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寒気が街を覆い、ヴァルモワ邸の広い庭園には白く冷たい霜が降りるようになっていた。
大階段からの転落事故から五日が過ぎたが、二階の東客室に横たわるジュリアンの状態は、一向に好転する気配を見せていなかった。
右腕は頑丈なギプスで固定され、額の傷も抜糸を終えて薄い瘡蓋になっていたが、彼の身体を苛む「原因不明の不調」は日を追うごとに悪化しているように見えた。
「う……っ、エレノア……苦しいんだ……頭が、割り割れるように……」
薄暗い室内で、ジュリアンがベッドの上で苦しげに身悶えしていた。
彼の整った額にはびっしょりと冷や汗が浮かび、銀髪が額にへばりついている。白磁のように白い肌は、高熱のせいか痛々しいほど赤く火照っていた。
「ジュリアン様、しっかりなさってください! 今、お冷やを取り替えますから……!」
私は擦り切れた心で彼の手を握りしめ、手拭いを氷水の張ったボウルで固く絞った。そして彼の額に優しく乗せる。
ここ数日、ジュリアンは夜になると決まって四十度近い高熱を出し、激しい悪寒と動悸を訴えてうなされた。我が家のお抱え医師が何度も往診に訪れ、解熱剤や消炎の薬を処方していったが、一向に熱が下がる気配はない。医師も「激しい精神的ショックによる自律神経の乱れか、あるいは体内のどこかで炎症が起きているのかもしれませんが……原因が特定できません」と首をひねるばかりだった。
「……エレノア、どこへも行かないでくれ……僕を一人にしないでくれ……」
ジュリアンは熱にうかされた瞳で私を見上げ、固定されていない方の左手で、すがるように私の手首を掴んだ。その指先は驚くほど熱く、そして力強かった。
「どこへも行きませんわ、ジュリアン様。ずっと、ここにおります」
「君は僕が眠ったら、またあのルシアン様のもとへ行ってしまうんだ……。僕がこんな哀れな姿になったから、愛想を尽かしたんだろう……?」
「そんなこと! あるはずがありません! どうしてそんな悲しいことをおっしゃるのですか?」
私の叫びにも似た問いかけに、ジュリアンはボロボロと涙をこぼした。彼の頬を伝う涙が、枕カバーに小さな黒い染みを作っていく。
「だって……君は僕の手当をするとき、どこか遠くを見るような目をするじゃないか。あの日、ルシアン様が君に何を吹き込んだのか、僕は知っているんだ……。『あの男は怪しい』『嘘をついている』と、僕を貶める言葉を囁いたんだろう……? だから君は、僕を疑っているんだ……!」
「違います! ルシアン兄様のお言葉なんて、私は一言も信じていませんわ!」
私は胸が引き裂かれるような想いで訴えた。
あの日、大階段の踊り場でルシアンが口にした恐ろしい言葉。
『自ら手すりを離し、飛び降りたように見えた』
『悲劇を起こすことでしか他人の愛情を惹きつけられない人間がいる』
私はルシアンの言葉を必死で打ち消そうとしていた。しかし、私自身も無意識のうちに、ジュリアンの言動に対して怯えと不快感を抱いてしまっていたのかもしれない。それが手当をする際の手の震えや、視線の泳ぎとなって現れ、彼に伝わってしまったのだ。
私の心の迷いが、ジュリアンをさらに不安にさせ、病状を悪化させている。
そう思うと、罪悪感は猛毒のように私の内臓を蝕んでいった。
「ジュリアン様、誓います。私はあなたの味方です。世界中の誰もがあなたを疑おうとも、私だけはあなたの言葉を信じます。だから……どうかご自分を責めないでください」
私は彼の左手を両手で包み、自分の額に押し当てた。
彼が私を愛するがゆえに、これほどまでに脆く、傷つきやすくなっているのだとしたら。私が彼を受け止め、包み込んであげなければ、この人は本当に壊れて消えてしまう。私には、この歪んだ愛を背負い続ける責任があるのだと、自分に強く言い聞かせた。
その時、客室の扉がノックもなく静かに開いた。
「あら、エレノア。まだそこにいたの?」
洗練されたベルベットのドレスを纏い、凛とした佇まいで部屋に入ってきたのは、私の三歳上の姉・セレナだった。
社交界の華と謳われる彼女は、華やかな黄金色の髪を揺らし、心配と少しの呆れを含んだ瞳で私とジュリアンを見つめた。
「お姉様……」
「エレノア、あなたもう三日もまともにベッドで休んでいないでしょう? 鏡をごらんなさい、ひどい隈よ。ジュリアンの看病はメイたち侍女に任せて、少しは自分の部屋で横になりなさい。お父様も心配なさっているわ」
セレナは私の肩に手を置き、優しく、しかし毅然とした態度で私を立たせようとした。
その瞬間、ジュリアンの全身が目に見えて強張り、息を詰まらせた。
「……セレナ様」
ジュリアンは弱々しい声で言葉を漏らし、布団を胸元まで引き上げた。
「お見苦しいところをお見せして、申し訳ありません。……伯爵家の大切な次女であるエレノアに、僕のような役立たずの看病をさせてしまって……。さぞ、僕のことが疎ましくお思いでしょう」
「え? いいえ、ジュリアン。私はそんなつもりで言ったのでは……」
セレナが驚いて眉をひそめたが、ジュリアンはそれを遮るように、いっそう惨めそうに首を振った。
「分かっているのです。僕はロザンベール家の次男に過ぎず、家督を継ぐこともできない……その上、こうしてヴァルモワ邸に転がり込んでご迷惑をおかけしている。セレナ様から見れば、僕はエレノアの婚約者に相応しくない、不運ばかりを撒き散らす厄介者に見えるのでしょうね……」
「ジュリアン様、そんなこと言わないでください!」
私は慌てて姉とジュリアンの間に割り込んだ。
「お姉様はただ、私の体を気遣ってくださっただけです! ねぇ、お姉様?」
「え、ええ……もちろんよ。ジュリアン、あなたを責めるつもりなんて……」
セレナは戸惑いの色を隠せない様子で言葉を詰まらせた。彼女は社交界で数多の貴族と渡り合ってきた聡明な女性だが、ジュリアンのようなタイプとの接し方には慣れていなかった。
「結構です……。エレノア、セレナ様のおっしゃる通りだ。僕はもう大丈夫だから、お姉様と一緒に部屋を出て行ってくれ。……僕のような病人がここにいるだけで、この屋敷の空気が淀んでしまうのだから」
ジュリアンはそっぽを向き、小さく丸まった。その背中からは、「自分は嫌われている」「孤立している」という悲痛なオーラが痛いほどに放たれていた。
「ジュリアン様……!」
「エレノア、行きましょう。今は彼をそっとしておいた方がいいわ」
セレナが私の腕を強めに引き、半ば強制的に私を部屋の外へと連れ出した。
重々しいドアが閉まると、セレナは廊下で深いため息をつき、真面目な顔で私を見つめた。
「エレノア、あなた少し冷静になりなさい。あのジュリアンという方の様子……どう考えても不自然だわ」
「不自然……? お姉様まで、ルシアン兄様のようなことを言うのですか!?」
私は思わず感情を高ぶらせて叫んでしまった。




