第12章:踏み込む理由
相沢の視線が、ゆっくりと二人の間をなぞる。
「……なるほど」
小さく呟いたその一言が、やけに重く響いた。
桜井は、ほんの一瞬だけ表情を固める。
だがすぐに、いつもの柔らかい顔に戻った。
「何か用ですか?」
落ち着いた声。
「ええ」
相沢は一歩中に入る。
「少し確認したいことがあって」
扉を閉める。
逃げ場がなくなるような音。
「確認?」
俺が聞き返す。
「そう」
相沢は、はっきりと頷いた。
「さっきまでのやり取りを見て、少し気になったの」
その視線は、まっすぐ桜井へ向いている。
「桜井さん」
「はい」
「あなた、方針を決めたんじゃなかったの?」
静かな問い。
だが、その奥には明確な圧がある。
桜井は、わずかに間を置いた。
「……決めました」
はっきりと答える。
「でも」
続ける。
「全部を変えるわけではありません」
視線を逸らさずに言う。
「人によって、少しずつ変えることにしました」
その言葉に、相沢の眉がわずかに動く。
「……随分と都合のいい結論ね」
冷静な評価。
「そうかもしれません」
桜井は否定しない。
「でも、それが一番納得できる形でした」
その声には、迷いがなかった。
昨日までとは違う。
“決めた人間”の声。
相沢はしばらく黙っていた。
そして――。
「理由は?」
短く聞く。
「来てくれる人を、大切にしたいからです」
即答だった。
「その中で、誤解を減らせるところは減らす」
「でも、全部を捨てることはしたくない」
一つ一つ、言葉を積み重ねる。
それは、理屈ではなく。
本音だった。
相沢は、その言葉を黙って聞いている。
表情は変わらない。
だが。
「……なるほどね」
小さく息を吐いた。
「一応、筋は通ってる」
完全な否定ではない。
それだけで、空気が少し緩む。
「ただ」
すぐに続ける。
「それが周囲にどう見えるかは、別問題よ」
やはり、そこに戻る。
「はい」
桜井は頷く。
「それも含めて、受け入れます」
迷いのない答え。
その瞬間。
相沢の目が、わずかに細くなった。
「……本気みたいね」
「はい」
静かな肯定。
数秒の沈黙。
そして。
「分かったわ」
相沢はそう言った。
「そこまで言うなら、もう止めない」
意外な言葉だった。
「ただし」
指を一本立てる。
「問題が起きた時は、ちゃんと自分で対処しなさい」
「逃げないこと」
その言葉は、厳しいが――。
どこか、認めているようにも聞こえた。
「はい」
桜井はしっかりと頷く。
それを見て、相沢は小さく息を吐いた。
そして。
視線がこちらに向く。
「神崎」
「なに」
「あなたも」
少しだけ言葉を区切る。
「その一部になってる自覚、持ちなさい」
前と同じようでいて、少し違う言い方。
「……分かってるよ」
今度は、少しだけ実感があった。
これはもう、他人事じゃない。
「ならいいわ」
短く言う。
そして、踵を返す。
扉へ向かう途中。
ふと、足を止めた。
「……桜井さん」
振り返らずに言う。
「あなた、思ってたより面倒なタイプね」
その一言。
だが――。
ほんの少しだけ。
声音が柔らかかった。
「……そうかもしれません」
桜井は、小さく笑って答える。
それを聞いて、相沢は何も言わずに保健室を出ていった。
扉が閉まる。
静寂。
だが、今までとは違う。
重さではなく、どこかすっきりした空気。
「……終わった?」
思わず呟く。
「たぶん」
桜井が少しだけ笑う。
そして。
「神崎くん」
名前を呼ばれる。
「はい」
「さっきの話なんですけど」
少しだけ近づく。
さっき決めた距離。
だが。
その一歩は、ほんの少しだけ近かった。
「これからも、来てくれますか?」
静かな問い。
確認するような。
少しだけ、不安を含んだ声。
「……来るよ」
即答する。
「理由は?」
小さく聞かれる。
少しだけ考えて――。
「来たいから」
シンプルに答える。
一瞬、沈黙。
そして。
「……ふふっ」
彼女は、嬉しそうに笑った。
「それが一番、嬉しいです」
その言葉とともに。
距離が、ほんの少しだけ縮まる。
もう、迷いはない。
少なくとも――。
今、この瞬間だけは。
そう思えた。




