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「ルシアンも何か言っていたの? ……当然よ。彼が階段から落ちた事故の件もそうだけれど、あの過剰な被害意識は何なの? 私があなたを心配しただけで、まるで私が彼を虐げているかのように被害者を装うなんて。あれではまるで……あなたを我が家から、私たち家族から隔離しようとしているみたいじゃない」
「そんなことありません! ジュリアン様はただ、ご自分の立場を気に病んで……繊細すぎるだけです!」
「繊細? いいえ、あれは執着よ、エレノア。歪んだ執着。あなたが優しくすればするほど、彼はつけあがって、もっと大きな『悲劇』を作り出すわ。お願いだから、少しは目を覚まして……!」
「お姉様にジュリアン様の何が分かるのですか! 私たちの愛を、そんな汚い言葉で片付けないでください!」
私は姉の手を振り払い、足早に自分の部屋へと向かった。
家族にすら理解してもらえないジュリアンの孤独。それを理解できるのは世界で私一人だけなのだという謎の使命感が、私の心を支配していた。
しかし――自室のベッドに倒れ込んだものの、頭が冴え渡って眠ることなど到底できなかった。
部屋の壁にかかる時計の針が、コク、コクと冷たい音を刻む。
窓の外では風が強まり、枯れ枝がガラスを叩く不気味な音が響いていた。
(……ジュリアン様は、お薬を定刻にお飲みになったかしら)
夜の十時を回った頃、私は耐えかねてベッドから起き上がった。
メイに任せると言ったものの、やはり彼が心配でたまらない。医師から処方された解熱の粉薬を水に溶かして飲ませなければならない時間だった。
私は薄手のショールを羽織り、廊下の燭台から灯りを借りて、静かにジュリアンの部屋へと向かった。
廊下は深く静まり返っていた。使用人たちも寝静まった時間帯だ。
ジュリアンの客室の前に着くと、ドアの隙間から、かすかに橙色の光が漏れているのが見えた。まだ起きているのだろうか。
私は「ジュリアン様、お薬をお持ちしました」と声をかけようとし――ふと、ノックしようとした手が止まった。
室内に、人の話し声があった。
足音を殺し、ドアの小さな隙間からそっと中を覗き込む。
そこに広がっていた光景に、私の心臓は一瞬で氷漬けにされた。
「……ふふ」
低い、乾いた嘲笑。
ベッドの上に腰掛け、小さく笑っていたのはジュリアンだった。
熱にうかされ、激しい痛みに喘いでいたはずの彼の背筋は、今や定規で測ったように美しく伸びていた。
乱れていたはずの銀髪は手ぐしで整えられ、その顔からは、あの痛々しい熱っぽさも、弱々しい哀愁も完全に消え去っていた。
そこにいたのは、冷徹で、氷のように冷ややかな眼差しをした「見知らぬ男」だった。
「……まったく、我が家のお抱え医師よりも、ヴァルモワ家の医者の方が薬の効き目が遅くて助かるよ」
ジュリアンは独り言を呟きながら、枕元のナイトテーブルに置かれていた湯飲みを手にとった。侍女が運んできた、医師処方の解熱剤が入ったお湯だ。
ジュリアンはそれを口に運ぶことなく、躊躇いもなく、ベッドの脇に置かれた大きな観葉植物――パキラの鉢植えの土へと流し込んだ。黒い土が、苦い薬湯を吸い込んでいく。
私は息を飲んだ。声が出なかった。
それだけではなかった。
ジュリアンは上着のポケットから、あの小さな、名もない遮光ガラスの小瓶を取り出した。
あの日、彼が転落した際にポケットから落ち、私が匂いを嗅いだあの小瓶だ。
彼は小瓶の蓋を開けると、中の白い粉末を指先で少しだけすくい上げ、迷うことなく自身の舌の上に塗った。
そして、卓上の水をほんのひと口だけ含み、ゴクリと飲み込む。
――数秒後。
彼の肌に、劇的な変化が訪れた。
ジュリアンの顔が急速に朱に染まり、呼吸が荒くなり始めたのだ。額からは溢れ出るように汗が噴き出し、彼の琥珀色の瞳が熱を帯びて潤んでいく。舌に塗ったあの粉末は、自律神経を狂わせ、人工的に激しい動悸と発熱を引き起こす生薬だったのだ。
「はぁ……っ、く……ふ、あ……」
ジュリアンは苦しげに胸を押さえ、荒い息を吐いた。
だが、その苦悶に満ちた表情の裏で、彼の口元は――酷く歪んだ、歓喜の笑みを浮かべていた。
彼はギプスでガチガチに固定された右腕の隙間に、卓上にあった細いペーパーナイフの先を力任せに突っ込んだ。
「くっ……!」
痛みに顔を歪めながらも、彼は包帯の下の皮膚を傷つけ、故意に血を滲ませていく。白い包帯の隙間から、じわりと赤黒い血が染み出してくるのを、彼は愛おしそうに見つめていた。
「これでいい……。これで、エレノアはどこへも行けない……」
ジュリアンは熱に浮かされた恍惚とした声で、独り言を漏らした。
「あの女が何と言おうと、ルシアンが何を疑おうと関係ない……。僕がこうして血を流し、熱に苦しんでいる限り、エレノアは僕を捨てられない……。僕の傷は、エレノアを繋ぎ止める鎖だ……。もっと痛めつけなければ……もっと惨めでなければ、彼女の愛を独占できない……」
ジュリアンは血の滲む包帯を自分の唇に押し当て、熱っぽい吐息を漏らした。
「ねえ、エレノア……僕のために泣いておくれ。僕の痛みに寄り添い、世界中のすべてを敵に回して、僕だけを見ておくれ……。君の罪悪感こそが、僕の最高の蜜なんだから……」
――パリン。
私の頭の中で、何かが決定的に砕け散る音がした。
全身の血が、一瞬で一滴残らず引き引いていく感覚。
足の先から冷気が駆け上がり、膝がガクガクと震え出した。
最初から。出会ったあの瞬間から。
彼が追ってきた数々の不運も、折れた車軸も、崖からの転落も、この原因不明の発熱も。なにもかもが。
すべては、私を罪悪感で支配し、自分の手元に閉じ込めるために、彼自身が緻密に計画し、自らの肉体を傷つけて演じ切った「哀れな劇」だったのだ。
彼の「儚さ」は毒であり、彼の「不運」は自作自演の罠だった。
私が彼を心配して流した涙も、徹夜で施した看護も、すべては彼の歪んだ自己愛と独占欲を満たすための、極上の「蜜」に過ぎなかった。
(ああ……あああ……っ!)
声にならない悲鳴が喉の奥でつかえ、私は激しい吐き気に襲われた。
逃げなければ。
この男は狂っている。自分自身を破壊してまで私を縛り付けようとするなんて、本物の怪物だ。
だが、恐怖で足がすくみ、一歩も動くことができない。
私が扉の前でガタガタと震えていた、その時。
カサリ。
私が羽織っていたショールが、震えのせいで肩から滑り落ち、扉に当たって小さな音を立てた。
静寂に包まれた廊下に、その音は酷く大きく響いた。
室内の動きが、ピタリと止まった。
「……誰だい?」
ジュリアンの声が響いた。
先ほどまでの甘く苦しげな声ではない。低く、地獄の底から響くような、氷のように冷酷な声。
ゆっくりと、ベッドの上が軋む音がした。
ジュリアンが、ドアの方へと顔を向けたのだ。
開いたドアの隙間から見えた彼の琥珀色の瞳は、暗闇の中でらんらんと怪しい光を放ち、じっと隙間の向こう――私の方を射抜いていた。
「……エレノア? そこにいるんだろう?」
ジュリアンが、ゆっくりとベッドから足を下ろした。
人工的な発熱で顔を真っ赤に染め、右腕から血を流しながら、彼は口元に笑みを浮かべて、一歩、また一歩とドアに向かって歩いてくる。
「入っておいでよ、エレノア。……僕の、優しいお姫様」
狂気と執着に満ちたその声が、暗い廊下にどこまでも酷く美しく響き渡っていた。




