23.丹念な現場捜査
翌日の午前十時頃、自信満々な状態と確信が揺らいでいる状態とが入り混じった表情で鹿子木が筑波ホビークラブにやってきた。授業が午後からとかで既に筑波ホビークラブに来ていた愛が、洋介のためにアメリカンコーヒーを淹れたところであった。
「洋介さんのお好みに合わせて淹れたので、鹿子木さんにはもっと濃いのを淹れてきますね」
「ああ、愛ちゃん。いつも悪いね」
そう応えてから鹿子木は大きく息を吐いた。いつもは直ぐに洋介に報告するのであるが、この日は、どう話をしたらよいかまだ考えが纏まっていないようであった。
「鹿子木さんの様子からすると、太田さんからの事情聴取は上手くいかなかったのですね?」
この洋介の質問にも答えずにいた鹿子木であったが、愛が目の前に置いてくれたいつも通りの濃いめのコーヒーを一口飲んでから、ようやく昨日のG製薬会社つくば研究所での出来事をかなり詳しく説明した。そして最後にこう付け加えた。
「太田哲也に事件当日のアリバイがないことが分かった時は、太田が犯人で間違いない、と思ったのです。しかし、その後の尋問では太田は落ち着いていて堂々とした対応を取っていました。動機も全くないように振舞っていました。長年の刑事の勘からすれば、犯人にはこちらの付け入る隙が見つけられるものなんですが、太田にはそれができなかった。そうは言っても、確かなアリバイはないのです。ですから、太田が犯人である可能性はまだ十分にあると考えています。まあ、今回の件が殺人事件だとすればという大前提が付いてはいますが」
「そうでしたか。確かに太田さんには十分な動機があったとしても当然なように思われますが、アリバイが証明できないだけでは、現時点でこれ以上太田さんを追及することは難しいかもしれませんね。それでは、太田さん以外の捜査について考えてみましょうか。確かに、元研究部門会事務局担当者だった安田さんや、その他の岩宿さんから酷い目に遭わされた人たちに関する訊き込みを早めに行なう必要はありますが、私はちょっと別の角度から探ってみたいと思っているのです。岩宿さんが倒れていた現場の捜査はそれ程きっちりとは行なってはいない、ということでしたよね?」
「この前お話した通りです。まだ事件かどうかも判断できていない状況ですから、数人の刑事たちでそれなりに現場近くを調べた程度のようです」
「そうすると、転落したと思われる崖の上や倒れていた場所のすぐ近くはある程度の捜査がされたとしても、そこから少し離れている場所などの捜査はあまりされていないと考えて良いのですね?」
「そうではないかと思います」
「それでは、岩宿さんが倒れていた現場付近をしっかりと捜査してみませんか? 現場の捜査は隣のM警察署の担当ですから、こちらでやるのは難しいですか?」
「いや、M署では面倒くさい事件にはしたくないようで、今回の件にはあまり積極的には関わりたくないようです。ですから、私の方からお願いすれば、文句は言われるでしょうけど、こっちで捜査することは可能だとは思いますが……」
「まだ事件だと決まっていない状況下では、鹿子木さんの上司の方が人手を割いてくれないと思っているのでしょう?」
「はい、ずばりその通りです」
「だったら、私と鹿子木さんの二人で現場捜査をしましょうよ。それなら、上司の方はダメとは言われないでしょう?」
「はい、私に関して言えば、上司はとっくに諦めていますから、私と神尾さんとで現場を捜査することは全く問題ないでしょう」
「それじゃ、直ぐに現場に行きましょう。愛ちゃん、ご免なさい。今日の受付、お任せしても良いでしょうか?」
「うふふふ。鹿子木さんが来られた時からこうなることは薄々予想していましたわ。こういう状況になったら洋介さんは必ず行ってしまうのですから、これからは私たちが頑張る番ですね。午後の授業が終わったら直ぐにここに戻ってきて、源三郎小父様と一緒に何とかします」
「有難う。本当に愛ちゃんは頼りになります」
少々呆れ顔の愛に愛想を言った洋介は鹿子木を急き立てて表に出て行った。鹿子木は本当に申し訳なさそうに愛に深々と頭を下げてから、それでも来た時よりは少しは足早に洋介の後を追った。
鹿子木の車に乗り込んだ二人はつくば東署に寄り、鹿子木が上司とM署の了解を取り、再び車に乗った。県道十四号線を経て、つくば市上大島で県道四一号線に入ってさらに北へ向かった。
桜川市真壁町白井から長岡付近に車が差し掛かった時、前方の山肌を見て洋介が質問した。
「鹿子木さん、前方の山にいくつか白い所がありますよね。あれって何ですか?」
「ああ、あれですか。『真壁石』の採掘場や自然に露頭している岩場だと思います。これから行く現場も、あんな風に白い岩場が露頭している崖の上と下です」
「ああ、そうか。この辺りは有名な『真壁石』の産地でしたね。沿道にいくつも石屋さんがありますものね」
洋介は一人で頷いて納得した様子であった。
二〇一六年九月に筑波山を中心とした六市に跨る地域が『筑波山地域ジオパーク』に認定された。それ以前は認定に向けて種々の啓発活動が行なわれており、その一環として二〇一三年一月につくば市役所で開催された「ジオパークパネル展と講演会」に洋介は参加したのを思い出した。
講師の話を洋介は非常に興味深く聞き、そこで配布された資料等も持ち帰った。その後、筑波ホビークラブから筑波山を眺める度に、その資料に何度も目を通していたため、筑波山の地形や地質に関して幾ばくかの知識を身に付けていた。
筑波山は美しく広い裾野を持つことから火山だと思われていた時期もあったようだ。しかし、筑波山は火山ではない。この裾野は『山麓緩斜面』という地形なのだそうだ。筑波山の山頂付近は風化され難い『はんれい岩』から成り、裾野の部分はそれよりは風化し易い『花崗岩』で構成されている。山全体が『花崗岩』だけから成るものは風化が進みV字型の谷が形成されてしまうため緩斜面ができ難いが、筑波山のように、風化していく『花崗岩』の上に山頂付近から落ちてきた『はんれい岩』の巨礫があると、集中した水流を作りにくくなり、谷の発達が阻害され、『山麓緩斜面』が存在し続けるということである。
洋介たちが向かっている地区は昔から良質な白系の花崗岩である『真壁石』が産出される地域なのであった。
そこから十分程走り、第一発見者の塩貝明美に呼ばれて駆けつけた救急車が止まった道路脇まで行った。さらに坂道を上り、車一台分くらいのスペースがある所に車を停めて鹿子木が説明した。
「神尾さん、ここに岩宿の車が放置されていたのです。ここに駐車しましょう」
二人は車から降り、山側とは反対の方向に木立の中を下っていくと、白い岩が露頭し崖になっているのが洋介の目に入った。さらに進み白い崖の下に出た。そこはあまり広くはなかったがほぼ平らになっていて、草が所々生えていたり白い岩がいくつか転がっていたりしていた。きっと崖が崩れて岩が落ちてきたのだろうと洋介は考えた。
「ここに岩宿がうつ伏せに倒れていたんです。この石の上にまだ薄く血痕が残っていますよ」
岩宿が倒れていた岩から少し横には灌木が生い茂り、白い崖を縁取るように上まで続いていた。柔らかそうに見える緑の灌木といかにも固そうな白い岩の崖とのコントラストが異様な雰囲気を醸し出していた。切り立った崖の斜面は植物にとっては劣悪な環境にもかかわらず崖の所々には灌木が細々と命を繋いでいた。
「ああ、本当ですね。まだ赤い色が見えますね。ところで、血痕以外に何か事件と関係あるような物が落ちていませんかね。鹿子木さん、捜査用の例の手袋を貸してください」
現場の状況をじっくりと観察した後、洋介はそう言った。
鹿子木から借りた白い手袋を嵌めると、洋介は丹念に崖下を調べ始めた。それを見て鹿子木も手袋を嵌めてから洋介とは異なる方向を探すことにした。
「岩宿さんが倒れていた大きな岩の周りに白い小さな石や砂みたいに細かい石が結構な数見られるな。でも少し離れた所には同じような石や砂はないことはないが、随分と少ないな。岩宿さんの転落と何か関係があるのかな……。それと、岩宿さんが倒れていた大きな岩の傍にほぼ平らな面を持つ黒っぽい岩石があるんだけど、そんな色の石はこの辺りにはこれ一つしかない。何故だろう」
洋介は独り言を言いながら黒っぽい岩石をいろいろな角度から観察した。その後、一時間くらいは崖下を必死で探し回った。しかし、二人の努力の甲斐もなく岩宿の転落と関係がありそうな物は発見できそうもなかった。
「神尾さん、どうやら何も見つかりそうもありませんね」
鹿子木がそう言った直後、白い崖と灌木との境辺りを探していた洋介が大声を出した。
「鹿子木さん、ここにガラスの破片みたいなものが沢山落ちていますよ」
その声に反応して駆け付けた鹿子木も一緒になって観察した。
「これはどうやら鏡が割れたものみたいですね。今回の事件とは無関係かもしれませんが、念のため、採取しておいていただけませんか?」
「はい、勿論です」
そう言うと、鹿子木はピンセットを取り出し、二重にしたポリエチレン袋の中にガラスの破片を慎重に入れていった。ガラスは思っていた以上に沢山の破片に割れていたため、採取し終わるまでにかなりの時間が掛かった。
「これだけ破片があるということは、手鏡のような小さなものではなく、少なくとも卓上用くらいの結構な大きさの鏡だったようですね」
洋介はそう感想を述べたが、鹿子木はあまり関心がないのか軽く頷いただけであった。
崖下の捜査を再開したが、鏡の破片以外には他に何も見つけることができなかった。ようやく崖下での捜査を諦めた洋介は、岩宿が倒れていた場所から崖の上の方向を何回も眺めた。
「鹿子木さん、どうやらここには他の手掛りは残っていないようですね」
「これだけ必死に探しても鏡の破片以外は見つからないのですから、ここでの捜査は諦めた方が良さそうですね」
「お腹も空いたことですし、ここは切り上げて昼飯でも食べに行きませんか?」
「そうしましょうか」
鹿子木は力なく同意し、先ほど下ってきた山道を登って車に戻った。
「鹿子木さん、この近くで昼飯を食えそうなお店を知りませんか?」
「この辺にはあまり店がないようですが、少し車で走ればラーメン屋があったはずです。神尾さんはラーメンでも良いですか?」
「ええ、ラーメンは急に食べたくなる時があります。そんな時はホビークラブから抜け出して食べに行ってしまうくらいですよ。そのラーメン屋に行きましょう」
車で十分程走り、鹿子木がうろ覚えでその存在を知っていたラーメン屋に着いた。
「ああ、店があって良かった。本当を言うとあまり自信がなかったんですよ。何せ、この辺りは私の管轄じゃないものですから」
「覚えていていただいて助かりました。捜査しに来たのに、ラーメン屋探しに沢山の時間を使ってしまっては困りますからね」
洋介は味噌ラーメン、鹿子木は醤油ラーメンを注文した。手持無沙汰の鹿子木に洋介が言った。
「さっき、岩宿さんが倒れていた岩から崖の上を見てみたんですよ。そうしたら、岩宿さんが転落したのはあの辺じゃないかな、と思える所があったんです。警察では既に十分に捜査したのだとは思いますが、我々でもう一度捜査してみませんか?」
「はあ、何度も言っていますように、まだ事件だと確定してはいませんので、遺書らしきものがあるかとか、争った形跡が見られるか、という程度の捜査しかしていないと思いますが……」
「それでは、食べた後は、崖の上の捜査をやりましょうよ」
「そうですね。岩宿が倒れていた崖下では鏡の破片以外には発見できそうにありませんからね」
その後、二人は言葉を交わすことなく、出されたラーメンを流し込んだ。




