第11章:揺れる境界線
扉が閉まったあとも、しばらく沈黙が続いた。
七瀬の残した言葉が、空気の中にそのまま漂っているようだった。
――そのままじゃ、もったいないよ?
軽い一言。
だが、妙に引っかかる。
「……神崎くん」
静かな声が、沈黙を破る。
「さっきの、本音ですか?」
同じ問い。
逃げ場はない。
「……本音」
繰り返す。
視線を逸らさずに答えた。
数秒の間。
桜井は、じっとこちらを見ていた。
そして――。
「……そっか」
小さく呟く。
その表情は、少しだけ困ったようにも見えた。
「やっぱり、難しいですね」
苦笑する。
「何が?」
「ちょうどいい距離」
短い答え。
それが、今の全部を表している気がした。
「遠すぎると、来てくれなくなる気がして」
「近すぎると、誤解されて」
「どっちも、嫌で」
ぽつり、ぽつりと続く言葉。
迷いが、そのまま形になっている。
「……だったらさ」
気づけば口を開いていた。
「人によって変えればいいんじゃない?」
「え?」
桜井が少しだけ目を丸くする。
「全員に同じ距離じゃなくて」
「来るやつによって、少し変えるとか」
自分でも適当なことを言っている気がする。
だが――。
「……それ、ずるくないですか?」
少しだけ笑いながら言う。
「ずるい?」
「はい」
頷く。
「でも」
少しだけ視線を逸らしてから。
「その方が、楽かもしれません」
素直な答え。
その言葉に、少しだけ安心する。
完璧じゃなくていい。
正しくなくてもいい。
そう思えた。
「……じゃあ」
彼女は、ゆっくりとこちらを見る。
「神崎くんには、どうしますか?」
問い返される。
少しだけ考える。
だが。
「今まで通りでいい」
即答だった。
一瞬、沈黙。
そして。
「……それ、本気ですか?」
少しだけ低い声。
「本気」
迷いなく答える。
彼女は、しばらくこちらを見ていた。
その視線は、今までとは少し違う。
探るような。
確かめるような。
「……じゃあ」
小さく息を吸う。
「少しだけ、甘えますね」
その一言で。
距離が、一気に縮まる。
昨日までの距離。
いや、それ以上かもしれない。
「ちょ、近いって」
思わず声が出る。
「ダメですか?」
上目遣い。
わざとかどうか分からない。
だが。
明らかに、前よりも意識してやっている。
「……いや、ダメじゃないけど」
言葉に詰まる。
距離が近い。
視線も近い。
そして何より。
さっきまでよりも、“距離を縮める意思”が見える。
それが一番、意識させられる。
「……変な感じですか?」
少しだけ不安そうな声。
「いや」
正直に答える。
「ちょっとドキッとする」
言ってから、しまったと思う。
一瞬の沈黙。
そして――。
「……そうなんですね」
彼女は、少しだけ照れたように笑った。
その反応に、逆にこっちが焦る。
「いや、今のはその」
「大丈夫です」
優しく遮られる。
「私も、少しだけドキッとしてます」
さらっと言う。
その一言で。
心臓が、明らかに大きく鳴る。
――やばい。
これはもう、誤魔化せない。
ただの“保健室に来る生徒”じゃない。
ただの“優しい保健委員”でもない。
完全に。
意識している。
その時。
コンコン、とノックの音。
距離が、一瞬で離れる。
「どうぞ」
いつもの声。
扉が開く。
「失礼するわ」
現れたのは、相沢だった。
その視線が、二人の間をゆっくりと行き来する。
そして。
「……なるほど」
小さく呟いた。
何かを理解したような顔。
その表情に、嫌な予感が走る。
「少し、話があるわ」
いつも通りの口調。
だが――。
今度は、確実に。
ただの注意では終わらない。
そんな確信があった。




