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【完結】婚約破棄させてもらいます。 ✝  作者: 逆立ちハムスター


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6/8

6

床に落ちたショールが立てた小さな音が、静寂に包まれた廊下に不気味に響き渡っていた。


私の鼓動は、耳の奥で激しく鐘を鳴らしていた。全身の毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出し、手足の指先から感覚が失われていく。息をすることすら忘れ、ただ扉の隙間を見つめることしかできなかった。


「……エレノア? そこにいるんだろう?」


扉の向こうから聞こえる声は、先ほどまでの熱っぽく苦しげな掠れ声ではなかった。低く、落ち着き払い、どこか冷ややかな愉悦すら含んだ声。


ギィ……と、重い木製のドアがゆっくりと内側へ開かれていく。


そこに立っていたのは、私の知る「可憐で儚げな婚約者」ではなかった。

人工的に煽られた発熱によって肌は異常なほど赤く上気し、額からは汗がだらだらと流れている。右手からは、自らペーパーナイフで傷つけた血が包帯を赤く染め上げていた。しかし、その痛々しい肉体とは裏腹に、彼の背筋はまっすぐに伸ばされ、薄い琥珀色の瞳には暗く歪んだ光が爛爛と宿っていた。


狂気と惨劇を自ら身に纏った男が、狂気の笑顔を浮かべて私を見下ろしている。


「やっぱり……君だったんだね、エレノア」


ジュリアンは狂おしいほどの愛おしさを込めた目で私を見つめ、一歩、前へ踏み出した。彼の足取りには、先ほどまでの「重病人のふらつき」など微塵もなかった。滑らかで、捕食者が獲物を追い詰めるような、無駄のない足取りだ。


「ジュ……ジュリアン、様……」


私の声は掠れ、まともな言葉にならなかった。後ずさりしようとするのに、腰が抜けたように脚が震えて力が入らない。背中が廊下の冷たい壁にぶつかった。


「そんなに怯えた目をしないでくれよ。……見られてしまったんだね。僕が君の愛を確かめるために、どんな努力をしてきたかを」


ジュリアンは困ったような笑みを浮かべ、首を少し傾けた。その動作すら、どこか計算された美しさを感じさせて、私は猛烈な寒気に襲われた。


「努力……? あなたは……ご自分で、ご自分を傷つけていたのですか……? あの熱も、怪我も……すべて……?」


「努力と言わずして何と言うんだい?」


彼は血の滲む右手で、優しく私の頬に触れようと手を伸ばしてきた。指先に付着した生暖かい血の匂いが鼻腔を突き、私は悲鳴を上げてその手を振り払った。


「来ないで! 触らないでください!」


パシッ、と乾いた音が廊下に響く。

ジュリアンは自分の弾かれた手を見つめ、それからゆっくりと視線を私に戻した。その瞳から一瞬だけ光が消え、底知れぬ暗黒が覗いた。


「どうして拒むんだい、エレノア? 傷ついた僕を抱きしめて、優しい言葉をかけてくれたのは君じゃないか。『見捨てたりしない』『あなたしかいない』と、あんなに愛おしそうに囁いてくれたじゃないか」


「それは……あなたが苦しんでいると思っていたからです! あなたが不運な事故に遭い、私ゆえに心を痛めていると思っていたから……! なのに……すべて嘘だったのですね!? 私を騙していたのですね!」


叫ぶ私の声は涙で途切れた。激しい怒りと、それ以上に大きな悲しみが胸を刺す。私が彼のために流した涙、捧げた祈り、夜を徹した看護――それらすべてが、この男の自作自演の舞台の上で踊らされていた戯言に過ぎなかったのだ。


「騙す? 違うよ、エレノア。僕は一度だって君を騙してなどいない」


ジュリアンは静かに首を振り、心底不思議そうに目を細めた。


「僕は君を愛している。君のすべてを独占したい。君の視線も、心も、慈愛も、すべて僕一人だけのものにしたいんだ。……でも、君は優しいから、僕以外の人間にも目を向ける。家族や、見知らぬ貴族や、あのルシアンという男にもね。それが僕には耐えられないんだ。全身を焼き尽くされるような苦しみなんだよ」


彼は一歩詰め寄り、壁に追い詰められた私の顔の横に左手をついた。


「だから僕は、君が僕だけを見てくれる方法を見つけたんだ。僕が傷つき、弱り、痛みに悶えれば、君は世界中の何よりも優先して僕の元へ駆けつけてくれる。僕のために涙を流し、優しい手で包み込んでくれる。……僕が自分を傷つけるのはね、君の愛を手に入れるための当然の対価なんだよ。僕の流す血は、君を僕に縛り付けるための蜜なんだ」


「狂っている……」


私は絶句した。

罪悪感もない。反省もない。彼は自分がしていることを「正しい愛の形」だと信疑いなく信じ切っているのだ。自分の肉体を破壊してでも、相手の心を罪悪感と情で支配しようとする――これ以上の狂気がこの世にあるだろうか。


「狂ってなどいないさ。僕はただ、君を愛しすぎているだけだ。……さあ、エレノア。部屋にお入り。僕の熱を下げておくれ。いつものように、美しい手で僕の額を撫でておくれよ。そうすれば、僕は君を許してあげるから」


彼が私の手首を掴もうと、素早く手を伸ばしてきた。


「嫌ーーーーーっ!!」


私は全身の力を振り絞り、彼の胸を突き飛ばした。

人工的な発熱と自傷で体力が落ちていたのか、ジュリアンは想定外の力にたじろぎ、壁に肩を打ち付けた。


私はその隙を見逃さず、スカートの裾を掴み上げて廊下をが必死に駆け出した。


「エレノア!」


背後から彼が私の名を呼ぶ声が聞こえる。追ってくる足音。だが、私は振り返らなかった。恐怖で足がもつれそうになりながらも、薄暗い廊下を走り抜け、自分の部屋の扉に飛び込んだ。


扉を叩きつけ、鍵をガチャリと締め、室内側に置かれていた銀の燭台を逆さにドアノブにはめた。そして重いチェストもあてがった。


「はぁ……はぁ……はぁっ……!」


呼吸が狂ったように乱れ、膝から崩れ落ちた。冷たい床に手をつき、猛烈な吐き気に耐える。


直後。

ドアノブが、静かに、ゆっくりと回された。


ガタ、ガタ。


鍵がかかっていることを確認するように、数回ノブが動く。そして、静寂。


ドア越しに、彼の気配がそのまま残っているのが分かった。ジュリアンは扉一枚隔てたすぐそこに立っている。


「…………おやすみ、僕のエレノア」


扉の向こうから、甘く優しい声が聞こえた。


「今夜はゆっくりお休み。……でもね、逃げられると思わないでくれよ。君は僕の婚約者で、僕は君のためにこんなにも傷ついた哀れな病人なんだから。明日になれば、みんなが僕の味方をしてくれる」


遠ざかっていく足音。

彼が去った後も、私は冷たい床の上で体を丸め、朝が来るまで一言も発することができず、ガタガタと震え続けることしかできなかった。


---


夜が明け、窓の外が薄桃色から白濁した冬の空へと変わっていった。


室内を覆う冷気は私の体温を奪い去り、手足は凍りついたように冷たくなっていた。だが、心の冷たさに比べれば、そんなものは何でもなかった。


(どうすればいいの……? 私はいったい、どうすれば……)


頭の中で、これまでの記憶が恐ろしいスピードで再構成されていく。


初めて会った日の、消え入るような彼の言葉。

『僕のような頼りない男が君の婚約者で、失望されませんでしたか?』

あれも、私の同情を引き、自分に依存させるための最初の仕掛けだったのだ。


馬車が途中で故障したことも。

夜会の翌日に「崖から落ちた」と言って泥だらけで現れたことも。

ルシアン兄様と話した直後に、大階段から転がり落ちたことも。


すべて、すべて彼の手によって演出された演技だったのだ。

彼は私以外の男性の影を感じるたび、あるいは自分の思い通りに私が動かなくなりそうになるたび、己の肉体を自傷という名の刃で痛めつけ、私に「私が悪いのだ」という猛毒の罪悪感を植え付け続けてきたのだ。


そして何より恐ろしいのは――私自身が、その罠にまんまとハマり、彼の望む通りの「献身的な犠牲者」になり下がっていたという事実だった。


(兄様もお姉様も……すべて見抜いていた……)


『自分の身に悲劇を起こすことでしか、他人の愛情を惹きつけられない人間がいる』

ルシアンの言葉が、今や真実の響きを持って私の脳裏を支配していた。ルシアンの警告を「ジュリアン様への侮辱だ」と激しく拒絶した自分自身の愚かさに、血を吐くような悔恨がこみ上げる。


私は疲労と安堵で、そのまま両膝を抱え、目を瞑った。

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