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不思議な女 上田ユウ  作者: 上田ユウ


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No.9 千円札の記憶

ユウは時折、若き日のある出会いを思い出すことがある。


それは渋谷駅でのことだった。


その日、友人と久しぶりに会う約束をしていたが、なかなか姿を見せない。


落ち着かない気持ちで駅前を行き来していたとき、ふいに一人の若い男が近づいてきた。


「お姉さん、僕、昨日から何も食べてないんだ。500円でいいから、もらえないかなあ」


田舎から出てきて間もない頃で、世の中を疑うことなど知らなかったユウは、


「あったかなあ……」とバッグから財布を取り出した。


ユウはもともと人のいい性分であった。


だが、あいにく小銭は少なく、財布の中を覗き込んでいたその男が、「悪いんだけど、これでもいいかな


あ」と千円札を指さしたとき、『千円!』と躊躇してしまった。


その頃の千円は高額であった。


もたもたしていると、男は財布の中から一枚抜き取り「助かるよ、ありがとう」と笑顔を見せ、


足早に去っていった。


ユウは人助けをしたような、少し温かい気持ちになっていた。


だがすぐに、背後から低い声が響いた。


「あの男は一日中、今のように何人もに声をかけ金を集めているんだ。もうあげてはいけないよ」


どすのきいた声に、背筋がぞくりとしたが 慌てて目を凝らすと、


千円札の男はもう人混みに消えていた。


――たったそれだけの出会いであった。


ユウにもっと力があれば、その後の彼の運命を覗くことができただろう。


実は、ユウに注意するよう声をかけた人物は警官だった。


500円をせがむ男は有名で、逮捕の機会をうかがっていたのだという。


恐喝でも脅迫でもなく、相手が差し出すのを受け取るだけ――


その曖昧さゆえに、罪に問うのは難しかったらしい。


だが、今回、彼は逮捕された。

その出来事が、大きく彼の運命を変えることとなる事をユウは知らない。


けれども確かに、あの日の渋谷駅で、ひとつの人生が別の道へ踏み出したのだった。


逮捕された彼は、かつては有名大学を卒業し、有名商社に勤めていた。


頭脳明晰でありながら、人づきあいが苦手な、ごくありふれた男だった。


だが、勤務を終えて小綺麗なマンションに帰ると、彼は別人になった。


ストレスのはけ口を求めて、パソコンに向かい、こう書き込んだのである。


――「私は苦学して卒業しましたが、高卒のため仕事が見つかりません。二日間、何も食べていません。


どうか、哀れな私にご飯を食べさせてください」


それが始まりだった。


当時は好景気の真っ只中。


瞬く間に何人もの支援者が現れ、彼の思惑は見事に的中した。


人に会うときはヨレヨレのシャツに色あせたジーパン、それが彼を豹変させた。


別れ際、同情心に優越感が加わって、多くの人が哀れな彼にそっと金を握らせてくれた。


面白いように金が貯まっていき、彼は人間関係に疲弊していた会社勤めを、あっさり捨ててしまった。


早朝からすし詰め状態の電車を見ながら、彼はうそぶいていた。


だがバブルの崩壊は、楽で優雅に見えた暮らしを無残に打ち砕いた。


しかしながら、この期に及んで会社勤めは不可能だった。


こうして「500円男」へと転じていったのである。


しかし逮捕は、彼にとって絶好の転機となった。


刑務所で冷静に自分を見つめ直し、持ち前の頭脳で「パソコン」に新たな道を見出したのだ。


出所後すぐにパソコン教室を立ち上げ、今では誰もが知る企業のオーナーとなっている。


渋谷駅でユウが見た、あの小さな出会い。


それは確かに、一人の男の運命を大きく動かす分岐点だった。


この物語にはまだ続きがある。


ある日、ユウは何気なくテレビをつけた。


画面では、ある新進気鋭の実業家が「パソコン教育の第一人者」として紹介されていた。


立派な背広をまとい、落ち着いた口調でインタビューに答えている。


「人生の転機は何かありましたか」


司会者の問いかけに、男はゆっくりと懐に手を入れ、一枚の紙幣を取り出した。


それは、変哲もない千円札だった。


「それはどのようなものなのでしょうか」


「詳しくは申せません。ただ、この千円札をいただいたことが、今の私を形づくる大きなきっかけと


なりました。くださった女性に感謝を抱きつつ、私はここまでやって来られたのです」


千円札――その言葉に、ユウは渋谷駅での出来事を鮮やかに思い出した。


あの“500円男”。


まさか、と思う。しかし確かめる術はない。


けれども、もしもあの日、騙されたと思った千円札が、一人の人生を変えたのだとしたら――。


ユウにとって、それはこの上ない喜びだ。 


私の差し出した千円札でありますように。


テレビの画面を見つめながら、ユウは静かに微笑んだ。



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