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「エレノア、動かしてはいけない! 骨折している可能性がある!」
素早く駆け下りてきたルシアンが、私の肩を力強く掴んで静止させた。
「誰か! すぐに医者を呼べ! 担架と温かい毛布も用意するんだ!」
ルシアンが大声で指示を飛ばすと、悲鳴を聞きつけて集まってきた執事のアルフレッドや侍女のメイたちが、パニックになりながらも一斉に走り出した。
「どうして……どうしてこんなことに……!」
私は床に膝をつき、血を流すジュリアンの顔を涙で見つめた。
彼の手を取ろうとして、ふと息を飲んだ。
彼の右手――先日、崖で傷つけたと言っていたその手から、黒い革手袋が脱げ落ちていた。
剥き出しになった彼の掌には、すでに乾きかけた古い傷の横に、今日できたばかりの新しい擦り傷がいくつも増えていた。
「う……うう……」
ジュリアンが薄っすらと目を開けた。
その琥珀色の瞳は焦点が定まっていなかったが、私を捉えると、弱々しく歪んだ。
「エレノア……」
「ジュリアン様! よかった、気がつかれたのですね! 今、お医者様が参りますから、じっとしていてください!」
「ごめんね……エレノア……。僕が、僕がドジだから……」
ジュリアンは震える左手を伸ばし、私のスカートの裾を固く掴んだ。その指先には、尋常ではない力がこもっている。
「僕が……足を滑らせたんだ。ルシアン様と君が……あまりにもお似合いに見えて……視界が真っ暗になって……。背中を、誰かに押されたような気がして……」
「背中を……?」
私は思わず息を飲んだ。
彼の言葉は、暗に階下にいたルシアン、あるいは私の存在を匂わせるような、恐ろしい響きを含んでいた。
「違うんだ……誰も押してなんかいない。僕が……僕の心が醜いから、幻覚を見たんだ……。ねえ、エレノア……僕を捨てないでくれ……。こんな惨めで、傷ついてばかりの僕を……見捨てないで……」
ジュリアンは額から血を流しながら、子供のようにしゃくり上げて泣き始めた。
その姿はあまりにも無残で、あまりにも痛々しかった。
「見捨てたりしません! 絶対に、絶対にあなたを一人にしたりしませんわ!」
私は彼を抱きしめ、自分の胸にその頭を押し当てた。
彼の血が私の衣服を赤く染めていくのも構わずに、私は必死で彼に愛を囁き続けた。私のせいで、私が他の男性と親しくしたせいで、彼はこれほどまでに追い詰められ、怪我を負ってしまったのだ。この痛みのすべては、私の軽率さが招いた不徳の致死なのだと、自分を強く責め苛みながら。
――だが。
ジュリアンを手当するために医師が到着し、彼が二階の客室へと担架で運ばれていった後。
血の溜まりが残る大階段の踊り場で、私はひとり、呆然と立ち尽くしていた。
「エレノア」
低く、落ち着いた声が私を呼んだ。
振り返ると、ルシアンが眉間に深いシワを寄せて立っていた。彼の視線は、ジュリアンが転落した階段の途中に注がれている。
「大丈夫ですか、ルシアン兄様……? お見苦しいところをお見せしてしまって……」
「いや、私のことなどどうでもいい。……それより、エレノア。一つ聞いてもいいかい?」
ルシアンは階段に近づき、ある一点を指差し、身を乗り出した。
「ロザンベール子息は、急にめまいがして足を滑らせたと言っていたね?」
「ええ……背中を押されたような気がした、とも……」
「おかしな話だな」
ルシアンの声は、氷のように冷ややかだった。
「私は一階から彼を見ていた。彼が足を滑らせた瞬間も、転落した瞬間もだ」
「……何が、おかしなことなのですか?」
「彼は……自ら手すりを離し、足を前に踏み出して飛び降りたように見えた。まるで、着地点をあらかじめ計算していたかのようにね」
「そんな……ッ!?」
私は息を詰まらせ、激しい衝撃に目を見開いた。
「何を……何を恐ろしいことをおっしゃるのですか、ルシアン兄様! ジュリアン様が、ご自分から階段を飛び降りただなんて、そんなことあるはずがありません! 現に、あんなにひどい血を流して骨折までされているのですよ!?」
私の声が怒りで震えた。
命の危険に晒された婚約者を侮辱されたような気がして、胸の奥から激しい反発心が湧き上がったのだ。
「落ち着きなさい、エレノア。私は彼を責めているわけではない」
ルシアンは静かに首を振り、階段の一段を指示せた。
「見てごらん。あの段の木枠に、細い糸のようなものが引っかかっている。……これは、彼の服の生地の糸だ。そして、そのすぐ上にある手すりの傷。あれは、彼が落ちる直前に、手すりを力任せに『押し蹴った』痕跡だよ。足を滑らせたのなら、手すりにしがみつこうとして、上向きの擦り傷ができるはずだ。だが、あの傷は下に押し込まれている」
「それは……!」
「それに、彼の服だ。転落する直前、彼は自分で上着のボタンをいくつか外し、右袖を引っ張って緩めていた。まるで……転がった時に、より痛々しく見えるようにあらかじめ準備していたかのように」
「やめて……! やめてください、ルシアン兄様!」
私は両耳を塞ぎ、激しく頭を振った。
「ジュリアン様が、そんな恐ろしい嘘をつくはずがありません! どうしてご自分をこんなに傷つける必要があるのですか!? 痛みを感じ、血を流し、骨を折ってまで……そんなことをする人間が、この世にいるわけがないでしょう!?」
「……しかし」
ルシアンの短い一言が、冷たい刃のように私の胸を刺した。
「自分の身に悲劇を起こすことでしか、他人の愛情や注目を惹きつけられない人間がいる。あるいは……愛する者を罪悪感で縛り付け、自分の思い通りにコントロールするために、己の肉体を破壊する人間がね」
「違います! ジュリアン様は……ジュリアン様はただ、不運で、繊細で、私を深く愛してくださっているだけです!」
私は叫ぶように言い捨てると、ルシアンから逃げるようにして背を向け、ジュリアンの待つ二階の客室へと階段を駆け上がった。
胸が激しく上下し、視界が涙で歪んでいた。
ルシアン兄様は間違っている。
ジュリアン様を妬んで、あんな恐ろしい言いがかりをつけているのだ。ジュリアン様がご自分で階段から飛び降りただなんて、そんな妄想、信じるわけにはいかない。
私は二階の客室の扉を勢いよく押し開けた。
室内には、往診に来た医師が包帯を巻き終え、痛む肘を固定したジュリアンがベッドに横たわっていた。医師は私に一礼すると、「安静にしてください」と言い残して部屋を出て行った。
「……エレノア」
ベッドの上のジュリアンが、青ざめた顔で私を見つめた。
その額には痛々しい包帯が巻かれ、右腕は頑丈なギプスで固定されている。
「ジュリアン様……!」
私はベッドの脇に駆け寄り、彼の無事な左手を固く握りしめた。
「痛むでしょう……? すぐにお薬が効いてきますからね。私、ずっとそばにおりますから」
「……ルシアン様は、お帰りになったかい?」
ジュリアンは消え入るような声で尋ねた。
「ええ……お帰りになりましたわ」
私はルシアンが言った恐ろしい言葉を隠し、嘘をついた。
「そうか……よかった。……ねえ、エレノア。僕はもう、本を読むことも、君と華やかな夜会に行くこともできないかもしれない。こんな無様な体になってしまって……君に捨てられるのが、怖くてたまらないんだ」
ジュリアンはぽろぽろと涙を流し、私の手を自分の頬に押し当てた。
「そんなこと、絶対にありません! 私はどこへも行きません。ずっと、あなたのお傍にいます!」
「本当かい……? 僕がどんなに壊れても、君は僕の味方でいてくれるかい?」
「ええ、誓います。私には、あなたしかいませんわ……」
ジュリアンの涙を拭いながら、私は何度も頷いた。
彼の温かい皮膚の感触。私にすがるような、激しい愛の眼差し。
それらは紛れもない現実だった。彼が私を愛し、私を必要としてくれているという事実だけが、今の私にとっての真実だった。
――しかし。
ジュリアンが安心したように目を閉じ、静かな寝息を立て始めた頃。
私は彼の手を握ったまま、ふと部屋の隅にある小さなテーブルに目をやった。
そこには、ジュリアンが運ばれてくる際に、彼の服から落ちた所持品が置かれていた。
彼のポケットに入っていたと思われる小さな小瓶。
何気なくその小瓶を手にとり、遮光ガラスの蓋をそっと開けてみる。
そこから漂ってきたのは――我が家の庭園に咲く、特定の毒性を持つ植物の抽出液と、血の凝固を遅らせる薬草の、独特な苦い香りだった。
(……どうして、ジュリアン様がこんなものを……?)
医師が処方したものではない。
ロザンベール家の印章すらついていない、名もない怪しげな小瓶。
ルシアンの冷ややかな声が、再び脳裏をよぎる。
『自分の身に悲劇を起こすことでしか、他人の愛情や注目を惹きつけられない人間がいる』
私は冷たい汗が背中を伝うのを感じながら、小瓶をそっと元の場所に戻した。
手元のジュリアンは、まるで天使のように純真で美しい顔立ちで眠っている。
この美しいガラス細工のような青年の中に、もしも――私が想像もできないような、暗く深い深淵が広がっているのだとしたら。
私は激しい眩暈を感じながら、窓の外の枯れ果てた薔薇園を見つめた。
冬の足音が、すぐそこまで迫っていた。




