと微笑んだ。
「どうしましたか?」
その声は、想像していたものとはまるで違う。
軽さも、媚びもない。
むしろ、驚くほど落ち着いていて、優しい響きがあった。
「少し、気分が悪くて」
「そうなんですね。こちらへどうぞ」
彼女は自然な仕草でベッドの方へ案内する。
距離が近い。
思ったよりもずっと近くに立たれて、ほんの少しだけ意識が揺れた。
だが、その動きにいやらしさは感じない。
あくまで自然で、当たり前の距離感。
それが逆に不思議だった。
「失礼しますね」
手首を取られる。
体温が、じんわりと伝わってきた。
脈を測っているのだろう。
分かっているのに、妙に意識してしまう。
「少し弱っていますね。朝ごはん、食べましたか?」
図星だった。
「……食べてないです」
「やっぱり。無理はよくないですよ」
彼女は小さく笑う。
その笑顔には、嘲りも呆れもない。
ただ、純粋な心配だけがあった。
――あれ?
頭の中で、何かがずれる。
昼休みに聞いた言葉と、今目の前にいる彼女。
その間にある距離が、急に広がった気がした。
「少し横になりましょうか」
「はい」
言われるままベッドに腰を下ろす。
カーテンが引かれ、外界が少しだけ遮断される。
白い布越しに、柔らかな光が差し込む。
妙に落ち着く空間だった。
「今、軽いものを持ってきますね」
「すみません」
「気にしないでください」
彼女はそう言って、すぐ近くの棚へ向かう。
その後ろ姿を、ぼんやりと見つめた。
歩き方ひとつ取っても、どこか丁寧だ。
雑さがない。
無意識にそう感じてしまう。
「どうぞ」
差し出されたのは、小さなゼリー飲料だった。
「これなら、今でも大丈夫だと思います」
「ありがとうございます」
受け取るとき、指が触れる。
ほんの一瞬。
それだけなのに、妙に印象に残った。
「名前、教えてもらってもいいですか?」
唐突な質問。
だが、保健委員としては当然かもしれない。
「二年C組の、神崎です」
「神崎くんですね」
彼女はすぐに名前を繰り返した。
その呼び方が、やけに自然だった。
まるで前から知っていたかのように。
「神崎くん、少し無理しがちなところありませんか?」
「え?」
「顔に出てますよ」
そう言って、彼女は少しだけ首を傾げる。
柔らかな仕草。
どこか子供っぽさすら感じる動きなのに、不思議と幼くは見えない。
むしろ、安心感に近いものがある。
――噂って、なんだったんだ。
思考が、少しずつ書き換えられていく。
軽い。
遊んでいる。
男好き。
そんな言葉は、目の前の彼女にはどうしても当てはまらない。
少なくとも、今この瞬間に限って言えば。
「少し休めば、すぐ良くなると思います」
「ありがとうございます」
「いえ」
彼女は微笑む。
その笑顔は、最初に見たときと変わらない。
飾り気がなく、ただ優しい。
どれくらい時間が経っただろうか。
体調は、思ったよりも早く戻ってきた。
起き上がると、カーテンの向こうで彼女が何かを書いているのが見えた。
「もう大丈夫そうですか?」
「はい。だいぶ楽になりました」
「それは良かったです」
彼女はペンを置き、こちらに向き直る。
ほんの少しだけ、沈黙が落ちた。
だが不思議と気まずさはない。
むしろ、このまま話していたいとすら思う。
理由は分からない。
「……あの」
口を開いたのは、ほとんど衝動だった。
「はい?」
「さっきの、ありがとうございます」
改めて礼を言う。
すると彼女は、少しだけ目を丸くした。
そして――。
「ふふっ」
小さく笑う。
「どういたしまして」
その笑い方が、やけに印象に残った。
作ったものではない。
自然にこぼれたような、そんな笑顔。
「神崎くん」
呼び止められる。
振り返ると、彼女は少しだけ距離を詰めてきた。
近い。
さっきよりも、ほんの少しだけ。
「また、無理しそうになったら来てくださいね」
穏やかな声。
だが、その中にほんのわずかな“個人的な温度”が混じっている気がした。
「……はい」
短く答える。
それ以上の言葉が出てこなかった。
「待ってますから」
その一言で、胸の奥がわずかに揺れた。
理由は分からない。
ただ――。
また来よう、と思ってしまった。
保健室を出る。
廊下の空気が、少しだけ違って感じた。
――あれは、本当に噂通りの人間なのか。
答えは、もう分かりかけている。
それでも、確信には至っていない。
だからきっと、俺はまたあの場所へ行く。
確かめるために。
そして――。
もう一度、あの笑顔を見るために。




