第5話:若きデザイナーの祈り2
そのワンピースは、軽やかで涼しげな、青緑のシルク生地で仕立てられていた。
まるで、水の上に落ちる光の粒のような、宝石を光に透かしたような、アクアマリンブルー。
ゆるやかなVドレープに、過度な装飾は一切ないシンプルな胸元。
水の粒が肩に滑り落ちたような、透明感のあるフラッタースリーブの袖。
ウエストは同色の細いサテンベルトで、中央の小さなプラチナの結晶結晶飾りの真ん中には、同色の宝石があしらわれている。
歩くたびに、水のきらめきが揺れるようなゆるやかなプリーツは、裾がほんの少しずつ非対称になっていて、きらめく波の揺らぎを思わせる。
「このワンピース、まるで・・・」
レイモンドは何も言わず、振り返って私を見る。
まるで、あなたみたいだわ、と言いかけて、けれど言葉にはできなかった。
涙を堪えるように、ドレスと同じ色の彼の瞳が揺れて。
その時の彼は、今にも泣き出しそうな切ない顔で、力なく微笑んでいたから。
「すごく、美しいわ・・・」
私はレイモンドから目が離せなくなって、ありきたりな感想しか出てこなかった。
レイモンドの手が、わずかに私に伸びる。
「っこ、こんなに上質なシルク、一体どこで手に入れたのかしら?」
ふざけるような笑顔を向けると、レイモンドははっとしたように動きを止め、私の肩口まで伸びて行き場を失くした腕は脱力した。
「それはもちろん、この帝国で最も名高い織匠を継承する、我がエストラード家のシルクにございます。」
フィロは顎を上げ、自慢げに言った。
「大正解!こういった上質な生地を卸してもらえるから、僕らも素敵な洋服が作れている。このハウス・アンフィトリテが帝国で指折りの人気店に成長できたのも、開店当初から最高級の生地を惜しみなく卸してくれたエストラードブランドの影響力のお陰だよ。エストラード家への感謝と、今後も継続的なビジネスパートナーとしての協力を願う友好の証に、ぜひこのワンピースを受け取ってほしい。どうかな?オリィ」
にっこりと、人好きのするきれいな笑顔で、レイモンドは笑っている。
「ありがとう、レイモンド。こんなに嬉しい贈り物、生まれて初めてよ。」
私も、にっこりと、柔らかな微笑みをたたえて答える。
「せっかくだから、ぜひ試着してほしいな。この奥の部屋を使ってね。」
一番広い試着室へ案内してくれる間、周囲の棚に整えられたアクセサリーや靴、ワンピースと合わせて誂えられたボレロも手に取っていく。
手際の良い店員さんが着替えを手伝ってくれて、いつの間にかレイモンドから渡された装飾品や靴もすべてを身に着けていた。
鏡に映る自分を見て、私は息を飲む。
両親が生きていたら、エストラード家の生地で作られた素晴らしい洋服で着飾る私を見て、きっと喜んでくれたに違いない。
「どう?似合うかしら」
試着室を出ると、レイモンドもフィロも、私を見て目を瞠った。
「はい、大変お美しいです、お嬢様」
「素晴らしい。本当に、美しいよオリィ」
「前当主様ご夫妻が今のお嬢様を見たら、とてもお喜びになるでしょうね」
「そうね、フィロ。レイ、本当にありがとう。このドレスのおかげで、エストラード家の娘として自信を持って、胸を張って伯爵家へ行けるわ」
◇ ◇ ◇
上質な織物を生産し、国内外に流通させ、王室御用達と認められるほどの織匠を伝統とする。
エストラード子爵家に生まれた者にとって、上質な生地で作られた洋服を身に纏うことは、とりわけ特別な意味を持つ。
蚕の繭や様々な原料から糸を作り、色を染め、布を織ること。
どの工程をとっても、最上級の技術を持つ職人を育てること。
上質な生地を生産し、貴族も平民も分け隔てなく、求める者には衣服を提供し続けること。
その生地を贅沢に使用して作られた、華やかなイブニングドレスや美しいデイドレス、上等な紳士服に袖を通した人たちが、自信をもって、笑顔で過ごすこと。
機能性が高い軍服や使用人服、着心地の良い普段着を身に着けた人たちが、快適に過ごせること。
孤児院や修道院に、定期的に衣服の寄付を行うこと。
一職人から王国全体の「衣」を支える名匠として在り続けたそのどれもが、子爵家の誇りなのである。
だからこそ、織匠を伝統とする子爵家のお嬢様が何も持たされず、侍女もつけず、上質な洋服も仕立てずに身一つで嫁入りするなど、伯爵家からどんな目で見られるか。
つぎはぎだらけでボロボロの、着古した洋服に身一つでやって来た、年若い世間知らずのお嬢様を、伯爵夫人として、女主人として付き従う使用人がどこにいるだろう。
都で散財し尽くした伯父様は、傾けた子爵家の財政を補填するため、伯爵家から相場より多くの支援金を受け取ったとも聞いている。
家事ばかりは得意になったけれど、両親が亡くなってから家庭教師も解雇されたので、貴族教育はほとんど身についていない。
貴族としての振る舞いが、きちんとできなかったら?
私も、湯水のように散財する、わがままなお嬢様だと思われていたら?
旦那様となる方は15歳も年上だと聞いている。
歓迎は、されないかもしれない。
レイモンドからドレスを受け取るまでの私は、そんな悪い想像ばかりが頭に浮かんで、震える指先を必死に押さえつけていた。
今も、不安がないと言ったら嘘になるけれど、それだけじゃない、胸の奥から暖かい気持ちも湧いてくる。
結局、受け取ったのは1着だけでは済まなかった。
なんとレイモンドは、上着やバック、装飾品や靴に至るまで、統一感のある同じデザインの全身衣装を作成していた。
すべてをセットアップして完成するイメージで作成したものだから、と半ば無理やり全身トータルコーディネートされた一式を受け取ることになったのだ。
もともと、子爵家から持ち出せる私物などほとんど無く、鞄一つで旅立とうと思っていたので、荷物のスペースはまだまだ空いていて助かった。
「レイのお陰で、自信と勇気をもらえたわ。本当にありがとう。」
ハウス・アンフィトリテを出る頃、空は夕焼けに染まっていた。
「そう言ってもらえて、俺も嬉しいよ。楽しいときも、辛いときもさ、この洋服を着てほしいな。フィロも、俺も、どんなに離れてても、ずっとオリィの味方だってこと、思い出してね。元気で、幸せになってね、オリィ。」
フィロから事情を聞いたレイモンドは、店の前に用意してくれた商会の馬車まで見送りに来てくれた。
私たちが徒歩で帰ると知って、帰りと、明日の伯爵家までの送迎をかって出てくれたのだ。
この洋服を身につけて過ごせるなら。
遠い土地で、ひとりきりでも、きっと強くいられると思えた。
「ありがとう。レイも、元気で過ごせるよう祈っているわ」
「お嬢様の衣装から、送迎の馬車の手配まで、本日は誠にありがとうございました。心から感謝いたします、レイモンド様。」
フィロは、レイモンドに向かって深々と、長いお辞儀をした。
レイモンドは、店の前でニコニコと手を振りながら、いつまでもふたりの馬車を見送った。
やがて馬車のすがたが見えなくなったころ、海の碧を思わせるアマリンの瞳は暗く伏せられ、その拳は、手のひらに爪が食い込むほど堅く握りしめられていた。
レイモンド自身、無意識に強張っていた身体の緊張に気づいて、力を抜いた。
フーっと、うすく、長く、ゆっくりと息を吐き出し、肺いっぱいに空気を吸い込む。
「…授爵まで、あと少しのところだったんだけどなぁ。まさか、伯爵に先を越されるとは思わなかった…」
絞り出すような小さなつぶやきは、街の喧騒にかき消えて、誰にも聞こえない。
ゆっくりと目を開いて、レイモンドはいつもと変わらない大通りを見渡す。
「すごいな、君に手が届かないと分かった途端、何もかもこんなに色褪せてしまうんだ」
自嘲気味に、力なく笑うレイモンド。
「授爵なんてもう、どうでも良くなっちゃったなぁ……けど、生家が潰れてオリィが悲しむなんてことがないように、まだまだ目を光らせておかないとね」
先刻、馬車に乗るオリィをエスコートしたときに触れた、指先を見つめる。
「どうか、オリィを守ってくれよ。俺の自慢の子どもたち…」
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