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「エレノア様? エレノア様、お朝食の準備が整いましたわ。お部屋に入ってもよろしいでしょうか?」
扉の向こうから、侍女のメイの声が聞こえた。
私は弾かれたように跳ね起き、ドアの前のチェストを必死で元の位置に戻すと、鍵を開けて扉を少しだけ開けた。
「メイ……!」
「まあ、エレノア様! お顔色が真っ白ですわ! 一晩中眠れなかったのですか?」
メイが驚いて駆け寄ってくる。その顔には純粋な心配の色が浮かんでいた。
「メイ、ジュリアン様は……? ジュリアン様はどうなさったの!?」
私が縋り付くように尋ねると、メイは少し困惑したように眉を下げた。
「ジュリアン様でしたら、今朝はとても体調をお崩しになられて……。お部屋で休んでおられますわ。ロザンベール伯爵家から主治医の方もお見えになって、大騒ぎですの」
「主治医……!?」
「ええ。昨夜、急に高熱を出されて、右腕の傷口からも血が滲んでしまったそうで……。今、旦那様やお嬢様もあちらのお部屋で見舞っておられます」
私は血の気が引くのを感じた。
ジュリアンは言ったのだ。
『明日になれば、みんなが僕の味方をしてくれる』と。
彼は自分が昨夜見破られたことを知った上で、さらに状況を悪化させ、我が家の人間――父や姉を巻き込んで、私を完全に逃げられない状況へ追い込もうとしているのだ!
「私も……私も行きます!」
私は着替えもそこそこに、身なりを最低限整えると、二階の東客室へと駆け出した。
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東客室の扉は開け放たれていた。
室内には重苦しい空気が立ち込め、薬のツンとする臭いが充満している。
ベッドの周囲には、我が家の主である私の父・ヴァルモワ伯爵と、姉のセレナ、そして見慣れぬ黒い上着を着たロザンベール家の主治医が立っていた。
「……おお、エレノア。来たか」
父が厳しい表情で振り返った。厳格で知られる父の顔には、珍しく深い苦悩と困惑の色が浮かんでいる。
「お父様……ジュリアン様は……」
ベッドの上に視線をやると、ジュリアンが息も絶え絶えといった様子で横たわっていた。
彼の額には濡れ手拭いが置かれ、右腕の包帯は新しく巻き直されている。その顔は青白く(昨夜、薬の効果が切れたのだろう)、今にも息を引き取りそうなほど弱々しい。
だが、私が部屋に入ってきた瞬間、彼のまつ毛がぴくりと揺れたのを私は見逃さなかった。
「ヴァルモワ伯爵」
ロザンベール家の主治医が、重々しい口調で父に告げた。
「ジュリアン様は以前から繊細なお方で、環境の変化や精神的なショックに極めて弱い体質でいらっしゃいます。今回の階段からの転落事故、そしてそれに伴う激痛と恐怖が、ジュリアン様の精神を限界まで追い詰めてしまったようです……」
「なんと……。では、この高熱もそれが原因かね?」
「ええ。恐らくは心の病から来る熱でしょう。ジュリアン様はうわ言で、『エレノア様に嫌われた』『僕が役に立たないから見捨てられた』と、何度もご自身を責めておられました……」
主治医の言葉に、父は深く溜息をつき、悲痛な眼差しで私を見た。
「エレノア……お前、昨日ジュリアンに何か酷いことでも言ったのか?」
「え……? 私が……!?」
私は言葉を失った。
「セレナから聞いたぞ。昨日の夕方、お前はジュリアンの看病を巡ってセレナと激しく言い争い、ジュリアンにも冷たく当たったと。……ジュリアンはただでさえ怪我で苦しんでいるのだぞ。お前の婚約者であり、将来を誓い合った男ではないか」
「お父様、違います! 私は冷たくなんて……!」
反論しようとしたが、隣に立っていた姉のセレナが複雑な表情で口を開いた。
「エレノア、責めているわけではないのよ。あなたが疲れていたのは分かっているわ。でも……昨日のあなたの様子は少し異常だったわ。ジュリアンが『自分は嫌われている』と思い込んでしまうのも、無理はないかもしれないの」
セレナに悪気はないのだ。彼女はただ、昨日私が見せた過敏な反応と、今朝のジュリアンの哀れな惨状を結びつけて、彼女なりの合理的な解釈をしたに過ぎない。
だが、それこそがジュリアンの狙いだった。
彼は自分の自傷行為と哀れっぽい演技によって、私の家族全員を「ジュリアンの味方」に変え、私を「婚約者を追い詰めた不仁な娘」へと仕立て上げようとしているのだ。
「……う……うう……」
ベッドの上で、ジュリアンが弱々しい声を漏らした。
彼が薄っすらと目を開ける。その琥珀色の瞳が私を捉え、ぽろぽろと大粒の涙が彼の頬を伝い落ちた。
「エレノア……来てくれたんだね……」
ジュリアンはかすれる声で言い、震える左手をベッドから伸ばした。
「ごめんね……僕が弱いばかりに、君に迷惑をかけて……。君が僕を嫌うのは当然だ……僕はもう、君の婚約者でいる資格さえない……。どうぞ、僕を捨ててください……」
その言葉に、父の胸は痛んだようだった。父はジュリアンの手を取り、力強く握り返した。
「滅相もない、ジュリアン! お前は我がヴァルモワ家の正当な婚約者だ。エレノアも一時的な気の迷いに過ぎん。エレノア、何をしている! ジュリアンのお手を握り、謝罪しなさい!」
父の怒声が部屋に響き渡った。
私は金縛りに遭ったように動きを止めた。
視線がジュリアンと交差する。
涙を流し、弱々しく呼吸を乱すジュリアン。
しかし、父や姉から見えない角度で、彼の口元が――ほんのわずかに、嘲笑うかのように歪んだのを、私ははっきりと見た。
『見たかい? みんな僕の味方だ。君は僕から逃げられない』
彼の瞳がそう語っていた。
恐ろしい。恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい。
この部屋にいる全員が、彼の張り巡らせた蜘蛛の巣に絡め取られている。私がどんなに「彼は自分で自分を傷つけている狂人だ」と叫んだところで、誰も信じないだろう。むしろ「追いつめられたエレノアが狂言を言っている」と処理されるのが落ちだ。
私を取り巻く世界が、急速に歪み、閉じ合わさっていくのを感じた。
私は、ジュリアンという怪物の飼育箱の中に閉じ込められようとしているのだ。
「……エレノア、聞こえないのか!」
父の厳しい声が再び私を打つ。
私は震える唇を噛み締め、倒れそうになる体を必死で支えながら、ゆっくりとベッドへと歩み寄った。
ジュリアンの差し出された左手。
冷たく、それでいて異様な熱を帯びたその手に、私は自分の手を重ねた。
ジュリアンの指が、逃がさないとばかりに私の手首を強く締め上げる。
「……申し訳ありません、ジュリアン様。私が……軽率でしたわ」
私は俯き、感情を殺した声で謝罪の言葉を口にした。
「エレノア……! ああ、よかった……君が僕を許してくれて……!」
ジュリアンは感極まったように叫び、私の手を自分の胸に押し当てた。
父とセレナは安堵の溜息をつき、主治医は満足そうに頷いている。
この部屋の中で、真実を知っているのは私とジュリアンの二人だけだった。
彼の胸の鼓動が、私の手のひらに伝わってくる。トックン、トックンと打ち打つその鼓動は、勝利を確信した悪魔の足音のように聞こえた。




