愛すべき婚約者…
庭園の落葉が、湿った秋の風に吹かれて乾いた音を立てていた。
ヴァルモワ伯爵家の東翼に位置する私の部屋からは、幾何学模様の薔薇園が一望できる。しかし、晩秋のこの時期、美しく咲き誇る花は一輪もなく、残されているのは枯れ落ちた黒ずんだ茎と、寒空に向かって刺すように伸びる棘ばかりだった。
「エレノア様、お茶の準備が整いましたわ。本日の焼き菓子は、厨房が腕を振るった栗のタルトでございます」
侍女のメイが、温かい湯気を立てる磁器のティーポットをワゴンに乗せて静かに室内へ入ってきた。私は窓辺のソファーから振り返り、小さく頷く。
「ありがとう、メイ。ジュリアン様は……まだお見えにならないかしら?」
「ええ、まだ一階のサロンにはお見えになっておりません。約束のお時間からは、二十分ほど過ぎておりますが……」
メイは少し言いづらそうに視線を落とした。
ジュリアン・フォン・ロザンベール。
私の大切な婚約者であり、隣領を治めるロザンベール伯爵家の次男だ。
私――エレノア・ヴァルモワは、伯爵家の次女として生まれた。社交的で目鼻立ちのくっきりとした美貌を持つ三歳上の姉・セレナとは対照的に、私は昔から控えめで、目立たない性格だった。人前に出るよりも図書室の片隅で古い歴史書を開いている方を好むような娘だ。
そんな私に与えられた婚約者が、同じく家督を継ぐ立場にない次男のジュリアンだった。
初めて彼に会ったのは、三年前の初春のことだ。
眩しいほどの銀髪に、まるで透き通る湖面のような薄い琥珀色の瞳。繊細な骨組みをした彼は、まるで息を吹きかければ壊れてしまいそうな、美しいガラス細工のようだった。
『エレノア様、僕のような頼りない男が君の婚約者で、失望されませんでしたか?』
出会った日の夕暮れ、彼は消え入るような声でそう囁いた。その瞳には深い孤独と、自分に対する諦念が滲み出ていて、私の胸は激しく締め付けられたのを覚えている。姉の陰に隠れて自分の存在意義を見出せずにいた私は、その日、心に固く誓ったのだ。この繊細で儚い人を、私が生涯をかけて守り、支え続けよう、と。
しかし、ジュリアンという人は、驚くほど「不運」に見舞われやすい人でもあった。
馬車が途中で車軸を折る。風邪をこじらせて高熱を出す。あるいは、原因不明の激しい頭痛に襲われる。彼と約束を交わすたび、何かしらの惨事や体調不良が彼を襲い、私たちは何度も予定の変更を余儀なくされてきた。
「……何か事故にでも遭われたのかしら」
私は胸の前で両手を固く組み、溜息をついた。
ジュリアンは約束を破るような人ではない。遅れているということは、きっとまた何か彼の身に不幸が降りかかったのだ。
「エレノア様、あまりお心を痛められませんよう。ロザンベール伯爵家のお召し馬車は頑丈ですし、きっと間もなく……」
メイが慰めの言葉をかけようとしたその時、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
我が家の執事であるアルフレッドが、息を乱してドアを叩く。
「エレノア様! ジュリアン様がお見えになりました! ですが……その、少々お怪我をなさっておいでで……」
「怪我!?」
私はティーカップを置くのも忘れ、弾かれたように立ち上がった。スカートの裾を掴み、アルフレッドの静止の声を背に受けながら、一階の応接室へと駆け下りる。
胸が嫌な音を立てて打っていた。どうか無事でいてほしい。彼に大きな傷が残るようなことがありませんように。心の中で必死に神に祈りながら、私は応接室の扉を押し開けた。
「ジュリアン様!」
部屋の中央にあるソファーに、彼は力なく身を預けていた。
いつも完璧に整えられている銀髪は乱れ、美しい顔立ちは土気色に蒼白だった。彼が身に着けている上質な紺色のジャケットには、泥と草の汁が痛々しくこびりついている。そして何より私の目を引いたのは、彼が膝の上に置いている右手だった。
普段なら白い革手袋で覆われているはずのその手が外されており、指先から掌にかけて、赤黒い擦り傷がいくつも奔っていた。
「エレノア……」
私の姿を認めると、ジュリアンはかすかな声を漏らし、力なく立ち上がろうとした。
「動かないでください! そのまま、どうかそのままで!」
私は彼の元へ駆け寄り、その場に膝をついた。彼の膝元に手をつき、震える手で彼の傷ついた右手を見上げる。
「なんてこと……一体何があったのですか? お医者様は? すぐにお医者様を!」
「いいんだ、エレノア。医者を呼ぶほどのものじゃない……僕の、僕の不手際なんだから」
ジュリアンは力なく首を振り、弱々しく微笑んだ。その笑顔が痛々しくて、私は目頭が熱くなるのを抑えられなかった。
「不手際だなんて……そんなに血が滲んでいるではありませんか。メイ、温かいお湯と清潔な布、それから傷薬を持ってきて!」
廊下に待機していたメイに指示を出すと、私はジュリアンの両手をそっと包み込むように(傷に触れないよう慎重に)握りしめた。
「どうしてこんなことに? 馬車が横転でもしたのですか?」
「いや……馬車ではないんだ」
ジュリアンは薄い琥珀色の瞳を揺らし、すまなそうに視線を泳がせた。
「君との約束の時間より、少し早く邸を出たんだ。……君に、どうしても届けたいものがあったから」
「私に……?」
「ああ。覚えているかい? 昨夜のレセプションで……君がアルフレッド男爵と楽しそうにお話しされていたことを」
アルフレッド男爵。
昨夜、父に連れられて出席した小規模な夜会で、挨拶を交わした若い貴族のことだ。男爵は最近、領地で珍しい高山植物の栽培に成功したという話をしていて、私は植物への興味から幾つか質問を投げかけたのだった。会話はほんの五分ほどで、父も同席していた。
「男爵が……何か関係しているのですか?」
「男爵が言っていたんだ。『山深い崖の近くには、今の時期でも美しい青いアザミが咲く』と。君がそれを聞いて、目を輝かせていただろう? ……だから、僕も君にその花をプレゼントしたくて」
ジュリアンは絞り出すような声で続けた。
「君が他の男性の話に耳を傾け、楽しそうに笑っているのが……僕には、たまらなく辛かったんだ。僕には男爵のような知識も、華やかな魅力もない。だから、君が望むものを自分の手で手に入れて、君を喜ばせたかった。……でも、僕は愚かだった。崖の近くの湿った土に足をとられ、足を滑らせてしまって……」
「崖から落ちられたのですか!?」
私は息を飲んだ。一歩間違えれば、命を落としていたかもしれない。
「通りかかったきこりの方に助けていただいたんだが、花は谷底へ落ちてしまった。君への贈り物も手に入らず、服を汚し、約束の時間にも遅れ……僕は本当に、惨めで役に立たない男だ。君を失望させてしまったね、エレノア」
ジュリアンは自虐的に目を細め、視線を落とした。その長いまつ毛が、頬に影を落としている。
「そんな……! 失望だなんて、そんなこと思うはずがありません!」
私は胸が押し潰されるような感情に襲われた。
罪悪感。激しい罪悪感が、私の全身を苛む。
私が昨夜、見知らぬ男爵と植物の話などに興じなければ。ジュリアンに無用な焦燥感を与えなければ、彼がこんな危険な目に遭うことはなかったのだ。彼が傷ついたのは、すべて私の浅はかな行動のせいだ。
「申し訳ありません、ジュリアン様……! 私が、私が軽率でした。アルフレッド男爵とはただ挨拶をしただけで、深い意味など何もなかったのです。それなのに、私がお話に興味を示したばかりに、あなたにこんな痛い思いをさせてしまって……」
「君が謝る必要はないよ、エレノア。僕が勝手に嫉妬して、愚かな行動に出ただけなんだから……」
ジュリアンは空いている左手を伸ばし、私の頬にそっと触れた。その手は驚くほど冷たかった。
「ただ……痛むんだ。身体も、心も。君が僕以外の男に微笑むたび、僕は全身を刃物で刻まれるような心地になる。……ねえ、エレノア。僕だけを見てくれないか? 僕には、君しかいないんだ。僕のこの惨めな姿を笑わずに、心配してくれるのは……世界中で君だけなんだから」
彼の指先が、私の頬を優しく撫でる。
その瞳に宿る激しい情熱と、壊れそうなほどの脆さ。それらが混ざり合った視線に射抜かれ、私は息を詰まらせた。
なんて深く、私を愛してくれているのだろう。
自分を投げ打ってまで、私の機嫌を取ろうとしてくれる。この人の愛は、少し痛いほどに重く、そして狂おしいほどに切ない。
「ええ、ジュリアン様。見ますわ、あなただけを見ます。ですから……どうかもう、ご自分を傷つけるような真似はなさらないでください」
私は彼の左手を両手で包み込み、自分の胸元に引き寄せた。
そこへ、メイが救急箱とお湯を入れたボウルを持って戻ってきた。私はメイから手ぬぐいを受け取り、ジュリアンの傷口を丁寧に拭い始めた。
「痛みますか?」
「……君が触れてくれるなら、どんな痛みも心地いいよ」
ジュリアンは目を細め、甘えるように微笑んだ。
私は彼の傷口に慎重に薬を塗り、白い包帯を巻きつけていく。彼の細い指先、華奢な手首。手当を進めるうちに、私の心は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
そして――ほんのわずかな不調和が、私の頭の隅を掠めた。
(……あれ?)
包帯を巻き終え、彼の指先を静かに見ていた時のことだ。
ジュリアンは「崖から落ちそうになり、咄嗟に鋭い岩肌を掴んだ」と言っていた。
崖の岩肌。足滑りを起こして必死にしがみついたのなら、手の甲や掌にはもっと深い打撲痕や、不規則な引き裂き傷ができるのではないだろうか。
だが、彼の掌にある傷は――確かに血は滲んでいるものの、どこか浅く、規則的に見えた。まるで、小さな擦り紙か、粗い木片で何度も擦ったかのような傷。爪も全く割れておらず、綺麗な形を保っている。
それに、彼のジャケットに付着した泥。
崖の土と言っていたが、その泥には独特の甘い腐葉土の香りと、我が家の庭の裏手にある沼地特有の黒い粘土質が混ざっているように思えた。ロザンベール家の領地と我が家の領地は接しているが、あの独特の泥は、このあたりの特定の場所にしかないはずだ。
(……まさか)
一瞬、奇妙な考えが頭をよぎった。
(ジュリアン様は、本当に崖から……?)
「……エレノア? どうかしたかい?」
ジュリアンの静かな声に引き戻され、私はハッと顔を上げた。
彼が薄い琥珀色の瞳で、じっと私を見つめている。その瞳の奥には、どこか私の反応を探るような、濃密な観察の色が潜んでいるように見えた。
私は背筋にヒヤリとしたものを感じ、慌てて頭を振った。
「いいえ! なんでもありません……包帯がキツすぎないかと思って」
「ふふ、ちょうどいいよ。とても暖かい。君の手当はいつも優しいね」
ジュリアンは嬉しそうに目を細め、包帯を巻いた手を私の手の上に重ねた。
――何を考えているのだろう、私は。
自責の念が、猛烈な勢いで湧き上がってきた。
ジュリアンが私を喜ばせようと、私への情熱ゆえに怪我までして駆けつけてくれたのだ。それなのに、傷の形や泥の性質を疑うなんて。私はなんて冷酷で、嫌な人間なのだろう。
彼が嘘をつく理由など、どこにあるというのだ?
わざわざ自分を傷つけ、服を汚してまで嘘をつく人間など、この世にいるはずがない。彼の不運を疑うなんて、必死で彼の手当をした自分自身に対しても失礼だ。
(疲れているのかもしれないわ……。最近、夜会続きで十分に眠れていなかったから)
私は心の中で何度も自分に言い聞かせ、浮かんできた小さな疑問を、思考の暗がりへと押しやった。
「ジュリアン様、お召し替えの服をご用意させますね。今日はこのまま、我が家でお休みになってください。お父様にも、あなたのお怪我のことをお伝えして、今夜の夕食は部屋に運ばせますから」
「ありがとう、エレノア。君の優しさが、僕の唯一の救いだ……」
ジュリアンは心から安らぎを得たような顔で、ソファーの背もたれに体を預けた。
私は彼に微笑み返し、部屋の仕度をするために立ち上がった。
しかし、部屋を出る間際、チラリと振り向いた時に見えた彼の側顔――ソファーに深く沈み込み、包帯を巻いた自分の手を愛おしそうにじっと見つめる彼の表情が、なぜだか私の胸に、消えない小さな棘のように刺さった。




