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「エレノア様? エレノア様、朝食の準備が整いました。お部屋に入ってもよろしいでしょうか?」
扉の向こうから、侍女のメイの声がハッキリと聞こえた。
私は弾かれたように跳ね起き、ドアの前のチェストを必死で退け、銀の燭台を外して床に投げ捨てた。鍵を外しドアを開ける。
「メイ……!」
「まあ、エレノア様! お顔色が真っ白ですわ! 一晩中眠れなかったのですか?」
私は安堵からメイに思いっきり涙を流しながら抱きついた。
ガシャン!
「お嬢様!?」
私が駆け寄って抱きつく拍子に、メイが驚いて手に持っていたトレイを床に落とし、私の顔を覗き込んできた。彼女のその丸い瞳にあるのは、変わらぬ無邪気な心配の色だった。
「突然ごめんなさいね……メイ。……ジュリアン様は……!? ジュリアン様はどうなさっているの!?」
私が縋り付くように迫りながら問うと、メイは不思議そうに小首を傾げた。
「ジュリアン様ですか? 今朝はまだ、お部屋で静かにお休みになっておられます。主治医の方もまだお見えになっておりませんが……どうかされましたか?」
「え……?」
私は胸を撫で下ろすと同時に、強烈な脱力感に襲われた。
夢の中のように、ジュリアンが家族全員を巻き込んで大騒ぎを起こしたわけではなかったのだ。彼はまだ、部屋で静かに「哀れな病人」の仮面を被ったまま横たわっている。
「エレノア様、それと……旦那様がお呼びです。一階の応接室へお越しいただくようにと。セレナ様と、ルシアン様も、お待ちとのことです」
「ルシアン兄様も……?」
「ええ。早朝にお見えになりまして、何やら険しい御様子で旦那様とお話しされておられました……」
私は息を飲み込んだ。
夢の中では、家族はジュリアンに騙され、私を責め立てた。だが、現実は――ルシアン兄様も、ここにいる。
「すぐに行くわ。着替えを手伝って、メイ」
「は、はい……」
身なりを整え、足早に一階の応接室へと向かう。
重厚な扉を開けると、室内には凛とした、しかしどこか固い緊張感が漂っていた。
部屋の奥には、我が家の当主である父・ヴァルモワ伯爵が厳しい顔つきでソファーに腰掛けていた。その隣には姉のセレナが寄り添い、向かい側には落ち着いた灰色のスーツを着たルシアン兄様が立っていた。
「お父様……お姉様、ルシアン兄様……」
「エレノア、入りなさい」
父の声は重く、そして静かだった。夢の中で聞いたような、私に対する怒りは微塵も含まれていなかった。
私がソファーの端に腰を下ろすと、ルシアン兄様が穏やかに、しかし芯の通った声で私に語りかけてきた。
「顔色が悪いね、エレノア。……昨夜は、恐ろしい思いをしたのではないかい?」
「え……」
なぜ、ルシアン兄様がすべてを見透かしているかのように言ってくる。私が絶句していると、隣のセレナ姉様が私の手を力強く握りしめてきた。その手は温かく、かすかに震えていた。
「エレノア、ごめんなさいね。私がもっと早く気づいてあげるべきだったわ。あのジュリアンという男が……どれほど恐ろしい異常性を秘めていたかということに」
「お姉様……? どういう、ことですか……?」
「ルシアンが教えてくれたのよ」
セレナ姉様は憤形を露わにし、美しい眉を釣り上げた。
「ルシアンは、昨日からずっと、ジュリアンの身辺や彼が起こしてきた『不運』について独自に調べていたの。そして判明したのよ。彼の馬車の故障も、過去の病気も、そして先日の大階段からの転落も……すべて彼自身が意図的に仕組んだ『狂言』だったということがね」
ルシアン兄様がテーブルの上に、一束の書類と、小さな遮光ガラスの小瓶を置いた。
その小瓶を見て、私は息を飲んだ。
「これは……!」
「彼の部屋の窓の下から、我が家の薬草園に生えている有毒な植物の摘み取り痕が見つかった。さらに、彼がロザンベール家から持ち込んでいたこの小瓶……これは自律神経を乱し、人為的な発熱と動悸を引き起こす生薬だ。彼はこれを常用し、君の前で哀れな病人を演じていた」
ルシアン兄様は真剣な眼差しで私を見つめた。
「エレノア、君も当然、気づいていたんだろう? 昨夜、彼の真実の姿を見てしまったのではないかい?」
「……は、はい」
私はポロポロと涙をこぼしながら、頷く。
「見ました……。ジュリアン様が自分で薬を飲み、包帯の下の傷をナイフで深めているところを……。私を……私を罪悪感で縛り付け、手元に閉じ込めるために……自らを傷つけていたのです……!」
打ち明ける終えると、父がドシンと固い拳でテーブルを叩いた。
「なんという恐ろしい奴だ!」
父の顔は激怒で赤く染まっていた。普段は威厳に満ちた伯爵としての顔しか見せない父が、娘を弄ばれた親としての猛烈な怒りを爆発させていた。
「我がヴァルモワ家の娘を、そのような狂気と欺瞞の檻に閉じ込めようとは! 伯爵家の次男という立場を利用し、我が娘の同情心を逆手に取って支配しようなど、断じて許し難い所業だ!」
「お父様……」
「……ふぅ。エレノア、安心しなさい」
父は、一呼吸入れて、怒りを落ち着かせると、優しく語りかけてくれる。
そして父は立ち上がり、私の肩を力強く抱き寄せた。
「我がヴァルモワ家は、ただちにロザンベール伯爵家に対し、この婚約の完全な破棄を申し渡す。それどころか、我が屋敷内で自傷行為に及び、当家の混乱を招いた罪についての徹底的な追及と、しかるべき賠償を請求するつもりだ。お前をあのような怪物に渡すわけにはいかん!」
「お父様、お姉様……ルシアン兄様……」
夢の中での絶望的な孤独が、家族の愛によって急速に溶かされていくのを感じた。
夢と違って、現実は違っていたのだ。私の家族も、ルシアン兄様も、誰も私を疑わなかった。私の傷つき擦り切れた心を守るために、全員が立ち上がってくれていたのだ。
その後の対応は、迅速かつ酷なほどに冷徹だった。
父・ヴァルモワ伯爵からの烈火の如き抗議と、ルシアン兄様が突きつけた決定的な証拠(自傷用の薬品や、崖での狂言を証言するきこりの調書など)を前に、隣領のロザンベール伯爵家は手も足も出なかった。
ロザンベール伯爵家にとっても、次男であるジュリアンのこの異常な精神性と醜聞は、家名を揺るがす致命的な汚点だった。彼らはヴァルモワ伯爵家に対して平身低頭で謝罪し、提示された破談の条件を全面的に受け入れた。
そして――ジュリアンに対する「処罰」が決まった。
狂言と自傷によって他家の令嬢を精神的に追い詰め、両家の名誉を傷つけたジュリアンは、ロザンベール伯爵家から正式に勘当された。貴族としての籍を剥奪され、血族の歴史からその名を出消されたのだ。
さらに、彼に与えられた行き先は――もともと家督を継げない次男の退路として用意されていた、王国最北端の極寒の地。「北の氷壁」と呼ばれる過酷な砦の一兵卒としての着任だった。
二度と社交界に戻ることも、暖かな日差しを浴びることも許されない、終身の軍役。
それが、己の肉体を壊すことで他人の愛を貪ろうとした男に下された、現実の審判だった。
ジュリアンが我が家から引き立てられていく日。
私は彼の前に姿を現さなかった。自室の窓から、馬車に押し込められる彼の後ろ姿を遠くから見つめるだけだった。
彼は両腕を拘束され、かつての洗練された銀髪を乱しながら、最後に一度だけヴァルモワ邸の二階――私の部屋の窓を見上げた。
遠く離れていても分かった。
彼の薄い琥珀色の瞳は、反省や絶望に濡れてなどいなかった。
底知れぬ狂気と、どこまでもどこまでも執拗な「執着」の光を宿したまま、彼は歪んだ微笑みを浮かべて私を見つめていたのだ。
『また会おうね、僕のエレノア』
彼の唇がそう動いたように見えて、私は窓のカーテンを強く閉め切り、その場に崩れ落ちた。
────
――それから、数年の歳月が流れた。
かつての事件は、貴族たちの噂話の片隅からも消え去り、ヴァルモワ伯爵家に再び穏やかな日常が戻っていた。
私は父と姉の勧めもあり、ゆっくりと心を癒やした後に、父の古い友人の息子である若き貴族子息――ウィリアムと新たな婚約を結び、やがて結婚した。
ウィリアムは、ジュリアンとは正反対の男性だった。
太陽のように朗らかで、誠実で、私を包み込むような温かな優しさを持った人だった。彼は私の過去の傷を知った上で、一度も私を責めず、焦らせず、ただ静かに寄り添い続けてくれた。
やがて、私たちの間には愛らしい女の子が生まれた。
「~♪ ~♪」
陽光が柔らかく差し込む穏やかな子供部屋。
私は揺り椅子に腰掛け、胸の中に抱いた小さな命に向かって、優しい子守唄を口ずさんでいた。
一歳になったばかりの長女、アリア。
夫に似た柔らかな金髪と、私に似た大きな瞳を持った天使のような我が子だ。アリアは私の歌声に合わせて、小さく「うう、あう」と声を出し、小さな可愛らしい手で私の指をぎゅっと握りしめてくる。
「アリア、いい子ね……。さあ、もう眠りましょうね……」
指を握る小さな手首の温もり。
この小さな存在が、私の世界をどれほど明るく照らしてくれているか分からない。
夫のウィリアムは今、領地のアトリエで仕事をしているはずだ。
後でアリアを連れて、庭園を散歩に行こう。冬の寒さはもう去り、庭には鮮やかな春の花々が咲き誇っている。
私は確かに、救われたのだ。温かな家族と、誠実な夫と、愛しい娘を手に入れ、平和な日々を過ごしている。
ジュリアンは、あの日以来、二度と私の前に姿を現さなかった。
北の極寒の砦で、彼は二度と私に触れることのできない遠い存在となったはずだった。
……それなのに。
「……っ」
ふと、抱っこしているアリアが、自分の小さな足を踏み外して膝の上でコロンと転がった。
ほんの些細な、赤ん坊によくある仕草。アリアは何事もなかったように「きゃっきゃ」と笑っている。傷一つついていない。
だが、その「転がる」という一瞬の視覚的な刺激が、私の脳裏に雷鳴のごとく突き刺さった。
――ドスン、ドスンと、大階段を転がり落ちていく激しい音。
――白い包帯から染み出す、赤黒い生血の匂い。
――暗闇の中で爛爛と光る、琥珀色の瞳。
『僕の流す血は、君を僕に縛り付けるための蜜なんだ』
ヒュッと、喉の奥で息が詰まった。
突如として襲いかかる激しい動悸。全身の鳥肌が立ち、冷や汗が噴き出す。
さっきまで暖かかったはずの部屋が、一瞬で氷のように冷たい闇に包まれたような錯覚に襲われた。
(嫌……やめて……! 出てこないで……!)
私は恐怖に引きつりながら、我が子を落としそうになり、慌ててアリアを強く胸に抱きしめた。
「う、あ……」
突然強く抱きしめられたアリアが、不思議そうに私を見上げる。
私は視界が恐怖の涙で歪むのを感じながら、必死で頭を振った。
分かっている。これはただの思い出だ。過去の幻影だ。
あの男はここにはいない。二度と私に近づくことなどできないのだ。
しかし、私の心の中に植え付けられた「狂気のトラウマ」は、消えてはくれなかった。
誰かが怪我をした時。
誰かが悲しそうな顔をした時。
誰かが「自分は不運だ」と漏らした時。
私の胸の奥で、あのジュリアンの影が死んだはずの毒蛇のように鎌首をもたげ、私を嘲笑うのだ。
『君は一生、僕の影から逃げられない』と。
彼が自らを傷つけて私に植え付けた「毒の罪悪感」は、私の魂の奥底に深い傷痕として刻まれ、決して消え去ることはないのだ。
アリアが心配そうに、小さな手で私の頬に触れてきた。その手があまりにも温かくて、私はボロボロと涙をこぼした。
「大丈夫よ……アリア。なんでもないの……ママは、大丈夫よ……」
私は震える声で自分に言い聞かせるように呟き、再びかすれた声で再び子守唄を歌い始めた。
アリアを強く、優しく抱きしめながら、私は確かな平和の中に生きている。
しかし、その平和のすぐ足元には、永遠に埋まることのない、冷たく暗いジュリアンの闇が、今なお静かに横たわり続けていた。




