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【完結】婚約破棄させてもらいます。 ✝  作者: 逆立ちハムスター


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2

ジュリアンが手の傷を負ったあの日から、一週間が経過していた。


擦り傷自体は浅かったこともあり、私の懸命な手当と傷薬の効果もあって、彼の右手に巻かれていた白い包帯は数日で外されることとなった。しかし、彼はまだ痛むのだと悲しげに眉をひそめ、黒い革手袋を嵌めたままで過ごしている。


「エレノア様、本日の午後にはハーバート子爵家より、ルシアン様がお見えになる予定でございます。先日お願いしておられた、古書の借り受けの件で」


朝の支度を済ませてくれていたメイが、姿鏡の前で私の髪に真珠の留め具を挿しながらそう言った。


「ああ、ルシアン兄様が……! そうだったわね。すっかり失念していたわ」


ルシアン・フォン・ハーバート。

私の父の遠戚にあたる子爵家の長男で、幼い頃からヴァルモワ邸に出入りしていた人物だ。私にとっては歳の離れた兄のような存在であり、人嫌いで図書室に引きこもりがちだった幼少期の私に、歴史や博物学の面白さを教えてくれた恩師でもある。


現在は隣領で領地経営の一端を担っているが、古書のコレクターとしても知られており、先日、私がずっと探していた一世紀前の『北方植物図譜』の初版本を所有していると知り、無理を承知で閲覧を頼んでいたのだ。


「ジュリアン様には、もうお伝えになりましたか?」


メイの問いかけに、私は鏡越しに一瞬だけ視線を泳がせた。


「……ええ。一応、昨日の夕食の時にお話ししたわ。昔からの知り合いで、本を貸していただくためだけにお会いするのだと」


「ジュリアン様は、何とおっしゃっていましたか?」


「『君が学ぶためなら、僕が口を挟むことではないよ』と……とても穏やかに納得してくださったわ」


そう、ジュリアンは実に聞き分けよく微笑んでくれたのだ。

『ただ、僕以外の男性と二人きりになるのは、少し胸が締め付けられるけれど……エレノアを信じているからね』と、私の手を優しく握りしめながら。


その言葉に胸を痛めつつも、私は彼が私の学問への探求心に理解を示してくれたことに安堵していた。あの日、アルフレッド男爵の件で彼を激しく不安にさせてしまった反省から、私はもう二度とジュリアンに無用な疑念を抱かせまいと誓っていたのだから。


午後二時。

約束の時間ぴったりに、我が家の玄関ホールに馬車の到着を告げるベルが鳴り響いた。


応接室で待機していた私が迎えに出ると、そこには見上げるほど背が高く、落ち着いた灰色の瞳をした青年が立っていた。艶やかな栗色の髪を後ろに流し、仕立ての良い上着を着こなしたルシアン・フォン・ハーバートだ。


「やあ、エレノア。とても元気そうだね。三か月ぶりかな」


ルシアンは穏やかな笑みを浮かべ、右手を胸に当てて優雅に一礼した。その仕草には貴族らしい洗練と、親しい親族に対する温かみが同居している。


「お久しぶりです、ルシアン兄様。遠路はるばるお越しいただき、本当にありがとうございます」


「礼には及ばないよ。君のような熱心な読書家に使ってもらえるなら、あの本も本望だろう。はい、約束の『北方植物図譜』だ。革の装丁が痛んでいるから、取り扱いには気をつけておくれ」


ルシアンが従者から受け取った木箱から、重厚な革張りの大著を取り出した。

見事な金箔押しが施された古い本を目にした瞬間、私の胸は高鳴った。


「まあ……! なんて素晴らしい保存状態でしょう。ありがとうございます!」


「はは、君のその目が輝く瞬間を見られるなら、わざわざ運んできた甲斐があったというものさ。昔から変わらないね、エレノア。新しい知識に触れる時の君は、本当に嬉しそうだ」


「もう、からかわないでください。さあ、立ち話も何ですから、二階の図書室へご案内しますわ。温かい紅茶をご用意させておりますの」


私が弾んだ声でルシアンを促した、その時だった。


「……エレノア?」


大階段の踊り場から、小さく弱々しい声が降ってきた。


振り返ると、そこにジュリアンが立っていた。

彼は上質な灰色の室内着を身に纏い、階段の手すりに力なく手を置いている。銀髪は少し乱れており、その美しい顔立ちは相変わらず病的に青白かった。


「ジュリアン様……! お部屋で休んでいらっしゃるのではなかったのですか?」


私は慌てて階段に駆け寄り、見上げるようにして彼に声をかけた。実は今日、ジュリアンは朝から「少しめまいがする」と言って、二階の客室で休んでいたのだ。


「部屋にいても……君の楽しそうな声が聞こえてきたものだから。……僕が寝込んでいる間に、お客様がお見えになったんだね」


ジュリアンは薄い琥珀色の瞳を力なく細め、階下に立つルシアンへと視線を向けた。その視線は、冷ややかな氷の針のように鋭く、一瞬だけルシアンを射抜いたように見えた。だが、私が注視した時には、すでにいつもの儚げで傷つきやすい青年の表情に戻っていた。


「初めまして、ハーバート子爵令息。僕はジュリアン・フォン・ロザンベール……エレノアの婚約者です」


ジュリアンは手すりを頼りに、ゆっくりと階段を下りてきた。その足取りはおぼつかなく、今にも膝から崩れ落ちそうだ。


「初めまして、ロザンベール伯爵子息。ルシアン・ハーバートです。エレノアの遠戚にあたります。お体がお辛いときに、お邪魔してしまったようで申し訳ない」


ルシアンは礼儀正しく頭を下げた。だが、その灰色の瞳には、どこか冷静にジュリアンの様子を観察するような光が宿っている。


「いいえ……僕の体質が弱いばかりに、エレノアに余計な心配ばかりかけているのです。……ルシアン様のような、健康的で頼もしい男性が羨ましいですよ。僕など、エレノアの隣に立つ資格もないのかもしれません」


ジュリアンは自虐的な笑みを浮かべ、胸を押さえて小さく咳き込んだ。


「そんなこと言わないでください、ジュリアン様!」


私は居ても立ってもいられなくなり、階段を二三段駆け上がって、ジュリアンの腰に手を回してその体を支えた。彼の体は驚くほど細く、そして小さく震えている。


「私にとって、大切な方はあなただけです。どうかそんな悲しいことをおっしゃらないで……。ルシアン兄様は、私に本を貸しに来てくださっただけなのですから」


「……分かっているよ、エレノア。でも、君が他の男性と並んで楽しそうに笑っているのを見ると……胸が押し潰されそうになるんだ。僕の知らない君の過去を知っている人が、羨ましくて、恐ろしいんだ……」


ジュリアンは私の肩に額を預け、消え入るような声で囁いた。

彼の熱い吐息が私の首筋にかかる。その言葉に込められた痛烈な独占欲と、哀切極まる響きに、私の胸は締め付けられた。


(ああ、まただわ……。私がルシアン兄様と親しく接したせいで、ジュリアン様をこんなにも追い詰めてしまった……)


罪悪感が、再び私の心を黒く塗りつぶしていく。

私にとってはただの親類であり知識の師に過ぎないルシアンとの会話も、ジュリアンにとっては己の存在価値を脅かす恐怖なのだ。彼の繊細な心を理解してあげられなかった自分が、たまらなく惨めだった。


「ルシアン兄様、申し訳ありません。今日はジュリアン様の体調が優れないようですので、本はお借りしますが、お茶はまたの機会に……」


私が申し訳なさそうにルシアンに向かって言おうとした、その瞬間だった。


「――あっ!」


短い悲鳴。

私を支えていたジュリアンの体が、突然、ガクリと大きく崩れた。


「ジュリアン様!?」


「うっ……頭が、急に……!」


ジュリアンは頭を押さえ、苦悶の表情を浮かべた。そして、私の手を振り払うかのようにして、階段の端へと大きく体を開いたのだ。


「ジュリアン様、危険です! 手すりを――」


私が叫ぶのと、彼の体がバランスを崩すのは同時だった。


ジュリアンの体が、大階段の踊り場に向かって、まるで断ち切られた糸のように宙を舞った。


階段を転がり落ちていく激しい音が、静かな邸内に響き渡る。

ドスン、ドスンと、肉体が固い木製の階段に打ち付けられる嫌な音が続き、最後に鈍い衝撃音とともに、彼は一階の踊り場で動かなくなった。


「ジュリアン様ーーーーっ!!」


私は叫び、足をもつれさせながら階段を駆け下りた。


踊り場に横たわるジュリアンは、ぐったりとして反応がない。彼の着ていた灰色の服は乱れ、右腕が不自然な角度で折れ曲がるようにして床に投げ出されていた。


「ジュリアン様! 目を開けてください! ジュリアン様!」


私は彼の体を抱き起こそうとしたが、あまりの恐怖に手が震えてうまく力が入らない。彼の額からは、たらりと赤い血が筋を作って流れ落ち、美しい銀髪を濡らしていた。

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