24.崖の上
午前中の捜査の際に駐車した場所に再び車を停め、今度は少し山道を登って崖の上を目指した。そこは崖下ほどの広さではなかったが露出した白い岩がほぼ平らになった岩場で、その周りには灌木が生えていて、ここも白と緑との対比が印象的であった。
「鹿子木さん、岩宿さんが落ちたか落とされたかした可能性のある場所は分かっているのですか?」
「はい、恐らくここだと考えられている所はあります。崖の際の一部が崩れ、その直ぐ下のブッシュの枝が折れていた所がありましたので、恐らくそこから岩宿は落ちたのであろうと考えています」
鹿子木はそう言った後、指でその場所を示した。そこにも崖下で見たのと同じような大きさで上がほぼ平らな黒っぽい岩石が一つだけポツンとあった。洋介はその岩石の近くまで慎重に歩き、その石も触ったり眺めたりしてよく観察した後、崖際に進んで下を眺めた。
「成る程、ここですね……。確かに、ここは白い岩石が崩れたようになっていますね。それから、この黒っぽい岩石の隣の崖際に同じくらいの大きさの岩石があったような跡がありますね。もしかしたら、この黒っぽい岩石の隣に、同程度の大きさの岩石があって、それと一緒に岩宿さんが転落したのかもしれませんね。崖下にあった黒っぽい岩石がその落ちた岩石かもしれません。その時に白い石が砕かれたのかな。崖が崩れたようになっている所の直ぐ下の灌木の枝も折れたままになっていますね」
「神尾さんが立っている場所のすぐ向うは崖ですから、あまり前に行かないようにしてください。非常に危険ですから」
「はい、気を付けます。さてと、この辺りは警察で捜査済なので、ここから少し離れた所を探しましょう」
洋介はラーメンを食べる時に外していた白い手袋を再度嵌めると、岩宿が落ちたと思われる場所からある程度離れた所まで歩き、地面に這いつくばるような格好で丹念に捜査し始めた。それを見た鹿子木も慌てて洋介とは別の方角に歩き、捜査に取り掛かった。
捜査を開始してからおよそ一時間が経過したが、何一つ目ぼしいものは発見できなかった。元々この捜査にそれ程意欲を持って臨んではいなかった鹿子木が先にギヴアップ宣言を出した。
「神尾さん、これだけ探しても何一つ収穫がないのですから、そろそろ撤収しませんか?」
「そうですね。崖の上には崖下にあった黒っぽい岩石と似た岩石があったこと、その隣の崖際に同じくらいの大きさの岩石があったと思われる跡が残っていたこと、その付近に白い石の崩れたものがあること、それと崖際の直ぐ下の灌木が折れていること以外には、事件の痕跡らしき物は残ってはいないようですね。それではここと下の平らな場所との間を捜査しましょう」
「ここと下との間って、崖の急斜面を調べるのですか?」
鹿子木は洋介が正気かどうかを確かめるような口調で言った。
「はい、そうです。崖はほとんどが岩でできているようですが、背の低い木が生えている所もあります。そこを探しましょう」
「どうやって木が生えている所に行くのですか?」
捜査を早く切り上げたい鹿子木は、洋介が言うような捜査ができない理由を挙げた。
「崖の上から直接行くのは無理でしょうね。でも、ほら、向う側には傾きが緩やかになっている所がありますよ。あそこからなら崖の中腹の少し木が生えている所には行けると思うのです。何となくですが、中腹の木に白っぽいものがあるように見えるのです。さあ、行きましょう」
確かに今洋介たちがいる場所から見ると、崖に向かって右側には傾斜がほんの少しだけ緩やかに見える所があった。洋介は喋り終わらないうちに崖の右手の方に向かって歩き始めた。その後を鹿子木がしぶしぶ続いた。
しばらく歩くと崖の中腹に行けると洋介が判断した場所に着いた。崖の上から見た時は頑張れば木の生えている所に行けそうに思えたのであるが、いざそこに着いてから改めて目的地を見てみると、かなりの急斜面を横に移動していかないと辿り着けないように鹿子木には思われた。
「神尾さん、これは危険ですよ。無理して行って落ちでもしたら岩宿の二の舞になってしまいますよ。それにここから見た感じでは、白っぽい物なんてなさそうですよ」
「いや、せっかくここまで来たのですから、行ける所まで行ってみます。少なくとも白っぽいものがあるかどうかだけでも確かめてみたいのです」
洋介は自分のすぐ傍に生えていた灌木の根本付近を右手で掴むと、ゆっくりと体を反転させて崖にへばり付くような格好になり、左足が踏ん張れそうな所を探した。左足に力が入るようになると次に左手で次の木の根本を持った。今度はその根本を右手に持ち替え、右足を左足があった所に移動させ、自由になった左足が踏ん張れる所を探した。この動作を繰り返し、かなりの時間を掛けて崖の中腹の中央部分まで進むことができた。
「神尾さん、何か目ぼしい物がありますか?」
鹿子木は後でただただ見ているだけであったが、洋介に声を掛けた。
「あと一メートルくらいの所に何か白っぽい物が木の枝に引っ掛かっているのが見えるのですが、次の足場が見つからないのです」
「神尾さん、無理しないでくださいよ。こんな所で落ちたら本当に大変な事になってしまいますから」
「はい、分かりました。でももう一歩なんです」
そう言うと、洋介は思い切って最後の一歩を踏み出し、目的の白い物を掴もうとした。
「あっ、危ない!」
鹿子木の引き攣ったような声がする直前に、洋介の体がずり落ちそうになった。右手で掴んでいた木が折れてしまったのだ。さらに踏み出した左足の足場も崩れ、洋介の体は崖下に落ちそうになった。鹿子木は思わず目を瞑ってしまった。
恐る恐る開けた鹿子木の目に、必死で別の木の枝に右手で掴まっている洋介の姿が飛び込んだ。
「神尾さん、大丈夫ですか?」
洋介は鹿子木の問に答えもせず、やっとのことで両方の足を踏ん張れる所に置き、何かを握ったままの左手は手首を曲げて木の根本に絡ませ、どうにか体を安定させた。少しの間、そのまま呼吸を整えた後、洋介は戻りの一歩を踏み出し、鹿子木が待っていた安全な場所までどうにか戻ってきた。
「ああ、良かった。一瞬、神尾さんが転落したかと思ってしまいました」
「そうですね。僕ももうダメかと思いました。でも、運よく別の枝を右手で掴むことができたので、命拾いしました」
そう言ってから洋介は左手でしっかりと掴んで離さなかった白い物を鹿子木の目の前に突き出した。
「何ですか、これは?」
「さっき言った木の枝に引っ掛かっていたものです。右手用の白い手袋です。形状が警察で使っているものとちょっと違っていますよね」
洋介の左手にしっかりと握られていた白い手袋をよく観察した鹿子木は断言した。
「はい、少なくとも我々が使っている手袋とは明らかに異なります」
「と言うことは、警察の捜査で誰かが捨てたか、誤って落としてしまったものではないと言えますね」
「はい、そう思います」
「もしかすると今回の事件と関係があるかもしれません。鹿子木さん、念のため保存しておいていただけますか?」
「はい、勿論です。ですが……、今はまだ鑑識での分析は無理だと思うのです。何せ事件とは決まってない状況ですので、そうでなくても忙しい鑑識に依頼することは上司が許してくれないに違いないのです」
「ええ、それで結構です。確かに現状は鹿子木さんのおっしゃる通りですからね」
そう言うと、洋介は命がけで採取した白い右手用の手袋を鹿子木の目の前に突き出した。鹿子木は慌てて自分のバッグからポリエチレン袋を取り出すと、慎重に中に入れ、封をして必要事項を記入した上でバッグに仕舞った。
洋介は自分の手袋を脱ごうとしたが、何か違和感があるように思われた。
「あれっ、何だか左の手袋がネバネバするような気がするな。木の枝を強く握ったからその成分が付着してしまったのかなあ。鹿子木さん、念のため私が使った手袋もポリエチレンの袋に入れておきたいのですが、袋を一枚いただけませんか?」
「はい、勿論です」
鹿子木から貰った袋に使用済手袋を入れると、それは洋介のポケットに収めた。
結局、その日の収穫は、岩宿が転落した崖の上と下との状況確認が行なえたこと以外には、岩宿が倒れていた岩から少し離れた所で見つけた鏡の破片と崖の中腹に引っ掛かっていた白い右手用の手袋一枚だけであった。これらが岩宿の転落死と何らかの関連があるかどうかさえ定かではなかった。疲れ果てた二人はろくな会話もせずに、現場を後にして帰っていった。




