22.太田哲也
G製薬会社つくば研究所を出た後、つくば東署には戻らず、直接洋介に会いに来た鹿子木はいつもより饒舌だった。挨拶もそこそこに新たに得られた情報について洋介に話し始めた。
「いやー、岩宿明は思っていた以上に酷い奴でしたよ。あれじゃ、恨まれても仕方がないような人間だったと思います」
鹿子木の言葉を聞いた洋介の目が輝いた。
「詳しく話してくださいよ」
「ええ、勿論です。岩宿明が亡くなった時の役職は研究開発本部副本部長だったんですが、以前は研究部長をしていたということです」
鹿子木は先ほど佐藤や安田に訊いたばかりの話を詳しく伝えた。
洋介は簡単には終わらない話に時折相槌を打つだけでじっと聞き入っていた。鹿子木は一通り話し終えると、途中で愛が出してくれていた濃いめのコーヒーをごくりと飲んだ。ずっと手を付けずにいたため、熱々だったコーヒーはすっかり冷めていた。
「本当に酷い話ですね。そうすると、今回の岩宿さんが亡くなった事件では、鹿子木さんは太田哲也さんが怪しいと踏んだのですね?」
「確かに太田が酷い目に遭ってからだいぶ時間が経ってはいますが、安田の話からすると、太田が犯人であったとしても少しも不思議ではないと思えるような状況なのですよね」
「それじゃ、何故ここに来られたのですか? 直ぐにでも太田さんに関する捜査を開始されれば良かったじゃないですか?」
「いやね、私も最初はそうしようと思ったのですけど……。まだ事件なのか事故なのか自殺なのか絞れてはいないことを思い出しましてね。突っ走ってしまう前に神尾さんのご意見を伺っておいた方が良いと思った訳なんです。これでも少しは学習しているんですよ、あははは」
「流石、鹿子木さん。そうですよね、事件発生当初はできるだけ慎重に考えて、あらゆる可能性を挙げた後、重要と思われる事から捜査していくべきですよね」
「でしょう! それで、神尾さんはどうすべきだと思われますか?」
「そうですね、先ず事件なのかそうじゃないのかをはっきりさせることが一番大事なのだと思いますが、現状ではそれを明確にできないのですよね。そうすると、今回のことが事件だと仮定して捜査していくべきだと思います。そうなると、先ずは太田哲也さんから調べていくのが順当でしょう。ただし、安田さんのお話ですと、他にも何人か酷い目に逢わされた人がいたようですから、並行してそれについても調べる必要があると思います」
「はい、やはりそうですよね。有難うございました。早速太田の捜査を始めます」
喜んで立ち上がろうとした鹿子木を制して洋介が追加の言葉を発した。
「ちょっと待ってください。さっきも言いましたように、事件かそうでないのかをはっきりさせる必要があります。それも疎かにはできません」
「確かにおっしゃる通りではありますが、どう動けばよいのでしょうか?」
「午前中、鹿子木さんがここに来られた時、被害者である岩宿さんの右手と頬の上にかなり高濃度のトロパン系アルカロイドが検出された、と言われていましたよね。転落現場周辺はしっかりと調べられているのでしょうね?」
「しっかりと、と言われると困りますね。何せまだ事件だと確定していないので、それなりに現場周辺を調べたのだと思います。それに、岩宿はがっしりとした体格ですからそう簡単に崖から突き落とされたりはしないだろうと思われることと、現場近くまで岩宿本人が車を運転して行ったと考えられることから、警察では自殺説が有力になってきているのです」
「そうですか……。状況によっては現場周辺の捜査をきちんとやっておいた方が良いかもしれませんね」
「確かに神尾さんのおっしゃる通りなのですが、事件だと確定する前に沢山の捜査員を動員するわけにはいかないと思います。上司がOKしてくれないでしょう」
「そうですか……」
洋介は少し期待が外れたような声で応えた。
鹿子木はつくば東署に戻り、上司にこれまでの捜査結果を報告し、週明けに太田哲也から話を訊くことの了解を得た。案の定、上司は事件にしたくないような顔をしていたが、鹿子木の勢いに押されて渋々承諾した。
前週に続きこの週も月曜日から鹿子木はG製薬会社つくば研究所にやってきた。守衛所にいた警備員は鹿子木の顔を見ただけで、手を挙げ、佐藤総務課長に連絡してくれた。守衛所で貸与されたカードを指示された通りに入口で翳して建物の中に入り、いつもの小さな会議室に入って椅子に座った。佐藤は直ぐに部屋に入ってきてくれた。
「週の始めの月曜日でお忙しい所にお邪魔して申し訳ありません。今日は太田哲也さんからお話をお訊きしようと思ってやってきました」
「こちらこそ、大変お世話になっております。分かりました。早速太田を呼びますので、少々お待ちください」
佐藤はそう言うと、椅子に座ろうとして中腰の姿勢でいたが、着席せずに会議室を出ていった。
しばらく待ったが、なかなか目的の人は現れなかった。すると、ドアがノックされ、入ってきたのは佐藤だった。
「申し訳ありません。今、太田は何かの実験の最中でして、直ぐには手を離せない状況だということです。もう少しお待ちいただけないでしょうか?」
「それは、申し訳ありません。お仕事で忙しい所に突然お邪魔しているのですから、私のことは気にしないでください。太田さんの手が空くまでお待ちしますから」
鹿子木が済まなそうに言っているところに、息を切らせた状態で太田哲也が入ってきた。
「遅くなって申し訳ありません。ちょうど実験中で直ぐに中断できない状況だったものですから」
「いえいえ、こちらが突然お会いしたいとお願いしたのですから、気にしないでください」
鹿子木は哲也の息が戻るまで、まだ室内にいた佐藤に研究所の広さなど、あまり今回の件と関係ないような話をして時間を潰した。佐藤が会議室から出て行ってから哲也に自己紹介を行ない、それからようやく質問を開始した。
「太田さんは昔、合成研究者だったそうですね?」
「はい、入社してからずっと合成を担当しておりました。その後、アメリカに留学させてもらったのです。行った先が難しい天然物の構造決定で世界的にも有名な研究室でしたので、帰国後、構造物性グループの方に異動になりました。それからはずっと構造決定に関する仕事をしております」
「太田さんは合成研究者として随分と素晴らしい実績を挙げられたと聞きましたが?」
「まあ、途中までは結構良い成果が得られたと思いますが、安全性に関して問題が出てしまいまして、我々のプロジェクトは終結になってしまいましたので、きちんとした成果は上げられなかったと思っています」
「太田さんとしては、もうちょっと安全性に関してしっかりと調べてから上層部に判断してもらいたいと思っていたのではないのですか?」
「はい、あの当時はそう思っていましたが、その後、我々のプロジェクトを引き継いだ人たちが素晴らしい成果を出してくれましたので、今は、あの結末で良かったのかな、と思っています」
「本当ですか? 終結を決めた岩宿さんを恨んだりしたことがあったのではないのですか?」
「ああ、なるほど。刑事さんは岩宿副本部長の件で私を疑っておられるのですね……。我々のプロジェクトの終結が決まった当時は、岩宿さんのことを酷い人だと思ったことは事実です。でも、当時結婚したい女性もおりましたし、薬創りをやっている研究者には、あんなことはよく起こることですから、他人を酷く恨むようなことはありません。普通の研究者だったら、ほとんどの人がそう考えるのではないのでしょうか」
「そんなものですかね……。ところで、今年の七月二十五日の土曜日の午後四時頃、太田さんは何をしていましたか?」
哲也は手に持っていた手帳を捲って該当するページを開いてから、鹿子木の質問に応えた。
「アリバイですね。ええと、あの日の午後は、私の妻と元上司だった臼井さんご夫妻たちとつくば市内の公園にあるコートでテニスをしていたと思います。昔は午前中に集まっていましたが、私たちがアメリカから帰国してからはほとんど午後一時頃に集合して練習したり試合をしたりして、午後五時までたっぷりと汗をかいています。全部で十名以上が参加するのが普通ですので、その人たちにお訊きになれば、直ぐ本当かどうか分かると思います」
「そうですか……。ところで、終結となったプロジェクトで太田さんと一緒に中心的に研究していた人はいるのでしょう?」
「はい、あのプロジェクトは、私と薬理の永倉さんとが中心になって進めていました。でも永倉さんは終結になったプロジェクトの後継プロジェクトにも参画していたそうですから、岩宿副本部長を恨んだりはしてないと思いますよ」
鹿子木は哲也の安定した心理状態から発せられた言葉に付け入る隙を見つけられなかった。
哲也が会議室を後にしてから、佐藤を通じて永倉と面談した。中背の痩せ型で眼鏡を掛けた四十歳少し手前くらいに見えるいかにも研究者タイプの男であった。事件についてごく簡単に説明した後、哲也に関していろいろと訊いてみたが、哲也が述べていた事が正しかったことを証明する以外に何の手掛りも掴めなかった。
最後に臼井との面会を申し出た。臼井が会議室に入り、紋切り型の挨拶と現状説明を行った後、鹿子木は念のための質問をした。
「今年の七月二十五日の土曜日の午後、臼井さんはいつもの仲間とテニスをされたのですね?」
「はい、毎週土曜日の午後は仲間たちと一緒に汗を流しております」
「七月二十五日は太田夫妻も参加されていたのでしょうか?」
「太田君たちですか、どうだったかな……。あっ、そうだ。あの日は太田君の奥さんに用事ができたとかで、二人とも参加できないということだったと思います」
それまでドローンとしていた鹿子木の目が途端に輝き始めた。
「本当ですか?」
「ええ、本当です。太田君からその旨電話がありましたので、よく覚えております」
鹿子木は内心大喜びであったが、表情には出さないようにして臼井を会議室から送り出した。直ぐに佐藤に電話し、再度太田哲也との面会を申し出た。
哲也は直ぐに会議室に入ってきた。
「何かまだお話してなかったことがあったのでしょうか?」
「七月二十五日の土曜日のテニスの件なんですがね、太田さんと奥さんは参加されていなかったのではないのですか?」
「えっ、ちょっと待ってください……」
哲也は手帳を開いて確認していたが、ようやく思い出したような顔で応えた。
「申し訳ありませんでした。刑事さんのおっしゃる通りです。あの日は急に妻が実家に行く用事ができましたので、二人とも練習に参加しなかったのでした。手帳にはテニスの練習の予定を随分前に記載したのですが、妻が実家から呼び出されたのが当日の朝でしたので、あたふたとしておりまして手帳を訂正し忘れたのです。それで予定が記載されたままになっていました」
「そうですか。それでは改めてお訊きしますが、今年の七月二十五日の土曜日の午後、太田さんは何をされておられましたか?」
「突然一人になってしまったものですから、外に出る気にもなれませんでしたので、ほぼ一日中家におりました」
「家の中で何をされていたのですか?」
「最近あまり文献に目を通していなかったものですから、かなり溜まっておりました。ちょうど良い機会でしたので、ずっと文献を読んでおりました」
「一日中ずっとですか?」
「お昼頃、お腹が空いてきましたので、近くのコンビニまで行ってサンドイッチとおにぎりを買ってきて食べました。夜は妻が帰ってくる予定でしたので、それまでずっと家の中で文献を読んだり、疲れたらソファーで寝転がったり、テレビを見たりしていました」
「それでは、当日の午後四時前後、太田さんが家の中にいたことを証明してくれる人はいますか?」
「ええと……、あの日は誰も訪ねてきませんでしたので、ずっと私一人でした。従って、証明してくれる人はおりません」
「そうですか。太田さんには今の所アリバイはないわけですね」
「確かにそういうことになりますが、先ほども申し上げましたように、私はもう岩宿副本部長を恨んだりしておりませんので、あの人をどうこうしようとは思ってはいません」
その後、鹿子木の同じような質問に対して、哲也は誠実に対応した。それでも鹿子木は哲也に対する疑惑を晴らすことはできずに研究所を後にした。




